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2019/04/24

■節子への挽歌4205:家族の物語

節子
最近、いろんな人たちから「家族の物語」を聞く機会が、なぜか多いのです。
先日、挽歌でも書きましたが、家族にまつわる本も何冊か読みました。

家族には、それぞれ表情と物語があります。
よく家族が壊れてきているといわれますし、私もそう感じていますが、壊れているというよりも変質しているというべきかもしれません。

私に関して言えば、私の家族はそう変わっていないような気がします。
もちろん、両親が中心になっていた家族と私たち夫婦が中心になっていた家族、そして節子がいなくなってからの家族は、それぞれに違いますが、いずれも私の生活の支えであることには変わりはありません。

家族は、人を育て、人をまもる、個人にとっては拠り所の一つだろうと思います。
私が、いまのような性格になり、いまのような生き方をしているのは、私が育ち生活の基盤にしてきている家族のおかげです。
もし、家族がなければ、いまの私はありません。

「家族」は自分一人でつくれるわけではありません。
また、血縁も家族にとっては本質的な要件ではありません。
そもそも夫婦家族がそうであるように、家族の核にあるのは、血縁ではありません。
「血のつながり」は、家族にとっては本質的なものではないでしょう。

節子がいなくなってから改めてそれがよくわかりますが、夫婦と親子とは全く別次元のものであるように思います。
両親や節子がいなくなった今、私の家族は娘たちですが、娘たちは要するに自分の延長的な存在でしかありません。

この2か月の間に、なぜか4人の人からかなり詳しい家族の物語をお聞きしましたが、いずれも兄弟姉妹の話でした。
おひとりは、最近、音信不通になってしまった人ですが、その人のお知り合いの人からいろいろとお話をお聞きしました。
後の3人は、ご自身のお話です。
いずれも兄弟姉妹の関係の話です。
夫婦よりも、やはり血のつながりのある兄弟姉妹のほうが、物語性があるのでしょうか。
あるいは、親子と違って、同世代なので、その物語は生々しいのかもしれません。

「家族」が問題になっていますが、問題は「家族」ではなく、「血縁」なのかもしれません。
血のつながりは家族の本質ではないとすれば、変質ないし壊れだしているのは、「家族」ではなく、「血の意味」かもしれません。

ちょっと大きな問題すぎて、まだよくわかりませんが、生きる基盤としての「家族」の問題はやはり考えていくべき大切な課題のようです。

 

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