■人との関係で学び合い、人との関係を生きる
私は、学ぶとは他者、他者には自然なども入るのですが、他者との関係において自らが変わることであり、生きるとは他者に、これもまた自然も入るのですが、迷惑をかけるとともに役に立っていく、つまり価値を与えることだと考えています。
学ぶことも生きることも、他者との関係を変えていくことといってもいい。
そして、実際にそういう生き方をずっと続けています。
学ぶことと知識を得ることは同じではありません。
なにかを学び、わかるということは、自らの言動が変わること。つまり、生き方が変わることです。
もし生き方に変化がないとしたら、それは学んだことにはならない。
知識や情報には触れたかもしれないが、わかったとか学んだとは言えません。
それが私の考えです。
ある知識を知ったかどうかで、世界の風景は変わってきます。
それはみなさんも体験していることでしょう。
世界の風景が変われば、おのずと行動は変わっていくでしょう。
というよりも、あることを知ったら、必ず生き方は影響を受けるはずです。
何も変化がなければ、それは学んだとは言えない。
学ぶとか知るということは、生き方につながっているということです。
しかし、一人でできることには限界があります。
そこで、「共に」ということが意味を持ってくる。
共に学ぶとは、学びの視点を豊かにすることであり、生き方を変えていく力が大きくなるということでもあります。
学ぶとか生きることが、豊かになっていくために「共に」が大切なのです。
一人だけで学んでいることは、他者との関係の中で生きている私には実際にはできないことですが、意図して「共に」を指向しないと独りよがりの「学び」に陥りやすいような気がします。
これが、私が長年、湯島でサロンをやっている理由の一つです。
さまざまな人の話を聞き、さまざまな人の生き方に触れていく。
その過程で自分の考えや行動が相対化され、そして実践のヒントが得られる。
一人で学ぶよりも、仲間と学び合うほうがいろんな意味で効果的です。
自分と社会がしっかりとつながっていること、それが私の考える社会性、市民性です。
自分が変わると相手も変わる。社会も変わる。
自分と社会は連動しています。そして社会では常に何かが変わっています。
つまり社会や人間関係は常に変化していますから、そこにつながっている自分もまた常に変わっているはずです。
逆に、考えを固定させていると社会との関係、他者との関係に齟齬をきたしていく。
だから時代の動きの中で、自らを常に変えていかないと自らのアイデンティティを保てない。
変わることは変わらないことなのです。
変わらない自分にこだわっていると、常に変化し続けている社会との位置づけが変化し、取り残されてしまい、生きているとは言えなくなる。
自分を大事にするためにも、常に変わっていく必要がある。
そこに学ぶ意味がある。
これは先日のある集まりで話したことです。
話すよりも文字にした方が伝わりやすい気がして、少し丁寧に書いてみました。
現在の選挙で、山本太郎さんが風を起こしています。
彼は、共に学び共に生きるを実践しているように感じます。
危うさは強く感じますが、風は挫折を通じて、本当の風になっていくことが多いので、その先を感じられます。
ところで、湯島のサロンの意味を話し合うサロンをやりたくなりました。
湯島ではこれまでも毎年1回だけ私が話させてもらうサロンがあります。
最近は、「政治パラダイムの転回」「経済パラダイムの転回」そして「生き方の転回」をテーマにしてきましたが、参加者に伝わった実感が持てないので、今年は「サロン」をテーマにしようと思います。
例年は12月開催でしたが、今年は8月下旬を想定しています。
その頃は、山本太郎現象の実体も少し見えてきていると思いますし。
いま気づきましたが、山本太郎現象をテーマにしたサロンのほうがいいかもしれません。
ついでにそれもやりたくなりました。
どなたか問題提起してくれる人はいませんか。
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