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2019年5月

2019/05/31

■節子への挽歌4273:人の命よりも大切なものがあるか?

節子

昨日、映画「ミケランジェロ・プロジェクト」のことを書きましたが、そこで映画の中で出てくる「人の命よりも大切なものがあるか」という問いについて書きました。
その部分だけをフェイスブックに書いたのですが、折戸さんからコメントの書き込みがありました。

「人の命よりも大切なものがあるか」という問いには答えられませんが、私の命より大切なものがある!とは断言出来ます!

まさに折戸さんらしい、誠実なコメントです。

折戸さんが、自分の命よりも大切だと考えているものも心当たります。
「はい、私も同感です」とすぐに書かせてもらいました。
折戸さんの気持ちが痛いほど伝わってきました。

ところで、映画の中でのセリフはこうです。
「命より尊い美術品はない、と私は言ったが、それは間違っていた。美術品は歴史であり、歴史は命の蓄積だ」。
美術品奪還プロジェクトのリーダーを演じるジョージ・クルーニーが、2人の仲間を失った後、残された仲間たちに語った言葉です。
この文脈では、むしろ折戸さんが言うように、「自分の命より大切なもの」という書くべきでした。
他者の命は、私には評価できないことを忘れていました。

折戸さんは伴侶に先立たれています。
折戸さんにはお伝えしていませんが、今日1日、折戸さんと「悲嘆を共にする」ような気分で過ごしました。
そして、自分の命よりも大切なものと出合えた人生に感謝しました。
たぶん折戸さんもそう思っているでしょうから。

 

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■節子への挽歌4272:もうひとつの開墾作業

節子
異常値を続けていた血圧が少し収まってきました。
いろんな方が心配してメールをくれましたが、もう少し様子を見ることにしました。

今日は歯医者さんなど、地元での用事がいくつかあったので、空いている時間は自宅本を読んでいました。
かなり昔の本で、ピエール・クラストルの「国家に抗する社会」です。

先日の万葉集サロンで気づいたのですが、言葉から歌が生まれたのではなく、歌から言葉が生まれたということが、アメリカ先住民の話として書かれていました。
もっとも私がそう思っているので、そう読んだだけかもしれません。
しかし関心を持ったテーマが書かれている本を、不思議と偶然に読むことが多いです。

今日は畑はやめて、玄関先の中庭の草刈りです。
目立つところなので、ともかく野草を刈り取ったのですが、数年間放置していたので、まさにジャングル状況です。
畑の開墾よりは楽でしたが、もうひとつの開墾作業でした。
狭い場所なのですが、45リットルの袋4つの収穫がありました。
それにしても植物の成長力はすごいです。

中壁にはジュンの制作したスペインタイルも掛けていましたが、それらはまったく見えない状況です。
私が置いていたフクロウの置物も見えないところに転がっていました。
家を管理するのも本当に大変です。
節子はよくやっていました。

ジャングル庭の作業が着かれたので今日は畑はお休みにしました。
いささか心配ですが、行くとまたついついはまってしまいますので。

だいぶ、心身共に回復してきました。
78歳のスタートしては、まあ良しとしましょう。
誕生日メッセージも幸いに来なくなりましたし。

 

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2019/05/30

■節子への挽歌4271:誕生日の娘たちとの将来の話し合い

節子

午後から孫母娘、いや娘母娘がきました。
私がいなくなった後のことも踏まえて、ちょっと話し合いをしました。
誕生日にふさわしい話題かどうかはともかく、まあいい親子関係です。

しかしだからと言って問題がないわけではありません。
節子がいたらよかったのでしょうが、娘たちにとっては父親はあんまり必要な存在ではないのです。
先に行くべきは、やはり父親です。
娘たちと話していて、いつもそう感じます。

まあしかし、そう難しい話をしたわけではなく、私は最後までこの家に住みたいという話をしただけです。
節子と同じく、この家で最期を迎えられればと思っています。

私も78歳というわけです。
こんなに長く生きるとは、私もですが、節子も思ってはいなかったでしょう。

今日もまた節子のお姉さんから野菜がどっさり送られてきました。
孫も畑に来ましたし、まあ、それなりにい誕生日でした。

 

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■節子への挽歌4270:78歳の誕生日

節子

朝起きてフェイスブックを開いたら、節子も知っている田中さんから、誕生日おめでとうと書き込まれていました。
それで今日が誕生日だと気づきました。
そういえば、2日前に、孫親子がケーキとプレゼントを持ってきてくれ、孫が小さな声で「ハッピーバースデイ」と言ってくれました。
それをすっかり忘れていました。

フェイスブックにはそれからいろんな人がコメントやメッセージを送ってくれますが、まあこうした騒ぎは私の趣味ではありません。
なかには既成の動画やカードを送ってきてくれますが、こういうのは私の趣旨にも反します。
しかし、昨年とは違い、素直に感謝することにしました。

実は今日も朝、畑に行こうと思っていたのですが、どうも調子がよくありません。
ところが、どうも目の調子がおかしい。
時々起こる症状ですが、ゆらゆらと視野が揺れるのです。
血圧かもしれないと測ってみましたが、下が異常に高い。

30分ほどで元に戻りましたが、畑はやめて、目はあまり使わない方がいいのでしょうが、早朝から映画を観てしまいました。
「ミケランジェロ・プロジェクト」です。
ドイツ・ナチから美術品を取り戻す実話に基づく映画です。

「人の命よりも大切なものがあるか」という問いかけに、「ある」と答えるジョージ・クルーニーの言葉で、いつも考えさせられる映画です。
最後のシーンは、その活動で命をなくした人の父親と子供が、彼が守った聖母子像を見ているシーンなのですが、いつも涙がこみ上げてきます。
人の命よりも大切なものはあるのです。
この映画は、それを思い出させてくれます。

それはともかく、相変わらずフェイスブックの書き込みは続いています。
いろんな人が健康に気を付けてとか、頑張ってとか言ってくれますが、言うまでもなく、私は健康にも気をつけずに、頑張りもせずに、いつものようにお天道様のご意向に沿って、素直に生きるだけなのです。
ただ、今日は改めて、人の命より大切なものはなんだろうかを考える1日にしようと思います。

騒がしい誕生日は好きではないのです。

 

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2019/05/29

■節子への挽歌4269:会社決算

節子

会社の決算をしました。
節子がいたころは、節子と税理士にお任せでしたが、いまは経済的な活動はしていない上に、収入もないので、私が自分で管理し、税務申告もしています。
あらかじめお金をもらうということでの仕事はこの10年ほどしていませんが、結果的にお金をくれる人もいるのです。
まさに「布施」スタイルです。

しかし、そういうお金は部屋の家賃にも届きませんので、私への報酬は皆無です。
それでも会社を維持しているのには、節子と一緒にやっていた会社をなくすことに抵抗があったからです。

会社の借金もありますが、いまはもう私からの借金になっています。
しかし会社で利益を上げることはほとんどないので、いまもまだ700万円以上の債権が私にはあるのです。
回収できるめどは全くありませんが。

とはいうものの、今期も10万円ほどの利益がでました。
収入も少ないですが、人件費もゼロですので、経費も少ないのです。
私の報酬はもちろんありませんが、活動するために、給料日にマイナス給与と言って、私が会社に払い込むこともなくなりました。
パーキンソンの法則ではないですが、「入りによって出るを決める」と言う決算方式なのです。

しかし必ず必要なのは事業税です。
事業税を支払うために7万円以上の利益を上げておかないといけないのです。
まるで事業税を支払うために会社を維持しているような感じなのですが、まあそれも仕方がありません。
それに今年は、法務局への報告届をしていなかったため(そんなことが必要とは全く知らなかったのです)、10万ほどの過料も払わされてしまったので、その資金も利益で出さないといけなかったのです。

でもまあ、なんとかうまくいきました。
ちょっと一安心です。

 

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■湯島サロン「自殺未遂者からのメッセージ」のご案内

今回のサロンは、いささか過激なタイトルですが、メッセージの内容は、「なぜ私は全国辻説法をライフワークにしているのか」という自殺未遂体験者からの呼びかけです。

私が、自殺に追い込まれることのない社会づくりに集中的に取り組んでいたころ、出会ったのが吉田銀一郎さんです。
吉田さんは、かつて自殺を試みたことがあります。
幸いに生還し、その後は、自らの体験を踏まえて、自殺対策活動に取り組んでいます。

最近は、自殺対策への関心も高く、さまざまな取り組みが行われています。
しかし、当事者ともいうべき自殺未遂体験者の声に耳を傾けてくれる場が少ないことが、吉田さんには不満です。
そこで、吉田さん自身、早い時期からカミングアウトし、いろんなところに働きかけていますが、状況はあまり変わりません。

そこで、今年81歳を迎えるのを機に、吉田さんは改めて全国に向けての「辻説法」を始めることにしました。
そのためのバナーや衣装も用意しました。
そして、まずは自分が住んでいる杉並区から活動を始めだしていますが、できればたくさんの人にもぜひ自らの体験談を傾聴してほしいと思っています。

そんな吉田さんに、湯島のサロンでも話してもらうことにしました。
吉田さんは、「なぜ私は全国辻説法をライフワークにしているのか」も伝えたいといっています。
そして、全国辻説法をどうしたらもっと広げていけるかのアドバイスをもらいたいと言っています。

テーマは重いですが、吉田さんは明るい人なので、明るいサロンになるはずです。
みなさんの参加をお待ちします。

〇日時:2019年6月15日(土曜日)午後1時半~午後3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「なぜ私は全国辻説法をライフワークにしているのか」
〇話題提供者:吉田銀一郎さん(自殺未遂・克服体得者魂の語り部)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2019/05/28

■湯島サロン「葬儀や供養に関する自由な話し合い」の報告

葬送や供養にまつわることに関するQ&A型サロンを1~2か月に一度くらいの頻度で開催しています。
3回目は「戒名」をメインテーマに取り上げました。

最初に、中下さんから、戒名の意味などに関して、宗教民俗学の資料「人の一生と霊魂の浄化」の図もつかいながら、わかりやすく話してもらいました。
また、現在の日本人が、葬儀の必要性や葬儀の形式をどう考えているのかを、調査データに沿って解説してくれました。
葬儀について本人を交えて事前に話し合いをしていますかという質問に、1/3以上の人が話したことがあるという調査結果は意外でした。

中下さんの話を聞いた後、Q&Aサロンに入りました。

Sougi1905
「戒名」に関しても、その意味はあまりきちんとは理解されていないケースが多いように思いますが、こうしてしっかりと話を聞くと、問題は、その仕組みをどう活かすかということが大切だなと気づきます。

参加者の一人も、こうしたことをほとんど知らずにいたが、いろいろと知っていくと、葬儀や供養に関しても、考え方が変わってくるという話をされました。
なかには、自分の葬儀に関する方法は決めていたが、何回か話を聞いているうちに、もう少し考え直そうかという気になってきたという人もいました。
せっかく長い時間をかけて育ててきた、日本古来の「死の捉え方」を、私たちはもっと学ぶことで、生き方もまた変わるような気がします。

Q&A型サロンは、毎回、同じような話も出ますが、Q&Aを通して、毎回新しい気づきがあります。
しばらくは継続していく予定です。
何かテーマをご希望の方がいたらご連絡ください。

次回は、6月29日(日曜日)の午前10~12時を予定しています。
一度、お墓の話をしてもらった篠田さんにも参加していただき、お墓の話と供養の話を中心に、Q&A型サロンを開催する予定です。
また詳細が決まったら改めてご案内させてもらいます。

 

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■第2回万葉集サロン「万葉に開かれて行く〈見る〉古代」の報告

講座型万葉集サロンの第2回目は、「見る」の呪的意味から、倭大后(天智天皇の皇后)と額田王の歌を中心に、万葉的拡がりを追って、「見る」から「個へ」の誕生を感ずるサロンでした。
10人を超す参加者がありました。

Manyou1905

最初に作者不明の歌から入りました。

 花細(ぐわ)し葦垣越しにただ一目相(あい)見し児ゆゑ千度嘆きつ

ここでの「見る」は恋につながっています。
古代では、見ることは「愛」や「思い」を伝える行為だったそうです。

そこから、「見る」と言うことのもつ呪詞・寿詞の力と「見るな」の禁忌の話。
黄泉の国に亡き妻を取り戻しに行ったイザナギが、妻を見てしまったために失敗した話。
国土を賛美しての予祝儀礼としての国見歌の「見れば…見ゆ」の話と広がりました、
「見る」ことで、豊かな明日が発現してくるわけです。

それぞれだけでも1回分の内容がある歌ですが、こうしてつなげて読んでいくと、升田さんが意図した「個」の誕生が伝わってきます。

とまあ、こういうように紹介しても、参加されていない人には何が何だかわからないかもしれません。
そもそも講座型サロンの報告に無理があるのかもしれません。

参加者の中に、日本神道の立場から万葉集を読み解いているグループの人が2人参加していましたが、そこでの捉え方と升田さんの捉え方の違いが面白かったという意見もありました。
いつか、神道的立場からの万葉集の話もしてもらえるかもしれません。

多賀城市で、万葉を読みあっている人も参加してくれました。
万葉を読み解く活動は各地で行われているようです。
そこでどんなことが行われているのかにも興味があります。
どうも万葉の心は今なお健在のようです。

升田さんは、文字で読むのではなく、詠んでもらってそれを聞くのがいいといいます。
また理解しようとせずに、直感で受け取るのがいいとも言います。
ということで、いつか、升田さんの万葉集朗誦のサロンもやってみたくなりました。
今回は琵琶奏者が参加していましたので、彼女に琵琶を奏でてもらうのも面白そうです。
ちなみに、升田さんも琵琶を演じますので、升田さんの弾き語りもあり得ます。

「見る」ことと「詠む」こと、そして「言葉」へと、どうしてスタイルが変わってきたのか。
最初の言葉は、歌だったのではないか。
私としては、そんな議論もしてみたかったのですが、急ぎすぎてはいけません。
しかし、次回はますます楽しみになりました。

報告は難しいので、次回からは録画しようと思います。
升田さんが承知すれば、の話ですが。

 

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■節子への挽歌4268:風の瞑想

節子

まるでお天道様が怒っているように、朝から風が強いです。
日米のトップが、能天気にゴルフや相撲を見ていることへのメッセージかもしれません。
トランプ大統領が羽田に到着する直前に、そのゴルフ場近くを震源とするちょっと大きな地震が起きたのも、実に納得できます。
お天道様は、やはりしっかりと健在なのです。
ちなみに、私は安倍さんは好きにはなれませんが、トランプはどちらかと言えば好きです。

そんな中を、小作人である私は、朝から畑に行ってきました。
よれよれの汚れたズボンとシャツで、壊れかけた自転車で、いささか危うい感じで畑に出かけている私を見たら、みんな心配してくれるでしょう。

ちなみに、自転車どこに行っても鍵をかけないでもなくなることはありません。
私の自転車よりもいい自転車が、時々、ゴミ捨て場に廃棄されていますので、盗まれる心配はないのです。
いや万一誰かが乗っていってくれたら、私としてはむしろうれしいのです。
有効利用されたわけですから。
捨てるのは長年お世話になった自転車を捨てる勇気が、私にはないのです。
困ったものです。

しかし、お天道様は、何に怒っているのでしょうか。
あんなに暑い日をもたらしたり、今日は怒りが聞こえてくるような風を吹かせたり、高齢の小作人には過酷な日々です。

風の音を聞いていると、しかし、自分が叱られているような気がしてなりません。
窓を閉めれば、音はそう聞こえないのでしょうが、お天道様の小作人としては、そういうわけにもいきません。

しばらくは「風の瞑想」です。

 

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■節子への挽歌4267:よく働きよく遊ぶ、という豊かな生活

節子
風の朝です。
暑さはヤマを越したようです。
生活のリズムがなかなかつくれません。

昨日、節子の姉から電話がありました。
敦賀に住んでいますが、暑中お見舞いの電話でした。
暑い中を利賀の「そばまつり」に夫婦で行ってきたそうです。
節子は行ったことはありませんが、私は節子がいなくなってから連れて行ってもらったことがあります。
挽歌にも書いたことがあるような気がします。

