■4245:「愛」
節子
最近、キリスト教の洗礼をうけた上田さんと食事をしました。
上田さんの洗礼にはとても関心があります。
それでぶしつけな問いかけをたくさんさせてもらいました。
いろいろと話していて、最後は「愛」の話に行き着きました。
すべては「愛」につながってく。
その点では、上田さんと一致しました。
問題は、「愛」とは何かです。
キリスト教では3つの「愛」が語られます。
エロス、フィリア、アガペーです。
キリスト教の世界では、「愛」はよく語られますが、仏教の世界では「愛」はあまり語られません。
「愛」に代わる概念や言葉は、私は「共生き」ではないかと思っています。
そういえば、ハンナ・アーレントの博士論文は「アウグスティヌスの愛の概念」でした。
「愛」という言葉は、きわめて多義的ですが、幸せや安らぎに繋がっています。
アーレントは、愛の問題は「善きもの」への絶えざる「欲求」の連鎖、ならびにいったん所有したものを喪失することへの不断の恐れという形で現れる、と書いていますが、愛の不在という視点でとらえた方がわかり合いやすいかもしれません。
日本人は「愛している」という表現をしてこなかったといわれますが、それは「愛」が基調にあったからのような気がします。
神への愛はあっても、横にいる人間への愛は保証されていないキリスト教世界では、愛を言語化し、確認しておくことが大切だったのかもしれません。
こんな言い方をしたら、上田さんは直ちにそれは違うと指摘するでしょうが。
まあそんな話をしていたのですが、「愛」をテーマにしたサロンをしたくなりました。
「愛」こそ人生の基本という認識のもとに、「愛」を語り合う。
いささか気恥ずかしい気もしますが、ちょっと魅かれます。
考えてみようと思います。
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