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2019/04/04

■節子への挽歌4166:「会う」ことが「別れ」を意味する

節子

80代後半のいとこが亡くなりました。
2階の自室でパソコンをしていたそうですが、食事になっても降りてこないので、奥さんが呼びに行ったら脳梗塞の意識不明状態の手遅れだったそうです。
こういう逝き方は、客観的に考えれば、本人にも苦痛もなく、遺族にも一時の悲しみしか残さない、潔い逝き方にも感じますが、本人や遺族にとってはどうでしょうか。
どう考えればいいか、少し悩みますが、ただただ冥福を祈るだけです。

私のいとこたちもいずれも70歳を超し、いつどうなってもおかしくない歳になりました。
何人かとは時々会いますが、そうめったに会えるわけではありません。
みんなに声をかけて、一度、会おうかという話もありますが、遠く離れている人や最近ほとんど音信のない人、あるいは入院や施設入居の人もあり、実現していません。

元気な男性たちで今年も旅行を予定していますが、考えてみると、これはある意味での「別れの旅」でもあるのです。
来年が保証されているわけではないからです。
いやだからこそ、誰かともなく、旅行の話が出てきたりするわけです。
今年も、今月、旅行を予定しています。

「会う」ことが「別れ」を意味するというのも、この歳ならば、こそです。
最近湯島にいろんな人が来ますが、そうした人と会っていて、これは私への「別れ」の挨拶なのだとなんとなく感ずることもあります。
もちろん本人はそんなことなど考えてはいないでしょう。
しかし、人は自らの意思で動いているわけではありません。
意思とは無関係に、人は動くものなのです。

「会う」ことが「別れ」を意味するという意識は、最近では失われているかもしれません。
今は遠く離れていても、電話やネットで容易につながれるからです。
それにそもそも、生きることが容易になってきていますから、明日もまた生きているとみんな確信していて、死とは無縁の生き方をしている人がほとんどです。
だから、また次に会えるとだれもが確信して生きているわけです。
しかし、死はいつ訪れるかもしれません。
この歳になると、そういうことが少しわかってきます。

だからといって、誰かと会うたびに、これが最後だなどと思っていたら、やっていられません。
元気なのに突然逝ってしまうことがある。
そのことは、意識しておかなければいけません。
他者も自身も、です。

今日は時間があるので、桜でも見に行こうと思います。
こういう気のなったのは、本当に久しぶりです。

 

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