■節子への挽歌4177:人生は「小説より奇なり」
節子
人の人生は実にさまざまで、まさに「小説より奇なり」です。
最近音信が途絶えた友人(Aさん)がいます。
先日、そのAさんを介して知り合った、別の友人(Bさん)にお会いしたのですが、共通の友人であるAさんのことが話題になりました。
あまり詳しくはかけませんが、私もBさんも、Aさんからちょっと迷惑をこうむっていたのです。
そして、それぞれに音信がなくなったというわけです。
BさんはAさんに関して、子ども時代のことをよく知っています。
それで、お会いした時に、Aさんの昔の話を聞かせてもらいました。
私が全く知らなかった話です。
どんな話なのかは、伝聞なので書けませんが、もしそれが本当であれば、まさに「小説より奇なり」の話です。
いや、松本清張の小説のような話ともいえます。
私のところにはいろんな人が来ますから、そうした話はこれまでもありました。
大麻やヤクザの世界にかかわる話もありましたし、かなりの被害にあったこともあります。
最近はもう忘れられていますが、M資金に関わる話もあれば、清王朝につながる話までありました。
長く生きているといろんなことがあります。
きれいに整理された表面の裏に隠されている、どろどろした現実を垣間見ることも、いろいろとありました。
私が生きてきたのは、日本の社会が大きく変わってきた、そういう時代だったのです。
今ほど、現実と表面がきれいに分離されてはおらず、どこかでつながっていたといってもいいでしょう。
面白い時代でもあり、哀しい時代でもありました。
もちろん今も「飢餓死」や「不審死」はあります。
しかし、それもこれも、特別の「事件」として処理されますが、私が子どものころは、まだ日常生活につながっていたように思います。
そういう時代を生きてきたおかげで、取り繕われた「きれいな」今の社会にはリアリティを感じないのです。
創られた人生を生きていかないと、生きづらいというおかしな社会。
もっと素直な自分を堂々と生きればいいと、思っていましたが、先日、Aさんの話を聞いてから、そうできない人がいた時代と今とどう違うのかが、わからなくなってきました。
イリアスの時代のギリシア人には「生命」は宿っていても、「心」はなかったと思っていましたが、「心」が宿るとともに、「生命」が失われてきたのかもしれません。
少し私も、考え直さなければいけないようです。
数日前に聞いたAさんの物語が、どうも心を離れません。
Aさんにはだまされて被害を受けたと思っていましたが、彼女は真剣に生きていたのかもしれません。
一度見た彼女の「荒れた様子」に、それが現れていたのかもしれません。
今日はおかしなことを書いてしまいました。
Aさんのことは節子も知っていますが、節子はどう感じていたか訊きたかったです。
人生はまさに「小説より奇なり」です。
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