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2019/05/01

■節子への挽歌4217:得たり捨てたりしつづける世界

節子
今年ももう、あっという間の5月です。
ともかくこの頃は時間のスピードが速くなっています。
いいかえれば私の身体速度が遅くなっているのでしょう。
しかし、だからといって、ゆったりと過ごせているわけではありません。
不思議な話ですが。

巡礼者の鈴木さんがそろそろまたサンティアゴに出かけそうですが、私はなかなか次の世界に旅立てずにいます。
そろそろ第4期にと一度は思ったのですが、その決断をまた先のばしてしまいました。
本を読むと世界が広がったり深まったり、あるいは変化したりで、心がまた揺れるので、本もやめようとも思っていましたが、これもまだ抜けられずにいます。

鈴木さんは「平成最後の断捨離」を実行しているようですが、私はまったく手付かずです。
物の断捨離はそう難しくはないと思いますが、とり散らかっている意識や思いは、なかなか整理できません。
それができない限り、物の断捨離は難しい。

節子が残していった物も、まだかなり取り残されています。
困ったものですが、思いと物はつながっていますから、そう簡単ではないのです。
まずは「思い」や「世界」を捨てないといけません。

しかし、「思い」や「世界」は、自分一人のものではないので、勝手には捨てられないのです。
書籍や資料、あるいは道具や品物をもういらないと思って廃棄した後に、なぜか不思議と、それが必要になってしまうことを私は何回か体験していますが、たぶんこれは、それを通してつながっている世界からの戒めなのだろうと思っています。
世界は私だけのものではないのです。

鈴木さんが断捨離できるのは、「巡礼」のおかげかもしれません。
鈴木さんは巡礼を通してたくさんのものを得るそうですが、それがあるから断捨離ができるのでしょう。
捨てるということは得るということに支えられている。
ただ捨てるだけでは反動がある。

捨てるということは得ることの手段であり結果なのかもしれません。
本当は、捨てることを通してなにかを得たがっている。

昨日からの日本中でのバカ騒ぎ(としか思えない改元祭り)は、実は多くの人が、何かを捨てたがり、何かを得たがっているのでしょう。
しかし、捨てることで求めているものが得られるとは限りません。
大切なのは、やはり「捨てる」ことではなく「得る」ことです。
しかし、新しい世界を得ることは自分だけではできません。

こう書いてきて、気が付きました。
時間が速く進むということは、時間を断捨離しているのではないかと。
また難問に出会ってしまいました。
少し考え直さないといけません。
書きだした時と反対の結論になってしまった。

さて今日も悩ましい1日がはじまります。
五月晴れとは全く違って、雨空で湿気も多く、さわやかでない朝です。

 

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