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2019/06/28

■「話す(放す)社会」と「語る(象る)社会」

最近、改めて気になることがあります。

フェイスブックでは、いろんな人が巻き込んでくれるおかげで、いろんなFBコミュニティ(グループ)に登録させてもらっています。
そのおかげで、いろんな人の発言を目にすることが多くなったのですが、その多くが「話す」ことで終わっているような気がしてなりません。
ツイッターがその典型だと思いますが、自らの思いを「放つ」ことで満足する人が多いようです。
私も時に、自分の思いを放ちたくなり、放つことも多いのですが、放した後、つまり話した後いつもちょっと後悔します。

話すとは「放つ」ことで、完結した行為。
むしろ問題に関する自らの思いは弱まりやすい。つまり「消費的な行為」。
語るとは「象る」ことで、創造的な行為。
それによって、新たな思いを背負うことにあり、思いは強まりやすい。つまり「創造的な行為」。
そういう整理をすることもできるように思います。

 それに、世の中にヘイトスピーチが多いですが、話すことはどこかでヘイトにつながりかねません。
私が国会デモに行けなくなったのは、あの空間に憎しみに支えられたヘイトを感ずるようになってきたからです。
もちろん、時には「怒り」が大きな力になることはあります。
しかし、日常的に怒りや思いを放っていたら、そこで思いが消費される恐れもある。

 ツイッターはもちろんですが、フェイスブックにも怒りや不満を放す(話す)コメントが多いのが、私には気持ちがよくありません。
それに、安倍首相の批判をする人と安倍首相とは、言動がとてもよく似ているような気もします。

 こんなことを書くと、また「批判することを否定するのか」と叱られそうですが、批判はっても大切だと思っています。
「怒り」もとても大切です。
ただ「怒りの活かし方」や批判のルールもあると思います。
怒りも批判も新しい価値を生みだすことにつなげていきたいと思っています。

 私の基本姿勢は、批判の矛先に自分を含めるようにしています。
それでは勢いが出ないだろうと思われるかもしれませんが、私の場合は逆です。
なぜなら批判することは常に自らの生き方を問い直すことと無縁ではないからです。

言い換えれば、批判によって、自分の世界が広くなる、あるいは新しい地平が象られていく。
語るとはそういうことだろうと思っています。

 私の投稿は、いつもそんな思いで書いています。

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