■節子への挽歌4325:無力感と自己嫌悪
節子
ちょっと思ってもいなかったことが起こり、今日は書く気力が出ません。
いかに世界が見えていなかったかを思い知らされます。
他者などわかるはずもなく、寄り添って考えるなどという不遜な考えは持たないようにしているつもりですが、でもあまりにもわかっていなかったことで人を傷つけてしまうこともある。
まさにそれをこの2~3日、自らの未熟さを思い知らされていました。
不安や苦労があればこそ、人生は豊かになると思っているのですが、それもまた恵まれた人にしか当てはまらないのかもしれません。
そんな気にさせられました。
今日はサロンでしたが、サロンで話しているみんなの発言を聞いていると、なんとまあ恵まれた人たちなのだろうと思ってしまいます。
もちろん私もその一員なのですが、しかし私は別の世界があることを一応は知っています。
だからそのギャップに、何やら違和感を持っているわけです。
そして自己嫌悪に陥ってしまう。
そのサロンで30代の若者が、自分の同世代の仲間たちは、生きるのが精いっぱいで、よけいなことを考える余裕がなくなっているというような発言をしました。
他人事ではなく、自分事でそう語ってくれました。
彼自身を見ていても、サロンに出てきてくれるのが不思議なくらい、たぶん余裕はないでしょう。
でもなぜかサロンに来てくれるようになりました。
サロンにきているうちにもしかしたら何かが変わるかもしれません。
まだ若いですから。
しかし、サロンの場での恵まれた人たちの発言に、愛想を尽かしてくかもしれません。
まあそういう人たちのほとんどは、社会との縁を切っている面もあるので、恵まれているように見えるだけかもしれないのですが。
助けを求めている人がいる。
その声を聞きそこなっていた自分に気づいて、今日はショックを受けています。
もう少し私自身、賢いと思っていたのですが。
節子
わけのわからないことを書いてしまいました。
でも節子ならたぶんわかってくれるでしょう。
今日は朝から元気の出ない1日でした。
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