■第3回万葉集サロン「石見相聞歌に見る柿本人麿の「われ」の世界」報告
講座型万葉集サロン3回目は、柿本人麿の「石見相聞歌」でした。
最初に柿本人麻呂の紹介があり、つづいて升田さんが「石見相聞歌」を詠んでくれました。
この歌は人麿が繰り返し推敲した形跡がみられ、その点でも珍しいのだそうです。
推敲前の2首も万葉集に残っていますが、それを比べると面白く、その一首も詠んでくれました。
耳で聞いていると全く雰囲気が違います。
その後が、今回の本題です。
この歌には、作者(人麿)の「われ」が聞き手の「われ」を呼び込んでいく表現様式が仕組まれている。
歌を独りで詠むだけではなく、聞き手を巻き込んで広い世界を開こうとする意図があり、そこに「文芸」の端緒を感ずるというのです。
当時、歌は読むものではなく、詠むものだったようですが、そもそも歌人たちも歌を紙に書くのではなく、口で歌うのが基本だったようです。
だから声に出したときの「音の響き」がとても重要な意味を持っていたのです。
私たちはついつい、文字があり、歌があると思いがちですが、実際には、まず歌があり、それが文字で書かれて定着していったと考えると、いろんなことがとても納得できます。
私が今回とても面白かったのは、「字余り」というのは、文字文化の結果のことだと教えてもらったことです。
たとえば、文字にすれば3文字でも4文字でも、音にして読めば、長音にしたりして5音にすることは簡単です。
つまりたとえば、5・7・7にしても、それは文字規制ではなく、歌いやすさにすぎなかっただったわけです。
霊長類学者の山極寿一さんの本に、「感情を揺さぶる音楽というコミュニケーションは人間の身体の進化とともに発達してきた歴史をもち、言葉よりずっと古い起源をもつ」という説明がありましたが、言葉の前に音楽があったと考えれば、万葉集の捉え方は大きく変わるでしょう。
私たちの常識は、かなり後知恵のものが多いですから、そこから自由になると万葉集がもっと面白くなるのかもしれません。
何のために歌が生まれたかを考えると、そこに「われ」とか「コミュニケーション」とかいうことの起源へのヒントもあるようです。
ちなみに、万葉集ではだれかに代わって歌をつくるということもあるので、歌の主人公の「われ」と作者の「われ」と聞き手の「われ」と詠み手の「われ」の4つの「われ」がありそうです。
ところで、意外なことに「歌聖」といわれ、たくさんの歌が残っている柿本人麿の記録は少ないので、その正体ははっきりしていませんが、彼の死は「死」と表記されているため、6位以下の下級官吏と考えられています(異説はありますが)。
階級によって「死」の表現が違ったのかという参加者からの質問に対して、当時は、職階などによって、崩御、薨御、薨去、卒去、死去と使い分けられていたと升田さんが説明してくれました。
死をどう表記するかで、その人の職階などがわかるそうです。
まさに「言葉」は象徴的なパワーを持っていたわけです。
柿本人麿は刑死説もありますが、象徴的な力を持っている言葉を駆使する柿本人麿は権力者にとっては恐ろしい存在だったかもしれません。
万葉集の歌の持つそうした呪力や政治的な役割も面白いテーマです。
もしかしたら、そこから壬申の乱の真相も見えてくるかもしれません。
今回のもう一つの大きなテーマは、「石見相聞歌」にも何回か出てくる「玉藻」でした。
「石見相聞歌」の作歌時期を解く鍵の一つが、「玉藻」という言葉にあるようです。
そこから升田さんは、691~700年ころに成立した可能性が高いと言います。
その時期に、柿本人麿と交流のあった天武・持統期の皇子・皇女の歌にも「玉藻」が出てくることが多いそうです。
「玉藻」に升田さんはかなりこだわっていましたので、「玉藻」の話をもう少し聞きたかったのですが、今回はちょっと時間が足りませんでした。
升田さんの話を聞いていて、このシリーズは本にまとめられないかと思いだしました。
それくらい面白いです。
ただいつもたくさんの話をされるので、ついていくのが大変です。
なにしろ升田さんは話したいことが山のようにあるようです。
次回から少しテンポをゆるめてもらうようにしたいと思います。
次回(9月21日を予定)も柿本人麿の予定です。
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