■節子への挽歌4348:かたづけよりも散らかしが大切
節子
猛暑の中を畑に行きました。
1時間の作業が限界です。
今週はリトリートしようと思ったのですが、畑が気になるのとこの週末の花火大会に娘たちの友だちがわが家に大勢来るというので、家の掃除もしなければいけません。
リトリートなどしている場合ではないのです。
せめて庭の植木鉢だけでもどうにかしなければいけません。
なにしろ足の踏み場さえなくなっているのですから。
最近、家事セラピストという仕事をされている人たちと接点があります。
かたづけを専門としている人たちです。
節子はよく知っているように、私はかたづけよりも散らかしが性に合っています。
「かたづけ」の専門家は、最近もアメリカでも話題になっているようですが、むしろ「散らかし」を大切にした生き方をしている私としては、「かたづけ」にはまったく興味はありません。
にも関わらず、なぜかその分野で活動している人との接点が増えてきているのです。
そういう人たちから「片づけは人生を豊かにします」などといわれると、ついうっかり、そうですね、と応えてしまっています。
困ったものですが、その時は確かにそう思うのです。
私の仕事部屋はとても狭いのですが、もうあきれるほど散らかっています。
しかし、それは外観上の話で、私自身にとってはどこに何があるかはだいたいわかっているのです。
もっとも一冊の本を探すのに1時間もかかることもあれば、1枚の資料探しに1日かかることもあります。
探し物に時間がかかるのは無駄なことではあるのですが、しかしその効用もあります。
探しているうちに、忘れていた本や資料に出合ったりすることもあるのです。
探し物の時間は、また発想を遊ばせられる時間でもあります。
探し物をしているうちに自分の考えが変わることもある。
だから「散らかすこと」は私には大事なことなのです。
そもそも私の生き方は、散らかしほうだいの生き方です。
湯島のサロンのテーマも散らかしほうだい、友人たちもあまりに多様で、そうした人たちと付き合っている私がどういう人化は多分外からはわからないでしょう。
しかし、テーマも友人も、きわめて簡単な基準で決まっています。
私が関心を持った、それが唯一の基準です。
しかし私の散らかし方と節子の散らかし方、あるいは娘たちの散らかし方はそれぞれに全く違います。
ということは、かたづけると散らかすは同じことなのです。
それを誰かにかたづけてもらうとか、KTづけの仕方を学ぶとかいうのは、私にはまったくなじめない考え方です。
にもかかわらず、来客の前には家のかたづけをしなくてはいけない。
この問題は、とても大切なことを教えてくれているような気がします。
夜になって、ようやく風が涼しくなりました。
でも朝が早いのでそろそろ眠る時間です。
私の寝室には、クーラーはないのですが。今夜はよく眠れそうです。
明日は朝から畑仕事です。
老人には過酷な労働です。
お天道様も少しは手加減してほしいものです。
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