■節子への挽歌4292:生死に自在な生き方
節子
前回につづいて少し「生き方」の話です。
なんとなく書いておきたくなりました。
天台本覚論では、生死に自在な生き方こそ、真実の生き方だといいます。
私がこのところ、そうありたいと思っている生き方です。
生死に住んではいけない。しかし、生死を離れようとしてもいけない、ということです。
あるいは、死に臨んでもうろたえることなく、生死を怖れない心を養え、ともいいます。
そのためには、仏を念じて心静かに死を待つ状態を実現するというのが天台の教えです。
しかし、これは私の生き方ではありません。
仏を念じて心静かに死を待つことは、やはり死に呪縛されているとしか思えないからです。
死は、未来のことですから、結局は今を素直に生きていることにはなりません。
それに、死は待つものではありません。
節子から教えられたことは、生死から自由な、いま、ここを生きる生き方です。
仏教は二元論の思考ですが、本覚論ではすべては同じひとつの「一心」の顕れだと考えます。
二元論は、人間にもともと備わった覚知性(本覚)の属性そのものの表れでしかなく、あるのは、一つの「心」だけだというわけです。
そして、その心は、時間も空間も超えている。
だから、生きるも死ぬもなく、死ぬからといってどこかへいくわけでもない。
まあ論理的には理解できていませんが、感覚的にはとてもよくわかります。
そして共感できます。
私が好きなのは、「生死に自在な生き方」ということです。
「死生観」と言うことがよく問われますが、私にはあまり興味はありません。
「生死に自在な生き方」こそが、私の好む生き方です。
もっと正確に言えば、私には「死」はたぶん訪れないでしょう。
死後もまた、私は生きているような気がします。
節子がそうであるように、です。
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