■節子への挽歌4288:彼岸を散歩した夢?
節子
最近、またよく夢を見ます。
ただ、目が覚めるとすぐにどんな夢だった思い出せなくなります。
しかし、1日経っても忘れない夢もあります。
昨日の朝見た夢は今でも映像が生き生きと浮かんできます。
それはこんな夢でした。
誰か小さな子供と一緒に散歩に出かけたのですが、元いたところに戻ろうとするのに戻れないのです。
道端で何か仕事をしていた2人の人に会います。
そこで2人にもとの場所に戻りたいというと、この世界では道は常に変化しているからというのです。
「この世界」は、何となく「彼岸」のようです。
たしかにいま来た道を見返ると、先ほどとは全く違った風景になっています。
道が生きていて、常に変化している。
それがとても印象的で、今朝になっても忘れられないのです。
振り返った道は、林の中の一本道で、道沿いに小さな水場も見えました。
以前どこかで見た風景のようでもあり、書物を読んでいて感じた風景でもあり、どこかに見たこともないような緑を感じさせる情景でした。
その情景がいまもまだ残っています。
ちなみに、その夢は、2人の人が元の場所に案内してやると言ったところで、記憶が途絶えています。
たぶん夢の続きでは(私は見ていませんが)、その2人のおかげで、子どもは無事、元の場所に戻れたのでしょう。
しかし、あの子供は誰だったのか。
私が知っている人ではありません。
フロイトの夢判断は、私にはあまり興味はないのですが、夢そのものも一つの実体験と位置付けると世界は豊かになります。
節子がいなくなった後、何回かみた夢があります。
彼岸への電車駅の夢です。
今も記憶に残っているのは、2つの駅ですが、いずれモチベーション地下駅でした。
そして私は記憶では一度もその電車に乗ってはいません。
駅の名前も一時期覚えていましたが、いまは記憶から抹消されています。
不思議な夢で、1か月ほどの間、頻繁に見ましたが、最近は見たことがありません。
節子はよく知っていますが、私は夢と現実をそう分けては考えておらず、夢もまた現実の一部と思っています。
ですから、朝起きて、節子に夢の続きで話しかけたりしたこともあります。
娘には冗談かと思われていますが、節子は必ずしもそうは思っていませんでした。
時にはきちんと受け止めてくれました。
まあ私たちの出会いからして、冗談に近いような不思議な関係でしたから。
昨日の夢は、もしかしたら私がすでに時々、彼岸を訪ねていることを示唆しているのかもしれません。
どこかの時点で、夢と現実が入れ替わる。
そんな体験ができるといいのですが。
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