姉夫婦は2人とも働き者です。
いつも、お米や野菜を送ってきてくれます。
しかし、高齢になって、米づくりは今年でやめることにしたそうです。
農作業は大変なので、姉は腰が曲がってきたそうです。

夫婦ともども根っからの「善人」です。
よく働きよく遊ぶ、という、とても豊かな生活をしています。
金銭は、人との付き合いを豊かにするためにあるという感じで、無頓着です。
農業をしっかりとやっている人たちは、いわゆる「生存的安心感」があるので、お金への頓着はないのかもしれません。

その生き方を、節子はいつも、「あの夫婦はお金もないだろうに豊かに人生を楽しんでいる」と言っていました。
姉夫婦から、私が学んだこともたくさんあります。
2人はまさにお天道様に従って生きているような気がします。
だからと言って、苦労がないわけではありません。
しかし、傍から見ると大変な「苦労」も、2人は自然に受け入れているのです。

人間はどうして今のような貧しい生き方になってしまったのか。
今の自分たちの生き方の貧しさをうけいれたくないために、昔の人の暮らしは貧しかったと思いたい人が多いでしょうが、歴史上、もしかしたら、いまほど貧しい時代はないのかもしれません。

 

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2019/05/27

■節子への挽歌4266:メダカが死んでしまうほどの暑さ

節子

暑さで室内の水槽の水温が上がったせいか、メダカが死んでしまいました。
水槽を2つに分けていたので、全滅にはなりませんでしたが、どうもメダカを買うのは難しいです。

ところが同じ水槽に棲んでいる芝エビは元気です。
それも以上に大きくなっています。
もしかしたらこの芝エビがメダカを食べているのではないかと疑っているのですが、今回はメダカの遺体が残っていましたので、違っていたようです。
疑ってしまい、反省しました。

暑い中、野菜の苗を買いに行ってきました。
畑らしくなってきたのですが、野菜がなかなか育ちません。
種をだいぶ蒔いたのですが、あまり出てきません。
やはりきちんとした種を買ってこないといけないのかもしれません。
昨年の野菜の種を収穫しておいて、それをともかくばらまいただけという粗雑なやり方なのがいけなかったのでしょう。
温室もおかしくなってきています。
開墾作業はいいですが、育種は難しいです。

今日は暑いので、夕方、薄暗くなってから畑に行きました。
暗くなるまでまた開墾作業をやってしまいました。

それにしてもいくらやっても、いくらでもやることがある。
自然との闘いは底なしです。

とても暑い、でもとてもカラッとして、気持ちのいい1日でした。
明日は、少し現世の仕事をしなければいけません。
今日中にやることをみんな先延ばししてしまいましたので。

 

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■節子への挽歌4265:今日は無為のお休み日にしました

暑いです。
それで畑はあきらめました。
今日はいささか疲れがたまっていますので、畑で倒れては迷惑をかけますので。
幸いに今年はまだ畑仕事では倒れていないです。

それで自宅で録画していた「ストーンヘンジの謎」を見ていました。
四大文明などよりも古い文明の痕跡だといいます。
たしかにこの数十年の間に、私が学校で学んだことの多くは修正されています。
しかしほとんどの人が学校で学んだ知識を未だに信奉しています。

サロンでよく話題にもなりますが、人は歴史と共に進歩し、生活も今が一番豊かだなどと思っている人が圧倒的に多いです。
私は平安時代と大正時代に生きていたわずかな痕跡はあるのですが、実際には江戸時代も縄文時代も生きた記憶が皆無なので、何とも言えませんが、少なくとも今よりも豊かな生活があったように思えてなりません。
権力者が勝手に行った、前の時代への否定的な評価による情報操作には与しないくらいの知性は、幸いに残っています。

ストーンヘンジには行ったことがありませんが、そこで売っている石のかけらは持っています。
娘がお土産で買ってきてくれたのですが、整理のよくない私ですので、いまは行方不明です。
でもまあ、家にどこかにはあるはずです。
あると思えが、あるのです。
彼岸に行った人も、いると思えばいるのと同じです。

その番組に出ていた3人の専門家が異口同音に言っていたことがあります。
ストーンヘンジでは、有名なエンタシス構造がとられているのですが、あれは人の感性の当然の結果だというのです。
私は学校で、法隆寺の柱のエンタシスはアテネのパルテノンの技術が伝わってきたものだなどと学びましたが、そんなはずはないと、みんなは発言していました。
ストーンヘンジは、なにしろパルテノン神殿の2000年ほど前の作品なのですから。

そういえば、一昨日の万葉集サロンでも黄泉の国を訪ねたイザナギの話が出ましたが、これはギリシア神話など世界中にある話です。
文化の伝播ではなく、人としての感性の結果だと考えるのが納得できます。

また脱線しましたが、メールや電話で、今日はいろんな宿題が届きます。
でもまあ、今日はすべての依頼を忘れて、ちょっとお休みです。

こんな気持ちのいい初夏日は、無為に過ごすのがいいでしょう。
空の青さも、適度ですし。

 

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■節子への挽歌4264:「まさかのおさむ」

節子

昨日は真夏のような暑さでした。
湯島天神は春の例大祭でしたが、私は葬送シリーズのサロンをやっていました。

帰りに湯島天神に寄りましたが、暑さのせいか、あまり混んではいませんでした。
節子とよく来ていたころに比べると、湯島天神もだいぶ変わりました。
ユカも一緒だったので、いつものように不忍池を通って、上野に出ようかと思いましたが、あまりの暑さにやめました。
そういえば、湯島から上野に向かう裏道もかなり様子は変わってきています。
節子と立ち寄ったお店もだいぶなくなってしまいました。

それにしても暑くて、もう歩いているだけでも疲れます。
しかし、これは暑さのせいだけではないことに気づきました。
歳をとると「生きているだけでも疲れる」のです。
それを忘れるために、認知力を低下させる。
つまり、認知症は生きるための自己防衛策なのではないかと思います。
だとしたら素直に受け入れなければいけません。

2月から取り組んでいた「認知症予防ゲーム」のDVDが完成しました。
中心になった人が頑張ったので、とてもいいものができましたが、あんまり頑張ったので、私は途中で脱落しました。
しかし動画の中には私も出ています。
節子が見たら、「まさかのおさむ」だと笑うことでしょう。

「生きているだけでも疲れる」などというのを聞いたら、やはり「まさかのおさむ」と思うでしょう。
最近、「まさかのおさむ」が増えてきています。

成長したのか、脱落したのか。
「本来のおさむ」なら、「成長」に決まっているというでしょうが、最近はそうも言えなくなっています。
困ったものです。

さて今朝も畑に行こうと思います。
熱中症を計画して、ちょっとだけ。

 

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2019/05/26

■節子への挽歌4263:いつも最後の場と考えて人と付き合いたい

節子
しばらく、といっても2か月ほどですが、音信不通になっていた人が2人いました。
節子もよく知っている人ですが、最後はちょっと論争の結果の音信不通だったので、少しだけ気になっていました。
2人とも私とは本音で激論する相手だからです。
私は時々、自分では気づかずに、言葉で相手を傷つけることがあります。
その一人からは、何回か注意されています。

ところが、その一人から2日ほど前に電話がありました。
何のことはない、メールアドレスが変わったので、私が出していたメールが届いていなかったのです。

そして、もう一人からは今朝、論文が届きました。
この間、その論文を書くために外部との縁を遮断していたのです。

気にしていたのが報われませんでした。

しかし、その2人はいずれも私と同世代です。
いつ「ころり」といってもおかしくありません。
日ごろから、「それが最後の場」になってもいいような付き合いをしておかなければいけません。

しかし、これは別に高齢者に限った話ではありません。
だれとでも、そうでなければいけません。
明日があることは、保証されていないのですから。

いつも最後の場と考えて人と付き合いたい、と思ってはいるのですが、それを実行するのは難しいです。
ついつい明日があるからなどと思っています。
心しなければいけません。

今日から、改めてそう生きようと思います。

今朝の畑で辿り着いたことです。
畑は人を哲学にしてくれます。

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■節子への挽歌4262:青なすを畑に植えに行きます

節子

昨日、小学校時代の同級生の永作さんが、青なすの苗を届けてくれました。
埼玉県の小川町にある霜里農場で育てられた、とても立派な苗です。
私が育てているのとは全く表情が違います。
早速畑に植え替えようと思います。
今日も出かけなければいけないので、その前に畑作業です。

今日も静かないい朝です。
ハトが鳴いていないのがいい。
ハトの鳴き声は、節子の闘病時代を思いださせるので、苦手なのです。

今年は暑いので、早朝の畑仕事は気持ちがいいです。
ですからついついはまってしまう。
気を付けないといけません。

昨日は湯島で万葉集のサロンでした。
とても内容の濃いサロンでしたが、テーマは「見る」。
見るは、恋にも禁忌にも通じ、大きな変化を引き起こす力を持っていたようです。
私にはいささか消化できない深い内容でしたが、感覚的にはよくわかりました。

「霊」もまた「み」とも読まれたそうです。
霊を見る人の歌もありました。
私も「見る」力をもう少し得たいと思います。

さてこれから畑です。
畑に行くと、たくさんのものが見えますので、元気になります。
ただ手が泥だらけになるので、出かける前の畑は気を付けないといけません。

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2019/05/25

■節子への挽歌4261:また少し自殺問題に関わることになってしまいました

節子

久しぶりに自殺未遂者の立場から自殺予防活動に取り組んでいる吉田さんと会いました。
突然に相談があるというので、朝から湯島にでかけました。
吉田さんはちょうど81歳になったところです。
数年ぶりですが、まったく変わっておらず元気でした。

しかし活動がなかなか前に進まない。
それで相談に来たわけです。
前にも何回かアドバイスはしていますが、それがなかなか実行できないでいるのです。
その一番の理由は、「恨みや怒り」だろうと私には思えます。

社会を変えようという活動をしている人に共通しているのは、現状への激しい否定的な姿勢です。
そうした「恨みや怒り」が、運動の前進を邪魔しているのです。
ラフカディオ・ハーンの「生首」という短編を思い出します。
目先の怒りを小さな目標に合わせてしまって、大きな目標を見失ってしまう話です。

怒りは、力にもなりますが、怒りにとどまっていては思いは実現しません。
怒りを捨てることから、運動は始めなければいけません。
批判は大切ですが、批判だけでは何も生まれません。

吉田さんは、私と最初に会った頃は、「恨みや怒り」に強く呪縛されていました。
しかもそれが特定の個人に向けられていた。
繰り返し話し合いましたが、なかなか抜けられずに、抜けたと思ってもまた戻ってしまうのです。
一度、公開フォーラムでメインの話し手の一人になってもらいました。
そうなると「批判」だけでは話が完結しません。
一緒に話のシナリオを考えました。

そこから吉田さんは、前向きの活動の焦点を映したように思います。
そうなると逆に私のような存在はノイズになりかねない。
それで自然と吉田さんの足は湯島から遠ざかっていたのです。
便りのないのは良い便りというのは、これまでも何回も体験しています。
よくあることですが、しかしその吉田さんがまた電話してきたのです。

しかし、今回は「悪い話」ではありませんでした。
素直に、どう進めていけばいいのかという前向きの相談でした。
それに、久しぶりに会って、吉田さん自身だいぶ変わっているのを感じました。
もう大丈夫でしょう。

前に進むのであれば、また少しは応援できそうです。
30分の約束が2時間を超えてしまいましたが、具体的な活動に繋がりそうです。
まずは湯島で、吉田サロンをやることにしました。
うまくいくといいのですが。

 

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■節子への挽歌4260:密会?

節子
久しぶり「密会」しました。
まあそういえるかどうかは疑問ですが。

私のフェイスブックの記事に関して、ある人から個人的にコメントをもらいました。
私の知っている、地元の人からです。
それで一度詳しく話を聞きたいと思い、会いたいと連絡し、会うことになりました。

ところが、指定された場所が手賀沼公園のベンチでした。
夕方の時間でしたので、レストランを提案したのですが、目立たないところがいいというのです。
まあなんとなく理由はわかりました。

それで昨日の6時半ころから、近くの誰もいなくなった手賀沼公園の水辺のベンチで会いました。
夕陽を映す湖畔がきれいでした。
近くに誰もいない場所を選んで座りました。
なんだかドラマのような話でしょう。
まさに密会、と言う感じです。

そういえば、以前一度こういう体験をしています。
ある人からご自分の見つけた新技術のことでの相談を受けました。
指定してきたのが、あるところの喫茶店でしたが、そこの奥の目立たない場所でした。
周辺を気にしている様子がいかにも印象的だったので、話の内容は覚えていませんが、その様子は記憶に残っています。

その人とはしばらくして連絡がつかなくなりました。
念のために言えば、その人はその分野では有名な人で、大学教授でもありましたが、その技術開発後、人生が大きく変わったようです。
一部で、あの人は利権の世界から「消された」と言ううわさも流れました。

密会は、このようにドラマにつながりますが、今回の「密会」は残念ながら平和なものでした。

夏のように暑い日だったので、Tシャツで出かけましたが、7時を過ぎると湖畔はさすがに寒さを感ずるようになりました。
というわけで、突然、トイレに行きたくなって、唐突に密会を終わらせてもらいました。
幸いに、近くの図書館のトイレにかろうじて間に合いましたが、最近、突然、尿意を催し、困ることがあります。
困ったものです。
そんなわけで、シリアスなドラマではなく、喜劇のような密会になってしまいました。

帰宅途中で近くの奥さんに会いました。
暑いですね、といわれましたが、いえ寒いですとは言えずに、そうですね、と嘘を言ってしまいました。
嘘をつかずに生きることは難しい。

ところで、「密会」の成果ですが、考えの違いは解消されてはいませんが、たぶん理解しあえたと思います。
もうひとつ思わぬ「成果」もありました。
それが実現するかどうかは、かなり先にならないとわかりませんが、また一つ課題をもらった気がします。

人に会うと、これだから困ります。
現世滞在をもう少し延ばすことになるかもしれません。
なかなか節子に会えません。

 

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2019/05/24

■節子への挽歌4259:ようやく東寺展に行けました

節子

4回目にしてようやく「東寺展」に入場できました。
しかし今回も混んでいて、チケット購入に15分ほどかかりました。
並んでいる間に隣の人と話していましたが、その方は那須塩原から新幹線で来たそうです。
東寺は近くには何回か行ったものの、いつも立ち寄れず、今度はいい機会だと思ってやってきたそうです。
混んでいるわけです。
入館も20分以上かかりました。

お目当ては立体曼荼羅会場だったので、すぐにそこに直行しました。
幸いにまだあまり混んでいませんでしたので、会場をゆっくりと歩きまわれました。
残念ながら新しい仏との心惹かれる出会いはありませんでしたが、降三世明王の頭の背面の夜叉のような面にかなり惹かれました。
前にも、たぶんこの明王は後ろからも見ていると思いますが、気がついていませんでした。

今回、一番よかったのは、4体の如来像が一列に並んでいて、それを横から一望できることです。阿弥陀如来の背筋がひときわ見事なのに気づきました。
写真が取れなかったのが残念です。もう二度とみられないでしょう。

もうひとつ面白かったのは、中国の五大虚空蔵菩薩曼荼羅の5体です。
表情が好きにはなれませんが、初めて知りました。
虚空蔵は、私の憧れでもあります。
ネットで菩薩像の写真は見つかりましたが、会場ではこれが曼荼羅風に配置されていました。

Photo_1

会場から出たら、とんでもなく長い入館待ちの行列でした。
1時間以上待たねば入れなそうです。
少し時間があったので、本館の仏像にもよってきました。
当麻寺の十一面観音がいました。
この仏には初めて会いました。

