■節子への挽歌4198:我慢せず、我儘に、しかし我執からは解放される生き方
節子
人はなかなかな変われないものです。
あまりに自分の愚行に自己嫌悪に陥ってしまうのですが、人生最後くらいは平安に生きたいと思っているのですが、相変わらず我が出てしまい、余計なひと言を口にしてしまう性向から抜け出せません。
今日も湯島でサロンがあったのですが、また余計なひと言を加えてしまいました。
困ったものです。
「我儘」と「我慢」という言葉の「我」は同じものでしょうか。
これは以前から気になっていることです。
私は「我が儘に生きる」ことを大切にしていますが、だからといって「我を通す」生き方は避けたいと思っていますし、「我慢」もしたくないと思っています。
「我慢」という言葉はとても多義的です。
最近では、「自己主張を抑える」とか「忍耐」とかいう意味でつかわれますが、本来は、「我に執着し、我をよりどころとする心から、自分を偉いと思っておごり、他を侮ること」といった意味だと辞書には書かれています。
日本大百科全書(ニッポニカ)にはこんな説明があります。
長いですが、ほぼ全文を紹介します。
サンスクリット語asmimnaの訳語。
仏教教義においては、心の傲りを「慢」と称して煩悩の一種に数えているが、それに7種あるという。
そのうち、「私は劣れるものより勝れているとか、等しいものと等しいのである」というように「私は……である」と考える心の傲りが狭義の慢であり、「五取蘊(ごしゅうん)(5つの執着の要素)は我(が)あるいは我所(がしょ)からなるものである」と考える心の傲りを我慢と称するのである。
しかし一般には、自己を恃(たの)んで他人を軽んずる意に用いられ、その意味では我執とほぼ同様の意味である。
我執とは、なにかにつけ「俺が俺が」と自己主張してやまない態度をさす。仏陀は、「人の思いはどこにでも飛んで行くことができる。だが、どこに飛んで行こうとも、自己より愛しいものをみつけ出すことはできない。それと同じように他の人々にも自己はこよなく愛しい。されば、自己の愛しいことを知るものは、他の人々を害してはならない」と、自己の立場を止揚して他者の立場に転換することを強調したのであるが、これは、「汝の隣人を汝自身を愛するように愛せ」と説いたキリストの精神と相通ずるものである。
我慢と我執が同義というのは、とても興味深いところです。
さらに、それが「博愛」につながっていくのは、もっと興味深いです。
たしかに、本当に自分のためを願ったら、小さな自分だけではなく、自分がそこで生きている社会全体のための方が、優先されるはずです。
これは私の体験から来ていることですが、小さな自分の「我執」から抜け出すのは難しい。
我慢せず、我儘に、しかし我執からは解放される。
そういう生き方を今年は、何とか実現したいと思います。
節子との関係では、それができたのですから、できないはずはないでしょうから。
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