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2019/05/05

■湯島サロン「憲法ってなんなのだろうか」報告

年に1度の「憲法サロン」は、今年は自由な憲法談義にしました。
12人が参加。湯島サロンの初参加者も2人いました。
日本国憲法の条文が直接語られるというよりも、憲法とは何かを考える、いろいろな話が出ました。

Kenpo1905

最初に、憲法と法律との違いを話題にさせてもらいました。
日本国憲法には「この憲法は国の最高法規」と書かれているので、憲法は最上位の法律と思っている人は多いでしょう。
しかし、「憲法」と「法律」とは、全く別のものだと私は考えています。

どこが違うかと言えば、「憲法」は国家を統治する権力者に向けてのものであり、「法律」は権力者が統治する国民に向けてのものなのです。
また、憲法は国の形や目的を決めていますが、法律はその形をつくるルールを決めています。
つまり両者は全く別のものなのですが、学校でも社会でもそういうことは教えてくれません。

権力を信託された権力者が「憲法」の理念に従って「法律」をつくるという意味で、憲法は法律を規制しますが、規制しているのは法律というよりも、法律を制定する権力者なのです。
対象が全く違うのですが、ここを理解しておくことが大切です。

しかし、最近の日本の憲法論議は両者を混同していますから、憲法は私たちの生活にはつながらないと思ってしまうのです。
昨今の憲法論議は、すでにして「権力者の政治」の舞台に乗せられてしまっているような気がしてなりません。

これに関しては、湯島サロンの常連の折原さんが、昨年、コスタリカに行ったときの報告で、とても示唆に富む話を紹介しています。
ちょっと長いですが、折原さんの報告(「AMAZON 20192月号「今日のコスタリカを築いた方々を訪ねて」」から要旨を引用させてもらいます。

コスタリカの国民にとっては、憲法は極めて身近なところにあって、憲法を使って自分たちの権利を主張して、簡単に裁判に持ち込める。その実例として、町役場が学校のサッカー場の隣に溝を掘り始めて、溝が非常に臭かったため、小学生が憲法裁判所に「これはぼくたちのレクリエーションの権利を侵害している」と訴え、裁判所が町役場に「1週間以内に溝を塞ぐように」との判決を出したことを紹介してくれました。

コスタリカでは憲法の役割と国民主権の意味がしっかり認識されているわけです。

日本国憲法が中心に置いている価値はなんなのか。
平和や人権と考える人が多いと思いますが、「平和」も「人権」も時代によって大きく変わってきています。
それに、アメリカの平和はイスラムにとっては平和でないかもしれませんし、自らの人権を守るために他者の人権を踏みにじることで格差社会の人権が成り立つこともある。
いずれも「相対的」な概念なのですから、価値原理にはなりえません。

「個人の尊厳の尊重」こそが日本国憲法の中心価値ではないかと私は思っていますが、これに関しても少し議論がありました。
しかし、その「個人の尊厳」は、自民党の憲法改正案では否定されています。
個人である前に「国民」でなければならないとされているのです。
そういう発想がかつての戦争を可能にしたわけですが、平和とは反転する概念であることをしっかりと認識しなければいけません。
国家は国民のためにあるのであって、国民が国家のためにあるわけではありません。

「国民」とは何かの議論もありましたが、国民は近代国家を支える3要素の一つとして生まれた国家のための要素です。
しかし、国家の3大要素と言われる「領土(領域)」「国民」「主権」のうち、グローバル化の進展で、領土も国民も意味を弱めている中で、国家の意味は失われてきているのではないかという意見も出ました。
もし領土と国民が意味を失ったとしたら、国家はそれこそ支配権力の「主権」を正当化する概念でしかありません。
そうなれば、法律とは全く違うものとしての憲法の意味は大きくなってきます。

ところで、憲法は統治者を制約するもの、法律は被統治者を制約するものと捉えると、どうしても統治者と被統治者の二元対立構造の問題が生じます。
最近の日本ではまさにそういう状況が顕在化しつつります。
そこで重要になってくるのが、第3の存在としての「象徴天皇」です。

私は、天皇は古来象徴だったと思っているのですが、その象徴性こそが「政治性」そのものなのではないかと感じています。
問題は、権力に利用されることもあれば、被統治者の守護神になることもある、それが第3の存在の意味でしょう。
今回のサロンでも、天皇制や天皇に対する好感度は高かったような気がしますが、世間的にもいささか驚くほどに天皇への期待は大きくなっているように思います。

湯島のサロンでは、日本国憲法の最初に「天皇」の規定があることに違和感を持つ人が多いのですが(私もそうでした)、私は最近、その認識が変わりました。
統治者と被統治者が対立した時、革命でも起こさない限り、勝敗は明確です。
権力者と国民の二元対立構造をバランスさせる存在としての象徴天皇の価値はとても大きいのではないか、それこそが日本国憲法の最大の要ではないかとさえ思えるようになってきています。
天皇制に関するサロンをしたらどうかと提案したら賛成する人が少なからずいました。
一度考えたいと思います。

サロンで話されたいくつかのことを主観的にまとめてしまいました。
まとまりはあまりありませんでしたが、私にはとてもいいサロンだったような気がします。
来年の憲法サロンが待ち遠しいです。

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