ちょっとゆっくりしすぎて、湯島に着いたらドアの前に約束していた来訪者が待っていました。
そこからまた忙しい1日でした。

Photo_2 Img_20190524_101944

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■節子への挽歌4258:ほどほどの朝

節子

昨夜は何事もなく、いつものように早く目が覚めました。
血圧を測ったらやはりまだ高いのですが、昨日ほどではありません。
体調もまあさほど悪くもありません。

朝の挨拶に畑に行こうかと思いましたが、やめました。
行くとまた作業したくなるからです。

世間では相変わらず大麻で芸能人が逮捕されていますが、大麻に囚われた人には深く同情します。
大麻をなぜ禁止するのか理解できませんが、人は自分の意志だけでは生きていません。
一度、その魅力に憑りつかれたらなかなかやめられないのでしょう。

畑の作業も同じようなものです。
譬えがあまり良くありませんが、大麻で騒ぐマスコミも不快です。
大麻がダメならお酒もダメにしてほしいです。

誤解されるといけませんが、お酒と同じように大麻も認めたらということです。
嗜好品を法律で規制するのは、私には恐ろしい話です。

血圧ですが、しばらく血圧を毎日測定しようと思います。
それで相変わらず高いようであれば、また降圧剤を飲むようにしようと思います。
なにしろもう2~3年は現世で活動することにしたので、少しは心身管理もしないといけません。
現世で生きるのは苦労が多いです。
彼岸では、そんなことはないでしょうね。

ほどほどの朝に、庭に自生していた(植えないのに昨年の種が落ちていたようで自然に出てきました)、葉が小さいうえにかたくておいしくないレタスを収穫して、早目の朝食です。

今日は、東京国立博物館の「東寺展」に朝一番で出かける予定です。
混んでいないといいのですが。

メールでは大きなトラブルニュースはないので、いい1日になるでしょう。

 

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■節子への挽歌4258:ほどほどの朝

節子

昨夜は何事もなく、いつものように早く目が覚めました。
血圧を測ったらやはりまだ高いのですが、昨日ほどではありません。
体調もまあさほど悪くもありません。

朝の挨拶に畑に行こうかと思いましたが、やめました。
行くとまた作業したくなるからです。

世間では相変わらず大麻で芸能人が逮捕されていますが、大麻に囚われた人には深く同情します。
大麻をなぜ禁止するのか理解できませんが、人は自分の意志だけでは生きていません。
一度、その魅力に憑りつかれたらなかなかやめられないのでしょう。

畑の作業も同じようなものです。
譬えがあまり良くありませんが、大麻で騒ぐマスコミも不快です。
大麻がダメならお酒もダメにしてほしいです。

誤解されるといけませんが、お酒と同じように大麻も認めたらということです。
嗜好品を法律で規制するのは、私には恐ろしい話です。

血圧ですが、しばらく血圧を毎日測定しようと思います。
それで相変わらず高いようであれば、また降圧剤を飲むようにしようと思います。
なにしろもう2~3年は現世で活動することにしたので、少しは心身管理もしないといけません。
現世で生きるのは苦労が多いです。
彼岸では、そんなことはないでしょうね。

ほどほどの朝に、庭に自生していた(植えないのに昨年の種が落ちていたようで自然に出てきました)、葉が小さいうえにかたくておいしくないレタスを収穫して、早目の朝食です。

今日は、東京国立博物館の「東寺展」に朝一番で出かける予定です。
混んでいないといいのですが。

メールでは大きなトラブルニュースはないので、いい1日になるでしょう。

 

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2019/05/23

■節子への挽歌4257:血圧が高い

節子

朝からどうも体調がよくなく、血圧を測ったら予想以上に高いのです。
歯医者さんの定期検診なので血圧を測ったのです。
というのは、私が行く歯医者さんでは歯の治療をする前に血圧を測るのです。
いつも異常に高いので、心配されていて、せめて歯医者さんに行くときには注意しないと心配させてしまうのです。

というわけで、測ってみたら、なんと下は100を超え、上は200を超えているのです。
この数値だとふらふらして危ないですよと、かかりつけの遠藤さんには前に注意されているのですが、いささか心配になって、娘が服用している降圧剤をもらって半錠飲みました。
ですから夕方には下がっていると思っていたのですが、一向に下がっていない。
しかもなんとなくあまり良くない症状を感じるのです。
困ったものです。

念のため、夕方の畑はやめて、自重しましたが、どうも調子がよくありません。
そういえば、この数日、酢タマネギがなくなっているのです。

1週間ほど前に、友人から血圧が160を超えてしまい、医者に相談していると電話があった時には、それなりに心配して、それなりのアドバイスもしたのですが、自分の場合には160は正常値と決めていますので気にはしないのですが、今日の血圧値はいささか気になります。
それに手にも少ししびれを感じます。
さてさてどうするか。

娘からまた薬をもらって飲むことにしました。
こういうのが一番よくないとも言われていますが、臨機応変なのが私のいいところです。
夜間高血圧と言うのもあると昨日の「ためしてガッテン」でやっていましたから、注意しなければいけません。

同じ番組でやっていた、手拭いを使った簡単な運動もやってみました。
まあ学んだことは素直に3日間はやってみるというのも、私の長所です。
娘は、ただ影響されやすいだけだといいますが

ちなみに、「ためしてガッテン」は兄から電話で血圧の話なので見るようにとメールが来たので、仕方なく観ていました。
考えてみると、私は実に素直な性格です。
なかなかみんなからは認めてもらえないのが不思議です。

さて明日は元気で目覚められるでしょうか。
そうありたいです、が。

 

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■節子への挽歌4256:久しぶりの人から会いたいといわれました

節子

自殺問題にはまっていた時に知り合った自殺未遂者のYさんから電話が来ました。
久しぶりの電話ですが、会いたいというのです。
さてさて、どういう話でしょうか。
まあ会いたいといわれた以上、会わないわけにはいきません。

自殺問題に直接かかわりだしたのは、節子が逝ってしまったからです。
とりわけ目立った自殺未遂の人は2人いました。
一方は会社の社長だった人、もう一方は任侠の世界にいた人です。

一時は、その2人に個別によく合いました。
その後、2人とも、それぞれの道をしっかりと見つけましたが、その一方は、別のトラブルに巻き込まれてしまいました。
そのうえ、がんが発見され、たぶん無念の生涯を終わりました。
私にとっても、とても複雑な思いを体験させられ、とても残念な結果になりました。

もう一人がYさんです。
根が明るいのと人生を達観しているのでたぶん今は豊かな人生を楽しんでいるでしょう。
しかし、もう一人も、ある相談に巻き込まれるまでは、同じように豊かな人生を過ごしていました。
ですから安心してもいられないのです。

どんな話でしょうか。
ちょっと気になりますが、考えてもわかりません。
まあ、会うしかない。

もしあっけらかんと話せる話であれば、また書きますが、個人的な話であれば、書くことはできません。
まあそういう話が来ていることだけを節子には伝えておきましょう。

いろんな人と付き合ってきたので、相変わらずいろんなことがあります。
彼の都合に合わせて、会うことにしました。
明るく報告できる話だといいのですが。

 

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■善く統治されるか悪しく統治されるかによって、我々の生活は違ってくる

政治家たちの暴言がつづいています。
そこに現在の日本の政治状況の実相を感じますが、最近読んだデイヴィッド・ミラーの「はじめての政治哲学」の冒頭に、14世紀に描かれた「善き統治と悪しき統治の寓意」と呼ばれているフラスコ画の話が出てきます。
ウィキペディアでその絵を探してみました。
1枚は「善き統治」、もう1枚が「悪しき統治」です。

B_zensei11024x256 Ambrogio_lorenzetti_affetti_del_cattivo_   

デイヴィッド・ミラーは、政治哲学とは何であり、なぜ政治哲学が必要なのかを理解するには、この絵をじっくりとみる以上にいい方法はないといっています。
この図から、善き統治と悪しき統治が人間の生活の質に深く影響を与えることが読み取れると、ミラーは書いています。
なるほどと思い、今朝もこの絵をじっくりと眺めていたのですが、私にはあんまり読み取れません。
やはり14世紀のヨーロッパとは異質な文化に生きている私には、理解できないのでしょう。

ミラーはこの絵からいささか強引と思えるのですが、次の結論を引き出します。

我々が善く統治されるか、もしくは悪しく統治されるかによって、我々の生活は本当に違ってくる。政治に背を向け、私的な生活へと退却し、我々が統治される仕方は自分の私的な幸福に大した影響を与えないだろう、と思い描くことはできない。

そういわれれば、納得できます。
「我々が統治される仕方」は、私たちの生活を大きく決めているのです。

ちなみに、この絵は、シエナ市庁舎内のサラ・デイ・ノーヴェ(9人の間)の壁画だそうです。
当時、シエナは9人の裕福な商人からなる評議会が統治する共和主義政体でしたが、評議会の人々はシエナの民衆に対する責任を思い起こさせるために、そして自らが行う共和制への誇りのために、この絵の前で統治を行っていたのです。
間違いなく、当時のシエナには、善き統治が行われていたのでしょう。
そして、それを支えていたのが、シエナの民衆だったのでしょう。

政治家たちの暴言がつづいているのは、日本の現在の政治状況、つまり統治の実相を象徴しています。
日本の政治家にも、この絵をじっくり見てもらいたいですが、その前にまず、私たちも私的な生活に退却して、政治に背を向けることだけは避けたいものです。
日常化してしまった政治家の暴言の根っこは、たぶん私たちの政治感覚にあるのでしょう。
「令和」であんなに騒いでいる人たちを見ると、つくづくそう思います。

シエナでは、評議員のためにフラスコが置かれましたが、いまの日本では国民のために「令和」と言う言霊がかぶせられてしまいました。
なんだか先行きが決められたようで、さびしいです。
しかし、ミラーはこうも言っています。
統治の形態は大衆にも選択の余地がある、と。

政治を語り合う「茶色の朝」シリーズのサロンをまた再開しようと思います。

 

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■節子への挽歌4255:歳をとったことを理由にしてはいけません

節子

巡礼者の鈴木さんの「お遍路仲間」の82歳の人が、来月、京都三条大橋から東海道を東京まで歩いてくるそうです。
驚くべき決断ですが、歳をとってしまったなどと言っている自分をいささか反省しました。
もっともそれを快挙と言うか暴挙と言うかは、大いに迷いますが、ちょっと魅力的ではあります。

これも鈴木さんが四国遍路で知り合った愛媛の農家の70代の人は、その後、サンティアゴ巡礼に30代の息子さんとでかけました。
ところが、初日で「これは無理だ」と思ったそうですが、息子さんから「お父さん、がんばって歩こう」と励まされて、結局、100km歩きとおしたそうです。
鈴木さんは、70代と30代の父子で歩くのは日本人にはとても珍しいと書いていました。
実にうらやましいというか、感動する話です。

私もちょっと歩きたくなってきましたが、歩くのはともかく、自活力が極度に乏しい私には難しいでしょう。

ちなみに、鈴木さんからの情報は、いまもかなりの頻度で届いている鈴木さんからの「ツイッターはがき」に書かれていたことです。
「ツイッターはがき」を書き続けている鈴木さんは、挽歌を書き続けている私には、「仲間」のように思えます。
そのはがきは、いつも、昔の記念切手が使われています。
そしていつも鈴木さんが巡礼中に撮った1枚の写真か、または海外の切手が貼ってあります。
もう100枚を超えるかと思います。

今日も初夏を感じさせる朝です。

ちょっと畑に行きたい気分ですが、今日は自重しようと思います。
夕方には苗を植えるか種を蒔きにに行こうと思いますが。

 

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2019/05/22

■節子への挽歌4254:人の振り見て我が振り直せ

節子

みんな歳を取りました。
兄と食事をしていたら、兄に電話がかかってきました。
兄の奥さんからです。
奥さんも外出しているらしいのですが、アイロンの電源を切ってきたかどうか心配なので確認してほしいという電話だったようです。

ちょうど頼んだ料理が席に届いたところでした。
兄はやはり気になったようで、ちょっと家に帰ることになりました。
歩いても10分ほどのところですが、なかなか戻ってきません。
私は一人で食事をすませましたが、30分ほどして戻ってきました。
急いだので、タクシーで戻ったようですが、タクシーだと遠回りになるので、たぶん歩いたほうが速かったでしょう。
しかし、あわてると判断を間違います。

アイロンの電源は切ってあったそうです。
まあ大体においてそんなものです。

歳をとるとこういうことはよくあります。
私も兄から頼まれて、ストーブの電源の確認に行かされたことはありますが、まあその時もきちんと電源は切れていました。

兄と話していて、名前が間違っていたり、勘違いがあったりで、コミュニケーションは時に滞ります。
困ったものですが、たぶん私も同じなのでしょう。
人の振り見て我が振り直せ、ではないですが、兄の状況は私にも起こっているのでしょう。
困ったものです。

今回は、こうしたハプニングのおかげで、兄弟げんかは起こさずにすみました。
しかし、兄弟なのに、どうしてこうも生き方や考えが違うのでしょうか。
いや、違うと思っているのは自分だけで、もしかしたら同じなのかもしれません。
注意しなければいけません。

今回もまたご馳走になってしまいました。
そろそろお返しをしなければいけません。

 

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■節子への挽歌4253:畑は幸い無事でした

節子

昨日はかなりの雨風でしたが、今日は鳥たちがにぎやかです。
雨の翌日の朝は鳥たちが元気です。

畑が心配で行ってきましたが、幸いにあまり被害はありませんでした。
ミニ温室はカバーが完全に外れていましたが。
植物は強いです。

土が濡れてやわらかくなっているので、耕しやすいと思っていましたが、とんでもない。
泥だらけになってしまい、作業はむしろしにくかったです。
鍬にも土がついて切れ味が悪くなる。
つまり、土はやはり植物の味方なのです。

作業で息切れがしているところに電話がかかってきました。
写真を撮ろうと思ってスマホを持参していたのですが、息切れのまま電話に出たので相手に心配されました。
畑の作業はそれくらい疲れます。

電話は兄からのランチの誘いでした。
またケンカにならなければいいのですが。

電話のおかげで写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました。
やはり脳機能は変化しているようです。
それが良いことか悪いことかは、最近、迷うようになりました。

 

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2019/05/21

■4252:東寺展にまた行けませんでした

節子
外が荒れています。

3回目の挑戦で、今日は東京国立博物館の東寺展に出かける予定でしたが、あきらめました。
最初は直縁に用事ができてダメ、2回目は東京国立博物館まで出かけましたが、入館時間が40分と混んでいたので諦めました。
そして今日また雨で諦めたのです。

東寺はずっと気になりながら訪れたのは節子が逝ってしまってからです。
空海が設計したという立体曼荼羅は、確かに圧倒的な雰囲気がありました。
しかしほれ込むほどの仏には出会えませんでした。
たぶん空間の重さのせいでしょう。

東寺の仏たちは、2011年にやはり上野の国立博物館で開催された「空海と密教美術展」に8体来ていましたが、今回はその倍の15体が来ているようです。
しかもその仏のあいだを歩けるのです。
東寺の講堂とは違った世界ができているはずです。
もう3か月近く開催されていますので、仏たちは疲れているかもしれませんが、たくさんの人との出会いで、たぶん空間はそだっているはずです。
節子と一緒でないのが残念ですが、今週中には行きたいものです。

ユカが東寺展を紹介したテレビ番組を2本録画してくれていて、それはめずらしく観ているのですが(いつもは事前に観ることは少ないのです)、そこで得た知識も薄れるので、ちょうどいいかもしれません。

外はまだ雨風が荒れています。
畑が心配です。

 

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2019/05/20

■節子への挽歌4251:気になっていた友人が元気になりました

節子

気になっていた友人から電話がありました。
体調がよくなってきているようで、声に張りがありました。
そして私たちの共通の友人が今日退院することを教えてくれました。
他者への関心が戻ってくれば、もう大丈夫でしょう。
そして、明るくこう言いました。

運が良ければ長生きできると考えて、あんまり気にしないようにすることにした。
彼はいま胃がんの進行に抗いながら、治療を重ねているのです。
長生きすることが、運が良いことなのかどうかは、わかりませんが、要はすべては「運」なのです。
大きな人生に抗うことはできません。
いずれにしろ、いま生きていることに感謝して、誠実に生きることが大切です。

