■節子への挽歌4238:生と死の同質性と対称性
節子
粘菌を研究していた南方熊楠は、生と死のあいだには同質性と対称性があるはずだと考えていたそうです。
そして、ニューギニアの狩猟民は「人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するの一段階にすぎずとするも、むやみに笑うべきではない」と書いているそうです。
いま読んでいる中沢新一の「対称性人類が」で知ったことです。
「生と死のあいだには同質性と対称性がある」というのは、確かに共感できる捉え方です。
にもかかわらず、私たちは「誕生」を祝い、「死去」を嘆く。
その理由を考えてみるのも意味があるかもしれません。
ところで、「粘菌」といえば、節子と私の共通の友人の前田さんの研究テーマでした。
前田さんは一緒にハワイのキラウエア火山に言った仲間で、当時は大阪大学の教授でした。
しばらくしてアメリカに転居、節子の病気以来、付き合いはなくなってしまいました。
私も当時、前田さんの著書を一冊もらい読みましたが、歯が立ちませんでした。
節子は読んでもいないでしょう。
植物と動物の明確な境界は、最近はなくなってきているようですが、まもなく鉱物との境界もなくなるでしょう。
南方熊楠が粘菌に興味を持ったのは、それが動物でもあり植物でもあった、つまり両者には同質性と対称性からと中沢さんは書いていますが、生と死もまた同質性と対称性を持っているというのです。
こういう捉え方が、最近、なぜかとても納得できるようになってきたのです。
なんとなく魅かれていた華厳経のインドラの網が実感できるような気もします。
死は生である、と考えると、死もまた祝い事になります。
死への恐怖を植え付けられた理由はいったい何なのか。
たとえば、映画「トロイ」で描かれていたスパルタの兵士は、誰も死を怖がってはいませんでした。
20世の戦争ではみんな怖がっているのに、なんでだろうと、古代史を読んでいて、いつも不思議に思っていたことですが、最近ようやくその謎が理解できるようになりました。
どこかの時点で、生と死が切り離されたのです。
そして「魂」とは別に生き方に切り替えてしまった。
困ったものです。
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