■節子への挽歌4307:悲しみは人をつなぐか
節子
一昨日のサロンで、自殺遺族たちは家族会などをつくって繋がれるのに、自殺未遂者たちはなぜそうしたつながりの場を持てないのかと言う話になりました。
そこで私は、遺族は「悲しみ」ということでつながれるが、未遂者たちの思いは多様でつながれないのではないかと発言しました。
しかし、果たして人は、悲しみでつながれるのか。
言葉に出してみると、それが新たな問いかけになって自らに戻ってくることはよくありますが、今回もその問いかけが頭の中から離れません。
悲しみは人をつなぐ、とはよく言われることです。
大震災時直後には、いわゆる「災害ユートピア」なる、人の支え合うつながりが出現することも報告されています。
悲しみの奥にこそ、生きることの真義が潜んでいるという人もいます。
たしかに、悲しみは共有されやすい、と思いがちです。
しかし、自分の問題として考え直してみると、悲しみは決して共有されることはなく、人とのつながりを深めることもない、とも思います。
私の場合は、節子に先立たれた悲しみは、むしろ人とのつながりを妨げたような気もします。
悲しみを心配して、かけてもらえる慰めの言葉は、むしろ悲しさを深めることも多かったような気がします。
そこには、悲しみを共有して心がつながることはきわめて少なかったようにも思えます。
その最たるものは、「時が解決してくれる」と言う種類の言葉でした。
そういう声掛けをする人には、悲しみは決して共有されることはなく、したがってつながりも生み出されることはありません。
時が解決してくれるようなものは、「悲しみ」ではないと言いたくなります。
しかし、それは自らが体験してこその気付きです。
「かなしみ」と言ってもどうもいろいろとありそうです。
かなしみは人をつなぐのか。
もう少し考えてみようと思います。
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