まあそんなことを電話で言ってしまいましたが、私自身がそうしているかどうかはいささか危ういものがあります。
でもまあ、かなり自分としては、そう生きているつもりではあります。

気分がよさそうで、また湯島に来るそうです。
なかなか彼のお見舞いには行けません。
なにしろ向こうから来るのですから。
困ったものですが、相手の意向にできるだけ沿うのが私の信条ですので。

ちなみに、「やらなければいけないこと」には取り組みだしましたが、1日では終わりませんでした。
最近はネットのせいか、自宅に引きこもっていても、何かと用事ができます。
うれしいメールにはついつい過剰に反応しがちですし。

 

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■節子への挽歌4250:複数の視座

節子

雨が降りそうだったのですが、晴れてきたので、畑に行きました。
午前中、やらなければいけないことがあったのですが、やりたくなかったのでそれから逃げただけですが。
逃げ場があることは大切なことです。

湯島は、できれば「逃げ場」の少ない人の「逃げ場」になれないかと取り組んだことがありますが、あまりうまくいきませんでした。
逃げ場は自分で探さねばいけません。
誰かが用意できるようなものではないことに気づきました。
それで一時、サロンをやめようかとさえ思いましたが、考え直しました。
もしかしたら、誰かの逃げ場になっているのかもしれませんから。

ところで、畑で気づいたのは、野草を制覇したと思っていたのですが、とんでもない。
改めて目線を落としてみると、まだまだ野草と篠笹の芽だらけです。
自分の思い込みで畑を見ていると何も見えていないのです。
世間もそうなのでしょう。

節子がいたときは、私は2つには2つの視座がありました。
また、節子は私の逃げ場でもありました。
その意味が最近よくわかります。

午後はやはり雨になりそうです。
「やらなければいけないこと」をやることになりそうです。
お天道様はすべてをお見通しです。
気が進みませんが、仕方がありません。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌4249:サロンのこと

節子
今朝は雲で覆われた朝です。
雨になりそうです。
耕した畑に種を蒔いたり苗を植えておけばよかったのですが、間に合いませんでした。

サロンをまたいくつか企画しました。
「日本書紀」「水俣」「東北被災地」というテーマを、それぞれの友人に頼みました。
話し手も全く違うタイプの3人なので、それぞれ面白いサロンになるでしょう。

サロンを続けてきたおかげで、私の世界は豊かになってきています。
サロンがこうして私の生活の一つの基軸になったのは、やはり節子のおかげです。
湯島を開いた時に1週間続けたサロンは、節子のおかげで基本ができたのだからです。
最初は節子はサロンが重荷だったようですが。

2か月ほど前に、もうサロンを辞めようかと思っていた時期があります。
いろんな意味で疲れてしまっていたこともありますが、本当に意味があるのだろうかとも思ったからです。
その後、何人かの人から、サロンを辞めないでよかったといわれました。
だからといって、その人が毎回来るわけではありません。
しかし、どうも「サロン」が存在することに意味があるようです。
そのことに改めて気づきました。
それは私にとっても同じです。

考えてみると、サロンがあったおかげで、私は節子がいなくなった後、戻ってこられたのかもしれません。

いまもちょっと気になっている人が何人かいます。
フェイスブックで、いささか危ういメッセージを書いてきている人もあります。
心配してのコメントも書き込まれていますが、その人もサロンに時々来る人です。
フェイスブックではなく、サロンでそうした本音が自由に語れるようになるスタイルも何回か試みましたが、うまくいきませんでした。

サロンのあり方も、もう少し工夫する必要があるかもしれません。
改めてサロンを少し工夫してみようかと思います。

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2019/05/19

■自動車に甘いのは経済成長のため?

87歳の公益財団法人評議員会議長で旧通産省工業技術院の幹部だった人が起こした池袋での母子殺傷事件の遺族が、再度行った運転者に呼びかける記者会見を見ました。
その行動に感動します。
当日は、加害者は任意での事情聴取に出かけましたが、途中、記者団への問いかけにほぼ無言でした。
私には信じがたい情景で、この人は謝罪や反省などとは無縁の人なのだなと感じました。

この事件を契機にして、高齢者の運転免許返納が増えているそうですし、マスコミでも盛んに取り上げられています。
しかしたぶん何も変わらないような気がします。
新聞の投書欄でも、高齢者の運転に関する議論が盛んですが、すぐにまた収まるでしょう。
そして事態は何も変わらない。

数年前に、飲酒運転事故が騒がれて、大きな問題になったことがあります。
その結果、危険運転致死傷罪もできて、処罰が厳しくできるようになりました。
しかし、その後、果たして飲酒運転は減ったのか。
私には相変わらず事態は何も変わっていないように思えます。

なぜなのか。
基本的な発想の問題だろうと思います。

私の感覚では、飲酒運転で殺傷事件を起こした人の免許は未来永劫はく奪すべきだと思います。
高齢者の運転免許は、人によって違いはあるでしょうが、80歳(たとえばですが)で免許停止にすべきだと思います。
年齢で制限するのはおかしいという意見がありますが、だとしたら3歳の子どもにも運転する権利を与えるべきですし、ましてや基本的人権を年齢で制限するべきではありません。
自分はまだ大丈夫だなどというばかげた主張がありますが、今回の加害者もそう思っていたのです。
そう主張する人は、今回の加害者と同じ世界にいる人でしょう。

しかし、なぜそんな簡単なことができないのか。
そこに経済成長志向の思考があるからではないかと私には思えます。

これは、自動車に限ったことではありません。
日本の経済成長を支えている「産業」すべてに言えることです、
その典型はやはり「原発」でしょう。
あるいは「医療」や「教育」もそうかもしれません。
明らかにおかしいと思われることがあっても、「医療」や「教育」に関しては、なかなか事態は変わりません。

さらにそれを支えている文化の問題もあります。
私たちは、いまは生活者ではなく消費者であり、労働者です。
未だに消費者運動や労働者運動が残っていることに、私は大きな違和感がありますが、その運動に大義を与えている経済の論理から言えば、交通事故は「顧客の創造」でもあるのです。

そろそろ「顧客の創造」が経済の出発点であるなどという発想を反転させるべきではないかと思います。

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■節子への挽歌4248:今年もアートな散歩市には参加しませんでした

節子

なぜか『静かな朝』です。
時々、こういう感じのする朝を迎えます。
たぶん外に出るといつもと同じ自然があるのでしょうが、時々、起きた時に感ずる雰囲気です。
そういう日には、何かが起きることも少なくありません。

今日は、我孫子ではアートな散歩市の一環としてアーティストウォークというイベントがあります。
ガイド役は先日一緒にプレウォークした駒場さんで、主催する林さんから参加を誘われていますが、あいにく先約があって、参加できません。

例年、アートな散歩市ではわが家でも娘のスペインタイル工房が参加していたので、それに便乗して、わが家でも小さな庭でのカフェをやっていました。
遠く、東京や神奈川からも来てくれた友人もいますが、今年は参加していません。
参加していたら、ウォークの後、来てもらえたのですが、残念です。

考えてみれば、このカフェを始めたのも節子でした。
といっても、娘の工房に来てくれた人にただコーヒーを出すだけの「おもてなし」のためでしたが。

今のわが家の庭の状況は、カフェを開けるほどの広さもありません。
節子はどうしてこんなにたくさんの植木鉢を残していたのだろうかと思うほどの数の植木鉢で、庭が埋め尽くされているのです。
その整理をしなければ、テーブル一つのカフェも開けない状況です。

さて今朝も、出かける前に、畑にちょっと挨拶に行ってこようと思います。
畑から「いのち」を与えてもらうために、です。
そして、この数日、畑を耕すという名目で、壊してしまったことのお詫びに。

 

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■湯島サロン「石牟礼道子から水俣を考える」のご案内

水俣を語る石牟礼道子さんは今もなおテレビや書籍で話題になっていますが、水俣病そのものは次第に忘れられつつあります。
水俣病が社会に問題提起したメッセージは、実に多岐にわたるのですが、それがしっかりと受け止められているとは思えません。
石牟礼道子さんが亡くなって「殿堂入り」した反面、石牟礼道子さんが問題にした水俣病そのものは切り分けられ、過去の遺物として忘れられようとしています。

私自身も、そういう流れに引き込まれそうになっていました。
それを気づかせてくれたのが、文芸評論家の岡和田晃さんです。
そこで岡和田さんに頼んでサロンを開くことにしました。

岡和田さんは多方面で活動している若い文芸評論家です。
https://akiraokawada.hatenablog.com/about
私が「文芸評論」ということを少し理解できたのは、岡和田さんの著書「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」を読ませてもらったおかげです。

岡和田さんは、水俣に深く関わってきたわけではなく、あくまでも文学を通じて思考の対象としてきたようです。
岡和田さんにサロンを頼むなら、アイヌの問題かSFかゲームかだと思っていましたが、岡和田さんが最近、河出書房新社版ムック『石牟礼道子 さよなら不知火海の言魂 』に寄稿した石牟礼道子論(「石牟礼道子という表現運動(ドキュメント)」)を読ませてもらって、岡和田さんに水俣を話してもらいたくなりました。
現代という社会の中で、水俣を考えさせてもらえそうだからです。

あるいは、水俣を超えて、水俣病が顕在化した今の社会のありよう、さらには、政治や文学の話にまで広がるかもしれません。
言葉を専門とする岡和田さんの石牟礼道子論にも興味があります。
そこで、ぶしつけにお願いしたところ、引き受けてもらえました。

どんな話が展開されるか楽しみのサロンです。
このところ湯島のサロンでも2回ほど、水俣が話題に出ましたが、改めて水俣を思い出したい人、あるいは新たに水俣を知りたい人は、ぜひご参加ください。
いつもよりちょっと長いお話を岡和田さんにはしてもらおうと思います。

なお、できれば、河出書房新社の『石牟礼道子 さよなら不知火海の言魂 』をあらかじめお読みください。岡和田さんの論考以外にも興味あるものが多いです。

参加ご希望の方は、事前にご連絡ください。

〇日時:2019年6月22日(土曜日)午後1時半~午後4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「石牟礼道子から水俣を考える」
〇問題提起者:岡和田晃さん(文芸評論家)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2019/05/18

■節子への挽歌4247:死んだ生者と共にある、よりも、生きた死者と共にありたい

節子

今日もよく働きました。
開墾作業はかなり進み、ほぼすべての面の笹を制覇しました。
道具は鎌と鍬だけです。

フェイスブックに開墾作業のことを書いたら、山口の東さんがコメントしてきました。

「なぜ電動農機具を使わないかといえば、個人の農作業の場合、自然に対してフェアでないからです」に、思わず佐藤さんらしいなと思ってしまいました。

私のことをわかってくださる方からのコメントはいつもうれしいものです。

開墾作業は、殺生業でもあります。
それがわかると電動農機具は使えなくなります。
しかし時代はますますアンフェアの方向に向かっています。
戦争はますますやりやすくなるでしょうが、実は戦争する人たちはすでにもう使者になっていると、私は思っています。
私の周りにいかに死者が多いことか。

録画していたテレビドキュメント「熊を崇め熊を撃つ」を見ました。
鳥海マタギの人たちの話です。
とても心に響きました。

死んだ生者と共にある、よりも、生きた死者と共にありたいと思います。

 

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■節子への挽歌4246:エジプトのラマダン

節子

今日も「朝から」小作人作業です。
お天道様の小作人としては、もう少し頑張らないといけません。
先日、徳之島出身の人と会ったら、その人はまさにお天道様と同じに起きているようで、8時にはもう寝るといっていました。
ただし昼間は午後からもうお酒だそうですが。

しかし、その人とは午後の5時に会い会食したのですが、5時からなので7時ころ終わるかと思いきや、気が付いたら9時でした。
お酒も半端ではない飲み方で、私のお茶を飲む速度よりも比較にならないほどでした。
そのくせ、一向に変わらない。

今日は畑に行く前に、ラジオを聞いています。
いまちょうど、エジプトの中野眞由美さんがエジプトから「ラマダン」の話をしてくれています。
昨日、中野さんからメールが来て、今月からNHKの「マイあさ!ラジオ」にも定期的に出演することになったのだそうです。
これまでのラジオ深夜便はもう寝ていてめったに聞かないのですが、この時間帯だと大丈夫です。

ラマダン期間は、エジプト中がなんと電飾で覆われ、さまざまなイベントが繰り広げられるのだそうです。
エジプトの人たちにとっては、禁欲の期間でもあり、しかしまたとても楽しい期間で、楽しすぎて、寝不足になって断食よりもつらいという冗談もあるそうです。
ラマダンのイメージがかなり変わりました。

いま放送は終わりました。
とてもお元気そうです。
エジプトはもう一度行きたいところでしたが、行けませんでした。

さて私もそろそろ畑に行こうと思います。
食事前なのでいささか空腹感はありますが、もうだいぶ前からお天道様はあたたかさを届けてくれているので、気持ちのいい汗がかけると思います。

 

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2019/05/17

■4245:「愛」

節子

最近、キリスト教の洗礼をうけた上田さんと食事をしました。
上田さんの洗礼にはとても関心があります。
それでぶしつけな問いかけをたくさんさせてもらいました。

いろいろと話していて、最後は「愛」の話に行き着きました。
すべては「愛」につながってく。
その点では、上田さんと一致しました。

問題は、「愛」とは何かです。
キリスト教では3つの「愛」が語られます。
エロス、フィリア、アガペーです。
キリスト教の世界では、「愛」はよく語られますが、仏教の世界では「愛」はあまり語られません。
「愛」に代わる概念や言葉は、私は「共生き」ではないかと思っています。

そういえば、ハンナ・アーレントの博士論文は「アウグスティヌスの愛の概念」でした。
「愛」という言葉は、きわめて多義的ですが、幸せや安らぎに繋がっています。
アーレントは、愛の問題は「善きもの」への絶えざる「欲求」の連鎖、ならびにいったん所有したものを喪失することへの不断の恐れという形で現れる、と書いていますが、愛の不在という視点でとらえた方がわかり合いやすいかもしれません。

日本人は「愛している」という表現をしてこなかったといわれますが、それは「愛」が基調にあったからのような気がします。
神への愛はあっても、横にいる人間への愛は保証されていないキリスト教世界では、愛を言語化し、確認しておくことが大切だったのかもしれません。
こんな言い方をしたら、上田さんは直ちにそれは違うと指摘するでしょうが。

まあそんな話をしていたのですが、「愛」をテーマにしたサロンをしたくなりました。
「愛」こそ人生の基本という認識のもとに、「愛」を語り合う。
いささか気恥ずかしい気もしますが、ちょっと魅かれます。

考えてみようと思います。

 

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■節子への挽歌4244:花が戻ってきました

節子
玄関のバラが咲きだしました。
例年に比べるとかなり遅いです。

Img_20190517_082927

ジャスミンも満開で香りが充満しています。
庭の草木も元気になってきています。
皇帝ダリアが芽吹きだし、カサブランカも芽を出しました。

今年はきちんと手入れしていこうと思いますが、節子が世話をしていたころに比べれば、花木も半分以下になってしまいました。
花木は、よほど心を込めて付き合わないといけません。
畑と花壇と庭の手入れを毎日ルーチン化しないといけませんが、そこまではまだいけていません。

ちなみに私が家族の反対を押し切ってつくってもらった池は、いささかひどい状況になっています。
もっとも私はそういう状況が好きなのですが。

午前中、畑に行ってきました。
畑はまだ開墾状況なので、野菜も花も手入れ不足です。
昨年はともかく何でも植えて、野草から主導権を取り戻そうと思っていたので、無計画に畑作りをしてきました。
そのおかげで、今年は何となく畑らしい雰囲気ができてきたのですが、野菜の苗を買ってきて植えたのですが、手入れが悪いとだめになってしまいます。
それに開墾作業はかなりの重労働ですので、それをやっているともう疲れ切ってしまい、野菜の植え付けなどはまたにしよかと思ってしまうのです。

しかしかなりの畑用地ができました。
そろそろ植えだそうと思いますが、そうなると頻繁に畑に顔を出さないといけなくなるので、いささかの躊躇があります。

ちなみにミニ温室をつくって、スイカとメロンを植えましたが、あんまりうまく育っていません。
まだあきらめてはいませんが。

花壇のチューリップを抜いて、一面に昨年、とっておいた種をまき散らかしてきました。
いろんなものが混在しているので、さてどうなりますか?

畑の水やり用のシャワーが壊れて、全身に水を浴びてしまいました。
濡れたまま帰宅しましたが、途中であった近くの人に、水浴びをしてしまいました、と言ったら、暑いですよね、と応じられました。
植物や土よりも、人とのコミュニケーションのほうが難しいです。

 

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■湯島サロン「日本書紀と『天下論』」のご案内

万葉集サロンが動き出していますが、並行して、日本書紀や古事記に関するサロンも不定期に開催することにしました。
そうしたもののなかにこそ、いまの私たちの生き方への示唆があるように思うからです。
単に過去を振り返る知識のためではなく、いまにつなげる形で、取り上げていければと思います。

第1回は、増山博康さんにお願いして、「日本書紀と『天下論』」をテーマにしました。
増山さんは、半農半X人生を提唱し、自らもそうした活動を支援する見沼菜園クラブを主宰しながら、ニャンニャン神学研究会という私には理解不能な会も主宰しています。
しかし、そこで語られている増山さんの論考は、独自の視点があって、とても面白く示唆に富むものです。

今回のサロンに関する増山さんからのメッセージを下記します。

池波正太郎の真田太平記に大阪夏の陣で徳川方についた真田信綱(幸村の兄)のセリフとして、「徳川と豊臣、どちらが天下のためになるとお思いか?」と言うのが出てきます。
信長の天下静謐のため、禁裏(朝廷)、将軍の御用を務める問いうセリフもそうですが、「天下」と言う概念があって、その天下に奉仕する者が天皇・将軍・関白・太閤などと呼ばれる存在であると言う論理に立っています。
南北朝時代に書かれた神皇正統記には、「天下の萬民は神物なり」と書かれており、西欧的な民主主義とは違うかもしれませんが、天下を取る者は天下の萬民に役立つべきであると言う思想が、江戸時代に至るまで発達してきた事が分かります。
この思想の源流を「日本」が出来た時の記録である「日本書紀」に訪ね、考えていきたいと思います。

こう書くといかにも難しそうに感ずるかもしれませんが、もしかしたら話は、日本書紀に描かれているハツセベワカタケルの臣下の美人妻強奪事件から始まるかもしれません。
天下人であるなら、臣下の美人妻を取り上げてもよいのかという問いかけです。
というわけで、どんな展開になるか、予想できないサロンですが、面白い話がたくさん出てきそうです。

平日の夜ですが、ぜひご参加ください。

〇日時:2019年6月5日(水曜日)午後7時~午後9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「日本書紀と『天下論』」
〇問題提起者:増山博康さん(ニャンニャン神学研究会代表)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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■節子への挽歌4243:仏たちの生み出す世界

節子

昨日は用事が終わった後、東寺展をみにこうと東京国立博物館に行きました。
入館まで40分待ちという混み具合だったので、今回もやはりパスしました。
なかなか東寺展には入れません。
ユカが朝一番がいいといっていたので、改めて朝一番をめざそうと思います。

以前一度、東博での当時に不動明王を中心にした立体曼荼羅展に行ったのですが、実に新鮮な空間でした。
東寺で触れ合う仏たちもいいですが、東寺から出てきた仏たちの高揚ぶりが感じられるだけでなく、360度いずれからも仏たちと接しられる空間は新鮮でした。
今回の東寺展は、行く予定はなかったのですが、先日テレビで紹介されていた番組を見て、やはり行こうと思いなおしたのです。

最近、寺社で仏たちに会う機会が少ないです。
仏は、置かれる場によって変わってきます。
いのちが輝くときもあれば、しぼんでしまうこともある。
かつては生き生きしていた渡岸寺の十一面観音も、陳列室に飾られてからは私には魅力を感じなくなり、会いに行こうという気もなくなりました。

そういう意味では、博物館で展示される仏たちは、私にはあまりしたい気分は出ないのですが、仏たちが生み出す新しい場にはやはり興味があります。
あるいは、たまに出てきて違った表情を見せる仏にも時に共感します。

東寺展はそろそろ終了なので早くいかないとますます混雑しそうです。
来週は行けるといいのですが、いささか不安です。

さて今日は午前中は時間があるので、畑に行って、自然の仏たちに会ってこようと思います。
さわやかな、とてもやわらかな朝です。

 

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2019/05/16

■節子への挽歌4242:死後の世界の予備講座

節子

ヒーラーの友人に会いました。
節子が逝った後に知り合った、カシュカシュという女性です。
節子さんは今も佐藤さんと一緒に生きていますよ、と言われました。

カシュカシュのクライアントに、双子だったのに一方が生まれてすぐに亡くなった人がいるそうです。
その人は、亡くなった兄弟と今も二人三脚で生きているというのです。
現世のことは生き残ったほうの、霊界のことは逝ったほうの、それぞれ仕事なのだそうです。
私の場合もそうだというのです。

そういわれると思い当ることもあるのです。
それに最近は私自身も、そう感ずることが増えてきました。
前にも書いたことがありますが、誰かに守られているような気がすることも少なくありません。

霊界を感じられるかどうかは、幸せ感につながることでもあります。

彼女に、死後の世界の予備講座をサロンでやってもらうことにしました。
霊魂の存在を知らない人には、ぜひ聞いてほしいサロンです。

 

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■湯島サロン「また行くの?被災地に集う懲りない面々」のご案内

東日本大震災から8年以上がたちました。
8年たって、何が変わったのか。何が変わらなかったのか。

湯福島の原発事故にまつわるサロンは何回かやってきましたが、もっと広い視点で被災地がどう変わってきているかを取り上げたのは震災直後だけでした。
そこで今回、震災以来ずっと定期的に東北被災地に通っている、普通のサラリーマンの徳永さんに、自らの見聞や体験をもとに、自由に被災地やそこに今なお集まってくる人たちの話をしてもらおうと思います。

そもそもなんで会社に勤めながらも、8年もの長きにわたって被災地に通っているのか。
そして、その8年間で何が変わってきているのか。
被災地や被災地の住民や、なによりも徳永さん自身が、です。
また通っていることで日本社会の実相やその変化も見えてきているのではないか。
そんな徳永さんの8年の体験談を聞きながら、自分の生き方を考えてみたいと思います。

徳永さんと私は、さほど付き合いがあるわけではありません。
しかしこのテーマのサロンを徳永さんに頼んだのは、徳永さんが被災地通いを自分の生活の一部にしているように感じたからです。
徳永さんの被災地での活動の話を実際に聞いたことはありません。
でもいわゆる「(肩に力の入った)ボランティア活動」とは違うような気がしています。
なにしろ徳永さんは、私と同じように、普通を生きている人だからです。
それに徳永さんと話していると楽しいのです。

まあ徳永さんを囲む雑談会になるかもしれませんが、そうした場でこそ、真実が見えてくると思っています。
少なくとも、東北被災地の実相に触れられると思います。
気になりながら被災地に行けずにいる人はもちろん、気になっていない人も大歓迎のサロンです。

参加ご希望の方は、事前にご連絡ください。

〇日時:2019年6月29日(土曜日)午後1時半~午後4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「また行くの?被災地に集う懲りない面々」
〇問題提起者:徳永武史さん(音楽好きのサラリーマン)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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2019/05/15

■節子への挽歌4241:行き先のない不安

さてさて
今日は良い日になる予感があったのですが、いささかの不安はあります。
まあこれから孫がやってくるそうなので、期待はできますが。

朝からメールなどでいろんな話が飛び込んできています。
その中に、いささか深刻な話がありました。
仲間割れです。

両者とも私の友人で、標準以上の善人ですが、いずれもあるあまり楽しくない過去を抱えているためメンタル的に危ういところがあります。
それが、一方の側で破裂してしまったようです。

季節の変わり目にはそういうことは起こりやすいのです。
行き先のない不安は、ややもすると一番身近な仲間に向けられます。
向けられた方はわけがわからず動けなくなる。
そして同じように、不安の力が動き出す。
その暴走を抑えるのは強い意志が必要ですが、時にその強い意志がおかしな方向に向かいだす。

私自身のことではないので、内容を書くわけにはいきませんが、そんな状況が私の近くで起こっていて、収まるようで収まらない。
私は直接の当事者ではないので、関わりようもないの、傍観しかできません。
でも何かできることがあるのではないかと思い、明日、一緒にお茶でも飲もうかと提案してみました。
まさかの答えが戻ってきました。
湯島に来るかもしれないのです。

さて明日は良い日になるかあまり良くない日になるか。
少なくとも私自身の気持ちを善くしておかねばいけません。
今日の予定はすべて変えましょう。
孫が、元気を与えてくれるといいのですが。

そろそろ孫が来るようです。

 

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■節子への挽歌4240:今日も節子から元気をもらえるでしょう

節子

節子がいなくなった後、朝、起きてパソコンに向かうと自然と頭の中に書くことが浮かんできて、挽歌が書けました。
しかし次第に「自然」には浮かんでこなくなり、さて、何を書こうかと思うようになりました。
節子が、もう私の内部に住み込んでしまったからかもしれません。
あえて話しかけなくても大丈夫、というわけです。

あるいはもう節子がいなくなったのかもしれません。
つまり「成仏」ということです。

いずれなのかはわかりませんが、まあいずれにしろいいことです。

今朝も、パソコンを開いて、ネットを確認し、さて挽歌を書こうとしています。
何を書こうか、と思ったのですが、そういえば、以前は、挽歌を書こうと思わなくても自然に書き出していたなと思ったのです。

それに番号を追いつかせるために、最近は毎日複数の挽歌を書こうとしています。
これって本末転倒のような気もしますが、やはり毎年の命日には番号を合わせておきたいと思っていますので、本末転倒であろうとなかろうとそうするつもりです。

最近、節子の夢を見ることはなくなりました。
たまには出てきてもいいと思うのですが、出てきません。
だからといって、私の生活から節子が消えたわけではありません。
節子から元気をもらっているのは、今も毎日です。

今日も節子から元気をもらいながら、1日を過ごそうと思います。
気持ちの良い朝ですから、きっと良い日になるでしょう。

 

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2019/05/14

■節子への挽歌4239:冬から春へ

節子
この数か月、いささか世間嫌いになってしまい、友人に声をかける気が起きてきませんでしたが、昨日から少しずつ声を駆け出し始めました。
サロンの企画もまた始めようと思います。
畑作業の効用かもしれません。
久しぶりにちょっと長い冬でした。

その「冬」なのですが、「ふゆ」とは「魂が増える」というのが語源だという話を本で読みました。
中沢新一の「熊から王へ」にはこんな説明があります。

「ふゆ」ということばは、「ものがふえる」という意味をあらわしています。何が増えるのかと言うと、タマ=霊魂がふえるのです。

「冬」と言えば、魂が閉じこもるようなイメージを持っていましたが、この文章に出会って、イメージが一変しました。
たしかに、私自身の体験からも、とても納得できます。
それも、「増える」というよりも「富える」と表現したいですが、量的にではなく世界が広がる感じです。

冬のイメージが変わってしまいましたが、それによって私の意識も変わったようです。
「富える魂」が、春をもたらしてくれるのでしょう。
「はる」は、草木の芽が「張る」、田畑を「墾る」から来ているとという説もあるそうです。

畑では野草の芽の張り方はすさまじいほどです。
冬によほどのエネルギーを高めていたのでしょう。
私も素直に自然に任せると、そうなるのでしょう。

引き籠りはそろそろ終わろうと思います。

 

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2019/05/13

■節子への挽歌4238:生と死の同質性と対称性

節子

粘菌を研究していた南方熊楠は、生と死のあいだには同質性と対称性があるはずだと考えていたそうです。
そして、ニューギニアの狩猟民は「人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するの一段階にすぎずとするも、むやみに笑うべきではない」と書いているそうです。
いま読んでいる中沢新一の「対称性人類が」で知ったことです。

「生と死のあいだには同質性と対称性がある」というのは、確かに共感できる捉え方です。
にもかかわらず、私たちは「誕生」を祝い、「死去」を嘆く。
その理由を考えてみるのも意味があるかもしれません。

ところで、「粘菌」といえば、節子と私の共通の友人の前田さんの研究テーマでした。
前田さんは一緒にハワイのキラウエア火山に言った仲間で、当時は大阪大学の教授でした。
しばらくしてアメリカに転居、節子の病気以来、付き合いはなくなってしまいました。
私も当時、前田さんの著書を一冊もらい読みましたが、歯が立ちませんでした。
節子は読んでもいないでしょう。

植物と動物の明確な境界は、最近はなくなってきているようですが、まもなく鉱物との境界もなくなるでしょう。
南方熊楠が粘菌に興味を持ったのは、それが動物でもあり植物でもあった、つまり両者には同質性と対称性からと中沢さんは書いていますが、生と死もまた同質性と対称性を持っているというのです。
こういう捉え方が、最近、なぜかとても納得できるようになってきたのです。
なんとなく魅かれていた華厳経のインドラの網が実感できるような気もします。

死は生である、と考えると、死もまた祝い事になります。
死への恐怖を植え付けられた理由はいったい何なのか。

たとえば、映画「トロイ」で描かれていたスパルタの兵士は、誰も死を怖がってはいませんでした。
20世の戦争ではみんな怖がっているのに、なんでだろうと、古代史を読んでいて、いつも不思議に思っていたことですが、最近ようやくその謎が理解できるようになりました。
どこかの時点で、生と死が切り離されたのです。
そして「魂」とは別に生き方に切り替えてしまった。

困ったものです。

 

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■節子への挽歌4237:突然の目覚まし音で目が覚めました

節子
昨夜はめずしくよく眠れました。
畑仕事のおかげかもしれません。
ただ夢をよく見ました。
ちょっと暗示的な、気になる夢です。

5時30分、安いビジネスホテルのモーニングコールのような音で目が覚めました。
もちろん私の枕元には、そういう音を出すものはありません。
たしかの音の記憶は残っていますが、どこにも音を出すものはありません。
気のせいかもしれませんが、気のせいではないかもしれません。

東日本の大津波がやってくる直前、なぜか毎日のように洪水に襲われる夢を見ました。
みんなで山に逃げる夢もありましたし、洪水で洗い流された廃墟に立つ夢もありました。
しかも、同じ場所が出てくるのも不思議でしたが、夢というのは記憶があいまいなので、前にも見たという記憶もまた、夢かもしれないと、その頃はよく思いました。
山に逃げる夢の場合も、はるか山の下の海が盛り上がるのが見えました。
そして一瞬のうちに高波が山のすぐ近くに迫ってくる。

3月11日の東日本大震災が発生した後、洪水の夢は一度も見なくなりました。

この2日間、同じ友人が夢に出てきます。
いつも最後は彼がいなくなります。
そして今朝の530分の突然の目覚まし音。

何かなければいいのですが。
確認はしないことにしました。

 

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2019/05/12

■節子への挽歌4236:「生き方」を考えなおせ?

節子

今日もまた畑に通いづめでした。
土を耕すことが、こんなにも面白いことなのか、と驚きます。
野菜の栽培や収穫は大変ですが、土を耕すのは、ただただ耕せばいいからです。

その合間に、今日はイギリスのテレビドラマ「刑事フォイル」を見ました。
原題は「フォイルの戦争」です。
最終シーズンは、戦争が終わった直後のイギリスが舞台ですが、原爆開発や米ソの諜報活動などとの絡みが描かれています。

昨日放映されたエピソード44は、信念を曲げずに生きることが、果たして社会にとっていいことかどうかを考えさせるドラマでした。
私がそうありたいと思っている生き方ですが、残念ながら、なかなかそういう場面に出くわさない生き方になってしまっています。
私が多分、社会から逃げてしまっているのでしょう。

昨日も書きましたが、畑仕事をして帰宅すると身体がクタクタです。
そこでテレビの録画を見てしまうわけですが、昨日はマルクス・アウレリウスの「自省録」の解説番組でした。
これも生き方をテーマにしていました。

意図したわけではないのですが、なんだか生き方を考えろと言われているような気がしてきました。
いまのような惰性状況から抜け出ないといけません。

明日は畑にはいかないようしましょう。
畑に行くと、なぜか心が充実してしまい、何もやらなくてもいいような気になってしまいますので。

さて今夜はまた神話の話を読もうと思います。
「対称性人類学」、中沢新一さんの古い本です。
これがまた実に面白い。
畑で過ごす時間の意味を実感させてくれるのです。

この本を読むとまた明日、畑に行きたくなりそうな懸念もありますが。

 

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2019/05/11

■節子への挽歌4235:孫との付き合い

節子

孫が欲しいといっていたおもちゃのショッピングカートが届きました。
孫がやってきて喜んでいましたが、どうも納得来ません。
私の好みではないからです。
それで改めて「11ひきのねこ」シリーズの童話セットをプレゼントすることにしました。
馬場のぼるの絵本ですが、私も娘たちも気にいっていた絵本です。
絵本はみんな捨てられていますが、特にみんなのお気に入りだった2作目の「アホウドリ」の話は残っていて、孫が持っていきました。

孫は、今日は両親からもらったおもちゃを持ってきて、私にもコーヒーをご馳走してくれました。
もちろん空の小さなコーヒーカップですが、こういうのに付き合うのは苦手です。
それで畑に誘いましたが、今日はショッピングカートに夢中で畑には行けませんでした。
孫と付き合うのも大変です。

今日も初夏を思わせる1日でしたが、あいかわらず「やるべきこと」には手が出せません。
相手もあることなので、申し訳ないのですが、価値を認めていることに限って、取り組めないのです。
友人を裏切ることにもなりかねないのですが、なにかが留め金になっています。

困ったものです。

 

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■節子への挽歌4234:宇宙の秩序に従って生きること

節子

畑から帰ってきて(1時間半精出しました)、録画していた「100分で名著」のマルクス・アウレリウス「自省論」を見ました。
皇帝時代に、カッシウスの反乱の報に急ぎ駆けつけたにもかかわらず、カッシウスはすでに殺害され、彼のところに首が届いた時のアウレリウスの反応にとても共感しました。
アウレリウスは、自分に足して反乱を起こしたカッシウスを許そうとしていたのだそうです。
見習わなければいけません。

アウレリウスは、宇宙の秩序に従って生きることを目指したようです。
そして、理性とは善いことを目指すこと、善いこととは自らが幸せになること、と考えていたそうです。
とても納得できます。

ちなみに畑仕事をしていると、宇宙の秩序を感ずることがあります。
たぶん私の中にある「魂」が宇宙に反応するのでしょう。

アウレリウスの「自省録」を読みたくなりましたが、大変そうなので、「100分で名著」のテキストですまそうと思います。

 

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■節子への挽歌4233:六道を生きる

節子
3日連続してのかなりの畑作業のためか、身体が痛くなってきました。
腕は虫か何かに刺されてかゆくて仕方がありませんし、
今朝も絶好の畑日和なのですが、どうしようか迷います。

畑をやっていると、仏教でいう「六道」のことが何となく納得できてきます。

人は「十界」を生きていると天台宗は言います。
「十界」とは、人間の心のすべての境地を十種に分類したもので、地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界があるといいます。

私のような普通の人は、前の6つの世界を生きていますが、この6つを「六道」というそうです。
人はこの6つを順繰りに歩いているわけではなく、これらを重層的に生きているというのが、仏教の教えでしょう。
つまり、私の中には、この六道が宿っている。
親鸞は、「声聞」「縁覚」「菩薩」「仏」といった聖人もまた、誰の中にも宿っているといっていますが、私もそれを受け入れています。
そして、「解脱」は望んでいません。

人生とは、その「六道」や「十界」を行き来しているのかもしれません。
人生は、誕生から死までの一直線ではなく、同時に十界を往来する終わりのない輪廻でもあるというのが仏教の考えです。
自分では人間界に生きているように思っていても、実はほかの領域を生きているのかもしれません。
しかし、私たち普通の人間に見えるのは、人の姿だけですので、たぶんどんなところにいようと人間に見えてしまう。

畑で土と格闘し、野草や樹木と格闘し、時に土の中の虫や竹の根っこと会話していると、自分の中にある六道を何となく感じますし、そうした様々な土石を含めた生命と触れ合っていると、生命のつながりを感じます。
説明はできませんが、何となくわかったような気になるのです。

以前も書きましたが、畑作業は殺生の連続であるとともに、生命を育むことでもある。
ゼロサムの世界であるとともに、プラスサムの世界でもある。
時間がゆっくりと進んでいるようで、ちょっと気を抜くと瞬時に事態が変わることもある。
実に豊かな世界なのです。
そして自分の役割もよく見えてくるし、自分の魅力さも思い知らされる。

畑にいると心和んで、時間を忘れるのは、たぶんいつもとは違う時間軸にあって、多重な世界を往来しているからかもしれません。
やはり今朝も畑に行くことにしましょう。
時間によって違っていることも畑の面白さです。

今日はちょっと早目の畑にしましょう。
熱中症のスリルは味わえませんが。

 

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2019/05/10

■節子への挽歌4232:ネットつながり

節子

自然との付き合いは心を癒されることが多いですが、人との付き合いは思わぬトラブルがつきものです。
今日もまた思ってもいなかったトラブルが発生しました。
私は当事者ではないのですが、私の友人に降りかかってきたトラブルです。
しかもトラブルを起こした方も受けた方も私の友人なので、いささかのやりきれなさを感じます。
ちょっとしたずれから生じたトラブルだと思うのですが、一方の人からは「死んでしまいそう」などとメールが来るとさすがにちょっと心配になります。
しかし人と付き合うということはそういうことでしょう。

トラブルではありませんが、高齢の友人が肺炎で入院という知らせも届きました。
最近はネットがあるため、そういうことが簡単に入ってきます。
しかも悪いことに、ネットの場合は、速報度は高いですが、正確度にかけるところがあります。
しかしいずれにしろ心の平安は影響をうけます。

ネットのおかげで、世間から断絶しての平安は守れません。
今日のように1日、在宅していても友人知人とはつながってしまっているわけです。
ネットでつながるのも良し悪しです。

もっとも知ったからといっても何かができるわけでもありません。
何かをしたくなるわけでもありません。
すぐにお見舞いにいくほどの仲でもありませんし、すぐに仲裁に行くほどの当事者性もありません。

情報が多ければ多いほどいいわけでもありません。
ネットつながりは、むしろ人のつながりを弱めていく可能性さえあります。
そうならないようにしなければいけません。

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■節子への挽歌4231:お天道様の小作人三昧

節子

今日は朝と午後、畑で4時間以上過ごしました。
といっても農作業ではなく、開墾作業です。
節子がやっていた時でさえ、放置されていた笹薮をほとんど制覇しつつあります。
そのため頑張ってしまったわけですが、だからといって畑になったわけではありませんし、そのために花壇の方はなかなかきれいになりません。

今日も作業していたら道を通りがかった人からきれいになりましたね、と言われました。
重労働中だったので、息切れでうまく対応できませんでしたが。
開墾作業に熱中するあまり、植えておいた苗を折ってしまったり、踏んでしまったりして、農作業の方はむしろ後退していますが、すべての「食べられない野菜」を抜いたのですっきりしました。

うれしいことに、イチゴが成りだしました。
のどが渇くとイチゴを摘まんで食べることができるわけですが、これはまさに理想的なスタイルです。
といっても、まあ食べるといっても23つですが。

昨日も2時間ほど畑作業をしましたが、太陽がとても気持ちいいです。
今日は暑くて初夏のようで、さすがに防止嫌いな私も帽子をかぶって作業をしていました。
もしかしたらまた熱中症まがいで倒れるかもしれないなと内心ちょっと思っていましたが、無事でした。

江戸時代のお百姓はほんとにあんなに悲惨だったのでしょうか。
あれは明治政府がつくった話ではないかと思えてなりません。

 

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2019/05/09

■節子への挽歌4230:孫が3歳になりました

節子
節子の孫が3歳になりました。
今日はその誕生日会に招待されました。

頼まれていたプレゼントは、注文していたのですが、10連休の影響で荷物が到着せず、プレゼントなしでの訪問です。
間に合わせに別のプレゼントを用意しようかと思いましたが、時間がなくて準備できませんでした。
それで苦肉の策として、朝、畑で収穫したイチゴを2つ(しか収穫できませんでした)持っていきました。
どうも水をやりすぎて、甘みが少ないようで、孫には気に入られませんでした。
しかし孫は父母のプレゼントで満足していました。

3歳になると少し安心できます。
それに自分の意思もしっかりしてきて、コミュニケーションも成立します。
コミュニケーションが成立するということは、私に言いなりにはならないという意味です。
私は、自分の娘の時がそうだったのですが、3歳になった時点で一人の人間として認めることにしていますので、これからは孫との関係も対等になります。

子育てに関しては、世間でよく言われるように、私の世代と娘の世代では考え方がかなり違いますし。男性と女性でも考えが違います。
したがって私はあまり意見は言いませんが、時々、違和感を持つこともあります。
しかしそれは個人の好みもあるでしょうから、もちろん娘たち夫婦の考えは尊重しています。
節子がいたら孫や娘との関係もだいぶ違うだろうなと時々思うことはあります。
おそらくそれは娘も同じでしょう。

節子の不在は孫にも大きな影響を与えるようです。

 

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■節子への挽歌4229:シジフォスの気分

節子

老化に続いて、またいささかの弱音を。
最近、物事の処理能力が落ちています。
節子がいたころは、たぶん自分でも面白いと思うほど、いろんなことが処理できましたが、最近はなかなかそうもいきません。
そのくせ、いろんなことをやりたくなるのは以前と同じです。
そのため、やってもやってもいつも課題の量が減っていかないのです。
とりわけ速度が遅くなったのがネット対応かもしれません。

いまどうしようもなく滞っているのがホームページの更新作業です。
こまめにきちんと毎週更新していれば、こうはならなかったのですが、すでに半年ほど作業がたまっているところがあります。
これだけたまるとやる気も起きてこない。

この挽歌もそうです。
番号を追いつこうと頑張っていますが、なかなか追いつけません。
まだ30くらい遅れているようです。
毎日誠実に生きていれば、こういうことにはならないのでしょう。

シジフォスとは違いますが、なんだか気分はシジフォスです。
頑張ってもまた同じ繰り返しをしなければいけない。

さていつ解放されるでしょうか。
解放されるまでは、どうも気分がすっきりしません。

 

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■湯島サロン「過労死問題が問いかけるもの」報告

過労死をテーマにした2回目のサロンには10人を超える人が参加しました。
小林康子さん(東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人)は問題の背景などを話してくれた後、参加者に3つの問いかけをしました。

「業務における過重な負荷」
「業務における強い心理的負荷」
「そのような就労環境」

これに関して話し合おうということになりました。

ところが最初から、過労死問題の捉え方に関する根本的な問いかけが出されました。
昨今の過労死問題や働き方改革は「雇用労働」に焦点を絞りすぎているのではないのか、過労死は個人営業やフリーワーカーの人たちにも発生している、というのです。
そして波乱万丈のサロンになっていきました。
そんなわけで、さまざまな話題にとびましたが、そのおかげで、「労働」を超えた社会のあり方や私たちの生き方へと視野は広がり深まったと思います。
そして、小林さんの問いかけにも深い意味でつながっていったように思います。

少し具体的な話を紹介すれば、時間以外の要素にもっと目を向けるべきではないかという意見が多かったです。
納得できていない仕事と納得して取り組んでいる仕事とでは同じ労働時間でもまったく違うのではないか。
個人で仕事をしている人たちの労働時間は場合によっては雇用労働者の残業時間よりも長い場合もあるが、だからといって過労死が問題にならないのはなぜか。
働かされているのか、働いているのかで違うのではない。
ILOが取り上げているディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)や雇用労働と協同労働の話もでました。

日本には、組織を辞める自由が少ないし、辞めることを恥と思う文化もある。
本人が自分に負荷をかけている面もあるのではないか、といった日本人の考え方や生き方の話も出ました。
組織のため、会社のために働いていることが問題ではないか。
かつては、会社のためと自分のためとがつながっていたが、いまは切り離されてしまった。
もっと自分の生活を起点に考えることが大切ではないか。

お金に縛られすぎているのではないかという話もありました。
そうならないように、いろいろな人のいろいろな生き方を知ることが大切だという指摘もありました。

過労死に向かってしまう人は、自分が見えなくなってしまう。
家族などのまわりの人が忠告してもわかってもらえない。
そういう時に、相談に乗ってくれる人や、気づかせてくれるような場や仕組みがほしい、と遺族の方からの体験談もありました。
企業でもカウンセラーや相談窓口をつくっていますが、当事者目線での仕組みがまだ不十分のようです。
これは過労死に限ったことではありません。

働き方改革の動きが、逆に労働条件が悪化させる危険性もあるという指摘やそもそも「正規」「非正規」という働く人たちを分断しているのが問題ではないかという指摘もありました。

過労死問題の原因は3つ。90年代に外資系コンサルが日本人の働き方を変えたこと、日本人の好きなスポ根文化、そして日本人の帰属意識重視文化だという指摘もありました。

さらには、教育の問題やセイフティネットまで、書き出していったらきりがないほど、いろんな話が出ました。
「過労死問題が問いかけるもの」は労働や企業だけにはとどまらないのです。

私は、経済ではなく生活を基本にした社会に変わっていくことが必要ではないかと思いますが、そのためにはまず私たち一人ひとりが自分の生活を大切にしていくことではないかと思います。
過労死は、社会のあり方を象徴している表現の一つです。
制度的な対策も必要でしょうが、私たちの生き方や社会のあり方に根差している。
そのためにはまず、いろんな生き方があることやいろんな世界があることをもっとみんなに知ってほしいと思います。
それが湯島でサロンを続けている理由の一つなのです。

生き方として何に価値を置くか。自分が価値があると認められることのために働くことは楽しいことです。
働くことは楽しくなくてはいけないと思っている私としては、働くことは生きることなので、過労死という捉え方にはそもそも違和感があります。
私たちはいったい「何のために」働いているのか。
そこから問い直さないと「働き方改革」は、事態をさらに悪化させていきかねない。
改めてそう思わされたサロンでした。

最後に小林さんが、こういう議論を広げていくためにも、秋に公開フォーラムを開催したいという提案をしました。
有志で実行委員会を立ち上げることを検討したいと思います。
一緒に取り組みたい方は、ぜひゆるやかな実行委員会のメンバーになってください。
ご関心を持っていただけたら、私にご連絡ください。

Karoushi190506

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2019/05/08

■節子への挽歌4228:老いの実感

節子

昼間はあったかかったのに夕方から風が強くなってきて、いまはかなりの強風です。
手作りのミニ温室は壊れてしまっていたので、夕方、直しに行ってきたのですが、この風ではまた壊れているでしょう。
ミニ温室もさることながら水道の蛇口も壊れてしまい、うまく水がやれません。
それも心配です。
せっかく育ってきた苗がダメにならなければいいのですが。

今日は娘と一緒に湯島に行きました。
そこで気づいたのですが、娘の足についていけません。
歩く速度が落ちているのです。
老いを感じざるを得ません。

歩く速度だけではありません。
最近うまく言葉が話せない気がすることがあります。
ろれつが回らないようなこともあります。
脳ドッグに行こうと思いながら、なかなか行けずにいますが、自分の認識以上に老化は進んでいるのです。
こんな状況で、誰かの誘いに乗って、新しいプロジェクトを起こしていいのかどうか。
迷惑をかけることにならないとは限りません。
いささか悩ましいところです。

今日も新しいプロジェクトのキックオフミーティングがありました。
その方とはひと月前に初めて会ったのですが、今日のお話では、私との出会いで迷いが吹っ切れたのだそうです。その理由はわかりませんが、私の生き方に共感してくださったようです。
それでそのプロジェクトにも私を巻き込んでくれたのです。

そういえば、もう一人、私を現世に引き戻そうとしてくれている人もまた、私との出会いが新鮮だったようです。
こういう人たちのおかげで、現世に引き戻されているわけですが、果たしたその期待に沿えるかどうか。

体力のみならず精神もまた劣化しているようでいささかの心配はあります。
畑の開墾作業で、風のときには壊れた温室を直しに行くくらいの生活が、いまの私にはふさわしいような気もするのですが、節子もよく知っているように、私には「断る」ことが苦手なのです。
どんな誘いにも、そこに「面白さ」や「自分の役割」を見出してしまうのです。

困ったものです。

 

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2019/05/07

■湯島サロン「葬儀や供養に関する自由な話し合い」の報告と次回の案内

葬送や供養にまつわることに関するQ&A型サロンを1~2か月に一度くらいの頻度で開催しています。
前回(第2回)は4月28日に開催、10人ほどの人が参加しました。

いろんな話題が出ましたが、戒名に関する質問も多かったので、次回は主に戒名に焦点を当てることになりました。
ただし、あくまでもこのサロンの目的は「葬儀や供養に関する何でも相談と自由な話し合い」ですので、戒名に特定するわけではありません。
ただ最初に中下さんから、戒名にまつわる話をしてもらいますので、戒名にご関心のある方は是非どうぞ。

なお、中下さんを中心に検討中の「新しい葬儀事業」は、体制がほぼ整ったので、活動を開始します。
関心のある人は、個別に私もしくは中下さんにご連絡ください。

〇日時:2019年5月26日(日曜日)午後1時~午後3時
〇場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:今回は「戒名」を主に取り上げますが、それに限りません。
参加者のご関心や質問を中心に話し合いをしていく予定です。
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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■節子への挽歌4227:晴耕雨読の1日

節子
畑の開墾作業は時間を忘れさせます。
今日もちょっとだけやってこようと思ったら、気が付いたら2時間もやっていました。
やっている時はそう感じませんが、やめてさて家に戻ろうとすると疲れ切っていることに気づきます。
自転車で畑まで行っているのですが、帰りに自転車はふらふらして危ないのです。
なにしろ45ℓの袋に刈り取った草を思い切り詰め込んで、自宅まで持って帰ってきているので、大変なのです。

野菜の手入れよりも、私が好きなのは野草を刈り取って、土中に広がっている竹の根っこを切り取ることです。
かなりの力仕事です。
電動農機は一切使わないので、頑張らないと草の成長に間に合わないのです。

今日は、草刈り作業をしていたら、通りがかりに人から、きれいになりましたね、と声をかけられました。
実際にはあんまりきれいにはなっていないのですが、毎日ここを散歩している人から見れば、1か月前に様子と比べてもらえるので、褒めてもらえるわけです。
しかし、そういってくれる人が一人でもいると楽しさもまた高まります。

開墾作業は何が楽しいかは前にも書きましたが、楽しいだけではなく、いろんなことに気づかされます。
今日は、科学技術の恐ろしさと北方狩猟民の熊の神話のつながりを思い出させられたのです。
帰宅して、中沢新一の「熊から王へ」を読みました。
ちょうどいま読み直しているところだったのですが、そこでイスラムの自爆のことまで狩猟民の神話に予告されていることに気づきました。

午前中は晴れていたのに、午後から雨が降りそうな天気に変わりました。
晴耕雨読の1日になりました。

ところで、今日はやぶの中で草刈りをしていて、首にチクッという痛みを感じました。
畑作業をしているとよくあることです。
先日はアリにかまれましたが、アリといっても最近は猛毒を持ったありもいるようなので、油断はできません。
今日はアリではないのですが、いまもまだチクチクします。
調べてもっらても外傷らしいものないのですが、4時間たってもまだ治りません。

畑作業は、ある意味での自然への攻撃ですので、この種のダメッジは当然受けることになります。
これもまたとても大切なことなのです。

畑作業から学ぶことは多いです。

 

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2019/05/06

■節子への挽歌4226:充実感のない10日間

節子

今朝は朝から畑に行って、午前中は少し気が重いミーティングをして、午後からは過労死をテーマにしたサロンです。
こんな感じで10連休も終わります。
与えられた休暇を消化するという生活とは30年前に縁を切りましたが、それでも連休は何かと私の生活にも影響を与えます。
やはり長年の学校時代と会社時代で、私の心身が自然と反応するのかもしれません。
なぜか長い連休が終わるとなると明日からがんばらないといけないなどとどこかで思ったりしているのです。
困ったものです。

それにしても、この10連休は実に怠惰に過ごしました。
結局、私も世間の10連休に素直に従っていたというわけです。
「怠惰」という意味は、何もせずに寝ていたという意味ではありません。
やるべきことをせずに、やらなくてもいいことをよくやったという意味です。
結構いろいろと動いていましたが、充実感が皆無ですし、宿題が相変わらず残っています。

仕事部屋も相変わらず片付いていません。
一昨日、スキャナーが壊れてしまいました。
早速に近くの坂谷さんが修理に来てくれました。
その前にせめて仕事場だけでも少し片付けようと思ったのですが、結局、その気が起きませんでした。
あまりに部屋が散らかっていたので、坂谷さんは驚かれたでしょう。

スキャナーは修理不能だろうと別のスキャナーを用意して、それを使えるようにしてもらおうと思っていたのですが、なんと坂谷さんはその直るはずのないスキャナーを直してしまいました。
おかげで私は大助かりだったのですが、狭い部屋は2台のスキャナーでますます散らかってきました。
坂谷さんは、いまパソコン関係の断捨離を始めたそうですが、私はまだできておらず狭い部屋には用済みのパソコンがいまもまだ3~4台放置されています。

物はともかく、この10連休では少し頭のなかも整理しようと思っていましたが、それも一向にできませんでした。
こうやって、散らかった人生はこれからも進んでいくのでしょうか。

未熟な人間の人生は、まあ、こんなものかもしれません。

 

今日は湯島の食器棚に残っていたリッツを食べて、昼食にしました。

食べ終わって箱を見たら、賞味期限が2016年9月になっていました。

時のたつのは速いです。

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■節子への挽歌4226:充実感のない10日間

節子

今朝は朝から畑に行って、午前中は少し気が重いミーティングをして、午後からは過労死をテーマにしたサロンです。
こんな感じで10連休も終わります。
与えられた休暇を消化するという生活とは30年前に縁を切りましたが、それでも連休は何かと私の生活にも影響を与えます。
やはり長年の学校時代と会社時代で、私の心身が自然と反応するのかもしれません。
なぜか長い連休が終わるとなると明日からがんばらないといけないなどとどこかで思ったりしているのです。
困ったものです。

それにしても、この10連休は実に怠惰に過ごしました。
結局、私も世間の10連休に素直に従っていたというわけです。
「怠惰」という意味は、何もせずに寝ていたという意味ではありません。
やるべきことをせずに、やらなくてもいいことをよくやったという意味です。
結構いろいろと動いていましたが、充実感が皆無ですし、宿題が相変わらず残っています。

仕事部屋も相変わらず片付いていません。
一昨日、スキャナーが壊れてしまいました。
早速に近くの坂谷さんが修理に来てくれました。
その前にせめて仕事場だけでも少し片付けようと思ったのですが、結局、その気が起きませんでした。
あまりに部屋が散らかっていたので、坂谷さんは驚かれたでしょう。

スキャナーは修理不能だろうと別のスキャナーを用意して、それを使えるようにしてもらおうと思っていたのですが、なんと坂谷さんはその直るはずのないスキャナーを直してしまいました。
おかげで私は大助かりだったのですが、狭い部屋は2台のスキャナーでますます散らかってきました。
坂谷さんは、いまパソコン関係の断捨離を始めたそうですが、私はまだできておらず狭い部屋には用済みのパソコンがいまもまだ3~4台放置されています。

物はともかく、この10連休では少し頭のなかも整理しようと思っていましたが、それも一向にできませんでした。
こうやって、散らかった人生はこれからも進んでいくのでしょうか。

未熟な人間の人生は、まあ、こんなものかもしれません。

 

今日は湯島の食器棚に残っていたリッツを食べて、昼食にしました。

食べ終わって箱を見たら、賞味期限が2016年9月になっていました。

時のたつのは速いです。

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2019/05/05

■湯島サロン「憲法ってなんなのだろうか」報告

年に1度の「憲法サロン」は、今年は自由な憲法談義にしました。
12人が参加。湯島サロンの初参加者も2人いました。
日本国憲法の条文が直接語られるというよりも、憲法とは何かを考える、いろいろな話が出ました。

Kenpo1905

最初に、憲法と法律との違いを話題にさせてもらいました。
日本国憲法には「この憲法は国の最高法規」と書かれているので、憲法は最上位の法律と思っている人は多いでしょう。
しかし、「憲法」と「法律」とは、全く別のものだと私は考えています。

どこが違うかと言えば、「憲法」は国家を統治する権力者に向けてのものであり、「法律」は権力者が統治する国民に向けてのものなのです。
また、憲法は国の形や目的を決めていますが、法律はその形をつくるルールを決めています。
つまり両者は全く別のものなのですが、学校でも社会でもそういうことは教えてくれません。

権力を信託された権力者が「憲法」の理念に従って「法律」をつくるという意味で、憲法は法律を規制しますが、規制しているのは法律というよりも、法律を制定する権力者なのです。
対象が全く違うのですが、ここを理解しておくことが大切です。

しかし、最近の日本の憲法論議は両者を混同していますから、憲法は私たちの生活にはつながらないと思ってしまうのです。
昨今の憲法論議は、すでにして「権力者の政治」の舞台に乗せられてしまっているような気がしてなりません。

これに関しては、湯島サロンの常連の折原さんが、昨年、コスタリカに行ったときの報告で、とても示唆に富む話を紹介しています。
ちょっと長いですが、折原さんの報告(「AMAZON 20192月号「今日のコスタリカを築いた方々を訪ねて」」から要旨を引用させてもらいます。

コスタリカの国民にとっては、憲法は極めて身近なところにあって、憲法を使って自分たちの権利を主張して、簡単に裁判に持ち込める。その実例として、町役場が学校のサッカー場の隣に溝を掘り始めて、溝が非常に臭かったため、小学生が憲法裁判所に「これはぼくたちのレクリエーションの権利を侵害している」と訴え、裁判所が町役場に「1週間以内に溝を塞ぐように」との判決を出したことを紹介してくれました。

コスタリカでは憲法の役割と国民主権の意味がしっかり認識されているわけです。

日本国憲法が中心に置いている価値はなんなのか。
平和や人権と考える人が多いと思いますが、「平和」も「人権」も時代によって大きく変わってきています。
それに、アメリカの平和はイスラムにとっては平和でないかもしれませんし、自らの人権を守るために他者の人権を踏みにじることで格差社会の人権が成り立つこともある。
いずれも「相対的」な概念なのですから、価値原理にはなりえません。

「個人の尊厳の尊重」こそが日本国憲法の中心価値ではないかと私は思っていますが、これに関しても少し議論がありました。
しかし、その「個人の尊厳」は、自民党の憲法改正案では否定されています。
個人である前に「国民」でなければならないとされているのです。
そういう発想がかつての戦争を可能にしたわけですが、平和とは反転する概念であることをしっかりと認識しなければいけません。
国家は国民のためにあるのであって、国民が国家のためにあるわけではありません。

「国民」とは何かの議論もありましたが、国民は近代国家を支える3要素の一つとして生まれた国家のための要素です。
しかし、国家の3大要素と言われる「領土(領域)」「国民」「主権」のうち、グローバル化の進展で、領土も国民も意味を弱めている中で、国家の意味は失われてきているのではないかという意見も出ました。
もし領土と国民が意味を失ったとしたら、国家はそれこそ支配権力の「主権」を正当化する概念でしかありません。
そうなれば、法律とは全く違うものとしての憲法の意味は大きくなってきます。

ところで、憲法は統治者を制約するもの、法律は被統治者を制約するものと捉えると、どうしても統治者と被統治者の二元対立構造の問題が生じます。
最近の日本ではまさにそういう状況が顕在化しつつります。
そこで重要になってくるのが、第3の存在としての「象徴天皇」です。

私は、天皇は古来象徴だったと思っているのですが、その象徴性こそが「政治性」そのものなのではないかと感じています。
問題は、権力に利用されることもあれば、被統治者の守護神になることもある、それが第3の存在の意味でしょう。
今回のサロンでも、天皇制や天皇に対する好感度は高かったような気がしますが、世間的にもいささか驚くほどに天皇への期待は大きくなっているように思います。

湯島のサロンでは、日本国憲法の最初に「天皇」の規定があることに違和感を持つ人が多いのですが(私もそうでした)、私は最近、その認識が変わりました。
統治者と被統治者が対立した時、革命でも起こさない限り、勝敗は明確です。
権力者と国民の二元対立構造をバランスさせる存在としての象徴天皇の価値はとても大きいのではないか、それこそが日本国憲法の最大の要ではないかとさえ思えるようになってきています。
天皇制に関するサロンをしたらどうかと提案したら賛成する人が少なからずいました。
一度考えたいと思います。

サロンで話されたいくつかのことを主観的にまとめてしまいました。
まとまりはあまりありませんでしたが、私にはとてもいいサロンだったような気がします。
来年の憲法サロンが待ち遠しいです。

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■4225:子どもの病気

節子

一昨日、孫が高熱を出してしまいました。
連休の最中なので、病院も大混雑のようで、お医者さんからは様子を見た方がいいといわれたそうです。
インフルエンザかもしれないと思いましたが、幸いに一晩寝たら熱は少し下がったそうです。
お見舞いに行ったら元気ではしゃいでいました。

ところがまた夜に熱を出したと連絡がありました。
今日は子どもの日で、いろいろと予定が組まれていたようですが、今日もキャンセルして自宅療養だそうです。
病院はどこも混んでいるようで、電話連絡しているようですが、結局、行かなくなりました。

ユカが毎日、お見舞いに行っていますが、今日はだいぶまた元気が戻ってきたそうです。
午後、スマホのテレビ電話がかかってきましたが、元気そうです。
しかし、小さな子どもにはどうしても不安があります。

節子は(私もですが)、次女のジュンに関しては大変な思いをしています。
かかりつけのお医者さんの誤診で、急性肺炎と診断されず、帰宅した節子がやはりおかしいと感じて、救急車を呼んだことがあります。
私が自宅に着いたのと同時に救急車がわが家につきました。
私は全く知らないままの帰宅でしたが、私の前を走っていた救急隊員がわが家に入っていくのには驚きました。
当時はまだ携帯電話がなかったのです。

一時はお医者さんに見放されたほどでしたが、奇跡的に娘は助かりました。
そういう事件があったので、節子は子どもの病気にはいつも心配していました。
もし節子がいたらきっともっと大騒ぎしたかもしれません。

乳幼児の子どもの生命がいかにもろいものかは、私はほとんど知りませんでした。
節子が育児にいかに苦労したかは、娘が孫を産むまでは全く思いもしませんでした。
いのちのありがたさは、娘と孫から教えてもらったようなものです。

その孫ももうじき3歳です。
3歳になればもう大丈夫でしょう。
3歳の誕生日のプレゼントは孫からあるものを頼まれています。
私にはあまり納得できないおもちゃなのですが、頼まれてからには仕方がありません。
ネットでないと買えないといわれたので、今日、ネットで発注しました。
しかし、なんでこんなものが欲しいのか、理解できません。
なにかといえば、おもちゃのカートなのです。
3歳未満の子どもの気持ちはなかなかわかりません。

 

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2019/05/04

■節子への挽歌4224:「明日でもいいか」「来世でもいいか」

節子
この連休中は、世間もお休みなので、たまりにたまった宿題や課題を消化しようと考えていました。
たとえば、ホームページの更新がかなり遅れていて、この連休中に解消しようとか、友人との約束をさぼっていたのでそれを何とか対応しようとか、いろいろと思っていたわけです。
しかし、10日もあると、まあまだいいか、まだ時間があると、ついつい油断してしまい、結局、連休中にやろうと思っていたことは、今もって何一つできていないのです。
困ったものです。

今日こそ動き出そうと思っていますが、まあ私のこれまでのことを考えると、今日もまた、「明日でもいいか」と延ばす可能性が高いです。
実に困ったものです。

しかしこれは、毎日毎日の生活のことだけではありません。
人生もまた似たようなものかもしれません。
来世を想定して生きている私には、「明日でもいいか」と同じように「来世でもいいか」と考える道があるのです。

なぜこうなるのかと言えば、何が大切なのかの価値基準が私の場合ちょっとずれているからかもしれません。
これは節子からも時々指摘されていたことです。
自分の気持ちに素直に従うこと。
これが私の行動基準なのですが、これはそう簡単ではありません。
いろんな意味で常識や価値観を私も吹き込まれて大きくなったこともあって、この行動基準に従っている、世間の常識や価値観とのずれが起きて、ストレスが発生します。
節子がいた時には、それを節子が緩和してくれていましたが、いまはそれができません。

こんなにストレスフルな人生になるとは思ってもいませんでした。
人生はなかなか思うようにはいきません。
昨夜も真夜中に目が覚めて、眠れなくなりました。
おかげで本が1冊読めました。
「主語を抹殺して男」。
日本語学者三上章の評伝です。

今日は畑仕事の予定ですが、寝不足で倒れないようにしなければいけません。

 

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2019/05/03

■節子への挽歌4223:生きて存在しているだけでいい

節子

今朝のテレビで、数日前に放映された「「だから ふたりで~JR福知山線脱線事故~」が再放映されていました。
早く目が覚めてしまい、見るでもなく見ていましたが、引き付けられてしまいました。

福知山線脱線事故は14年前に起こった脱線事故で、107人の人が亡くなりました。
その事故で、最も犠牲者が多かった2両目で一命を取り留めた小椋聡さんの、その後のドキュメントです。
小椋さんは、自らが生き残った意味を見出そうと、犠牲者の最期の様子を調べ、遺族に伝える活動に取り組むのですが(小椋さんはそれが生き残った自分の使命だと感じたといいます)、夫を支えようとその活動に加わった伴侶が、事故の凄惨さを知り、心に深い傷を負い、動けなくなってしまうのです。

小椋さんは、その後、会社を辞め、田舎に転居し、いま妻を見守る生活をしています。その小椋さんが言った言葉が、言葉に響きました。
「妻は生きて存在しているだけでいい」。
ちょっと不正確かもしれませんが、そこに「生きる価値」のすべてが示されています。

「生きる価値」を問う人がいます。
私にはまったく無意味な問いですが、問うてはいけないこともあります。
「生きる価値」は、まさにそうした問いだろうと思います。
つまり、「生きる」ことが価値なのです。

私はこのことを節子から教えてもらいました。
にもかかわらず、最近、生きることに誠実ではなくなってきているのではない、と、小椋さんの言葉を聞いて気が付いたのです。

生きることに誠実であることは私の信条だったはずです。
心を入れ替えなければいけません。

今日こそ、気持ちのいい朝です。
陽光が、とてもあたたかく、明るいです。

 

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■節子への挽歌4222:懐かしの西部劇

節子

昨夜はテレビの西部劇を見てしまいました。
大学生の頃に観た「遠い喇叭」をテレビで放映していたのです。
節子はよく知っていますが、節子に会った頃は私はまだ西部劇ファンでした。
学生の頃は、一時、映画評論家になりたいと思った時期もあるくらいで、たぶん大学よりも映画館にいた時間の方が長かった時期もあります。
映画を観る合間に、西部劇(これも映画ですが)もよく観ました。

「遠い喇叭」はよくある西部劇の凡作ですが、主演の2人の名前はなぜかはっきりと覚えています。
いずれもそう有名な俳優ではありませんが、美男美女でした。
当時の西部劇は、勧善懲悪の娯楽だけの作品で、だいたいにおいてパターンは一緒でした。
いささかややこしい映画を観た後に、気分転換にはもってこいの作品が多かったのです。

節子と一緒になってから、西部劇はあまり観なくなりました。
節子は、西部劇のように人が殺し合う場面が好きではありませんでしたし、そもそも映画がそう好きではなかったのです。
最初の頃は、いろいろと私の好みで付き合わせてしまいましたが、次第に映画にはあまり行かなくなりました。
節子が好んだのは、美術展や音楽会でした。

一緒に生活する期間が長くなるにつれて、私たちが行く場所も変わってしまいました。
最後に一緒に観た映画は何だったでしょうか。
記憶に残っているのは「永遠と一日」ですが、少なくとも西部劇ではありませんでした。

西部劇も、その後、内容が大きく変わってしまいました。
いや、西部劇だけではなく、映画は私が大学生だったころとは全く別のものになってしまった気がします。
世相を反映しているのかもしれませんが、面白いですが、楽しくはありません。
しかし、それに慣れてしまうと、昔の映画が全く退屈に感じられてしまうのです。

そうでない映画もありますが、「遠い喇叭」はやはり退屈でした。
ただただ懐かしさで観ていた感じです。

節子がもしいたら、昔を懐かしみながら観られたかもしれませんが、そういう昔話もなく、ただただ退屈しながら感慨にふけりながら最後まで観てしまいました。
もっとも、節子はこの映画は観ていません。

 

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2019/05/02

■節子への挽歌4221:畑の大根の花を蝶のために残しました

節子

午後から天気がよくなってきたので、がんばって畑に行きました。
ミニ温室をつくり、スイカとメロンを植えました。
さてどうなりますか。

花壇の整備は大変なので、今日は花でいっぱいだったところを全部抜きました。
ただ大根の葉だけ残しました。
ちょうど抜こうと思った時に、アオスジアゲハが花の蜜を吸いに来たからです。
やはり残しておかなければいけません。
お天道様の小作人にとっては、蝶に蜜を提供するのも大切な仕事です。

Img_20190502_150455

畑の周辺の草を取っていたら、ミョウガたくさん芽を出しているのに気づきました。
先日、数本見つけたのですが、かなり広範囲に広がっています。
やはり何もしない方がいいような気もしてきました。
耕してしまうとせっかくこぼれていた芽がダメになりかねません。

ちょっとさびしいのは、食べ残して芽が出てきたジャガイモやニンニクを植えたところです。
最初は元気に芽が出てきたので安心していましたが、やはりその後の生育がよくありません。
残念ながら食用にはならないかもしれません。
まあしかし、主目的は開墾ですので、収穫はおまけなのです。

帰宅したら孫が来て、また庭の掃除を手伝わされました。
孫は掃除が好きなのです。

土と孫に付き合って、昨日から少し斜めになっていた機嫌が直りました。

 

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■ミッション・クリープ

先日、挽歌で「ミッション・クリープ」に少し言及しました。
それについて、時評編でも書いておこうと思います。
この風潮は、やはり戒めておきたいと思ったからです。
戒めの対象は、もちろん私自身ですが。

「ミッション・クリープ」という言葉があります。
当初対象としていた範囲を拡大したり、いつ終わるか見通しが立たないまま人や物の投入を続けていかなくてはならなくなった軍事政策を批判するアメリカの軍事用語でしたが、
「終わりの見えない展開」という意味で、広く使われてきています。

たとえば、人権概念の広がりにも使われることがあります。
どんどん対象を拡大している人権運動が、動物や自然にまで広がっているのはその一例です。
最近のパワハラやセクハラの捉え方も、そうかもしれません。

そういう動きを否定するつもりはありませんが、いささかの行き過ぎを感ずることもあります。
前にも時評編では「ゼロ・トレランス」への懸念を書いたことがありますが、とまることのないミッション・クリープにも危惧を感じています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html

特に最近は私たちが生きる拠り所にしてきた家族が攻撃対象になっているのは残念です。
「攻撃」するのではなく「改善」していきたいものです。
そういう意味で、私は「家族という呪い」とか「家族という病」とかいう言葉を軽軽に使う人の見識を疑いますが、しかしそういうほうが多くの人の関心を呼んで、問題意識を持ってもらうのには効果的なのでしょう。
ですから一概に否定すべきではないのですが、どうしても好きになれません。
「言葉」は「実体」を創っていくからです。

大切なのは「病の家族」を健やかにし、「家族を苦しめる呪い」を祓っていくことです。
伴侶を亡くしたものにとって、病であろうと呪いであろうと家族も親子もとても価値のあるものです。
そして、それがあればこそ、家族のような仲間も生まれてくる。

ちなみに、私が考える家族は、血縁でも異性を軸にしたものでもありません。
一緒に暮らす(生きる)人の暮らし方くらいの意味です。
その基本モデルが、現在の「家族」制度ですが、その制度に制約される必要はないでしょう。
制度はあくまでも「手段」ですから、状況によって変わらなければいけません。

有識者の呪いや病を直してやりたい気もしますが、私の方が呪いにかかり、病を得ているのかもしれません。
それにしても、家族とは不思議なものです。

 

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■節子への挽歌4220:自然の生命力

節子天気がいい日になるかなと思っていたら、曇ってきました。

庭の鉢などの整理をしているうちに、疲れてしまって、畑はやめました。
人は怠惰に流れるものです。

昨日、庭で野菜を育てようと大きなプランターを買ってきたのですが、トマトを2本、植えたらそれでもう一杯になってしまいました。
植えようと思っていた候補の苗があまってしまいました。
計画性がないとこういうことになります。

置きっぱなしになっていたプランターを見たら、野草の陰にレタスが育っていました。
昨年飢えて結局食用にはならなかったレタスでしょう。
これが育つかもしれません。
これで毎朝のレタスはもう自給できるかもしれません。

自然は、人間の、特に私のような、いい加減な計画性とは違った、大きな摂理に従った計画に沿って世界をつくっているのでしょう。
自然の素晴らしい生命力にいつも感動します。

そういえば、一昨年、台風で根元から倒れてしまったフジが復活し、花を咲かせています。
倒れた後、手入れもきちんとしなかったので、枝が好き勝手に育っていますが、どれかメインを決めて絞り込んでいけば、以前のように咲いてくれるようになるでしょう。

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テッセンも咲き出しました。
これも放りっぱなしでした。
琉球朝顔も育ちだしています。

要するに、私が中途半端に手入れしたものはあまりうまくいっていませんが、自然の成り行きに任せたものはうまくいっているということです。
生命とは、そういうものなのでしょう。
私の生命も、自然の摂理に任せるのが一番です。

さてどうなりますことでしょう。

 

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■節子への挽歌4219:茶飲み話相手の大切さ

節子
今日は明るい朝です。
昨日までの雨でかなりぬかるんでいるでしょうが、畑作業ができそうです。

3週間ほど前から気になっている宿題がありますが、まあここまで延ばしたのだからもう1日くらいはいいでしょう。
そうやって人は大事なことを先延ばしし、結局、やり残すのかもしれません。
困ったものですが、まあそれも定められたことかもしれません。

節子も知っている柴崎さんから相変わらず難しいことを書いたメモメールが届きます。
最近は、日本語論が話題になっています。
柴崎さんは、別に私に読んでほしくて送ってくるわけではありません。
書き続けるために、とりあえず送り手に私を選んでいるだけです。
その意味では、この挽歌と同じなのです。
迷惑ならやめますと時々言ってきますが、布施人生のルールは「拒まない」ということです。

それに時々、読ませてもらうのですが、示唆のあるメールでもあるのです。
たとえば、昨日届いたメールには、山本哲士さんの「コンビビアリティとバナキュラー」の講演に参加したと書いてありました。
どうもそこで、金谷武洋さんの「日本語論」が紹介されたようです。

日本語論や中動態に関しては、以前少し柴崎さんとやり取りしたことがありますが、この種の話をカジュアルにする相手は、残念ながら私にはいません。
しかし、だからといって、専門家と話すだけの知識も意欲もありません。

茶飲み話として、こういう話ができる相手がいないのがさびしいですが、そういう話は四六時中、生活を共にしている伴侶であればこそ適任のような気がします。
伴侶というのは、相手の言っていることを理解しなくてもわかることができると、私は思っているからです。
そもそも人は理解し合うことなどできるはずもありません。
しかし共感することはできるでしょう。

イリイチにしてもポランニーにしても、左脳ではなく右脳で語り合える人が身近にいたことのありがたさを、いまさらながら感じます。

今日はいい日になりそうですが、相変わらず機嫌はあまりよくありません。
困ったものです。

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2019/05/01

■節子への挽歌4218:私の心身も連休に入ったようです

節子

午前中、天気がよかったので、また野菜の苗を買いに行きました。
ところが午後になったら、また雨が降りそうになってきました。
畑仕事はお預けです。

10連休は私には関係ないと思っていましたが、そんなことはありませんでした。
世間が10連休だと知っているせいか、私の心身も連休に入ったようです。
自分の心身とはいえ、どうも自由にはなりません。
心身が動かないのです。

本も読む気が起きず、テレビは全く興味のない話ばかり。
録画している映画でも見ようかとも思いましたが、観たいと思うタイトルがありません。
困ったものです。

モチベーションが高まらないのは、改元騒ぎのせいかもしれません。
なかには「あけましておめでとう」などと書いてくる人もいますが、みんなもきっと退屈しているのでしょう。
何かが変わってほしいと思っている人も多いのでしょう。
そんな気もします。

昨日まであんなに時間がないと思っていたのに、どうして今日はこんなに手持無沙汰なのでしょうか。
何もやる気が起きなくなってしまいました。
仕方がないので、挽歌を書こうと思ったのですが、どうも書けません。

今日は、お天道様も雲の向こうに隠れているので、昼寝も許されるかもしれません。
しかし昼寝をする元気もありません。

さてさて。

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■節子への挽歌4217:得たり捨てたりしつづける世界

節子
今年ももう、あっという間の5月です。
ともかくこの頃は時間のスピードが速くなっています。
いいかえれば私の身体速度が遅くなっているのでしょう。
しかし、だからといって、ゆったりと過ごせているわけではありません。
不思議な話ですが。

巡礼者の鈴木さんがそろそろまたサンティアゴに出かけそうですが、私はなかなか次の世界に旅立てずにいます。
そろそろ第4期にと一度は思ったのですが、その決断をまた先のばしてしまいました。
本を読むと世界が広がったり深まったり、あるいは変化したりで、心がまた揺れるので、本もやめようとも思っていましたが、これもまだ抜けられずにいます。

鈴木さんは「平成最後の断捨離」を実行しているようですが、私はまったく手付かずです。
物の断捨離はそう難しくはないと思いますが、とり散らかっている意識や思いは、なかなか整理できません。
それができない限り、物の断捨離は難しい。

節子が残していった物も、まだかなり取り残されています。
困ったものですが、思いと物はつながっていますから、そう簡単ではないのです。
まずは「思い」や「世界」を捨てないといけません。

しかし、「思い」や「世界」は、自分一人のものではないので、勝手には捨てられないのです。
書籍や資料、あるいは道具や品物をもういらないと思って廃棄した後に、なぜか不思議と、それが必要になってしまうことを私は何回か体験していますが、たぶんこれは、それを通してつながっている世界からの戒めなのだろうと思っています。
世界は私だけのものではないのです。

鈴木さんが断捨離できるのは、「巡礼」のおかげかもしれません。
鈴木さんは巡礼を通してたくさんのものを得るそうですが、それがあるから断捨離ができるのでしょう。
捨てるということは得るということに支えられている。
ただ捨てるだけでは反動がある。

捨てるということは得ることの手段であり結果なのかもしれません。
本当は、捨てることを通してなにかを得たがっている。

昨日からの日本中でのバカ騒ぎ(としか思えない改元祭り)は、実は多くの人が、何かを捨てたがり、何かを得たがっているのでしょう。
しかし、捨てることで求めているものが得られるとは限りません。
大切なのは、やはり「捨てる」ことではなく「得る」ことです。
しかし、新しい世界を得ることは自分だけではできません。

こう書いてきて、気が付きました。
時間が速く進むということは、時間を断捨離しているのではないかと。
また難問に出会ってしまいました。
少し考え直さないといけません。
書きだした時と反対の結論になってしまった。

さて今日も悩ましい1日がはじまります。
五月晴れとは全く違って、雨空で湿気も多く、さわやかでない朝です。

 

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