■節子への挽歌4335:ゴーギャンの問い
節子
先日、久しぶりに半田さんの「知能環境論」の講義を聞きました。
まったくと言っていいほど、半田さんは変わっていません。
だから半田さんは私のことも変わっていないと感じているでしょう。
それはともかく、半田さんは「知能環境論」の話を、あの「ゴーギャンの問い」から始めました。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いです。
講座への参加者に問いかけましたが、一人、とても個性的な答えをしました。
「愛の国から来て、愛の国に行く」というような答えでした。
「愛」という言葉にいささかの抵抗はありましたが、素直に聴けました。
私は問われませんでしたが、私の答えもそれに近いです。
「彼岸から来て彼岸に行く旅人」が、最近の私の考えです。
正確には、「旅人」ではなく、「受容体」というような感じなのですが、まだうまく表現できません。
「彼岸」という言葉もあまり正確ではないかもしれません。
「此岸」があって、「彼岸」があるというのではなく、此岸もまた彼岸というようなイメージが最近強いので、むしろ仏教の言う「空」に近いのかもしれません。
ですから、ゴーギャンの問いに関して言えば、むしろどこからも来ず、どこにも行かないというべきかもしれません。
自らは、常にそこに在る。そして全体と共にある。
まあそんな感じです。
行き先が定まっているたびは、さほど不安はありません。
先日、相馬巡礼のテストウォークをして気づいたのですが、行き先がわからなくなって、自らの所在が実感できなくなった時の不安さは、今考えると「異常な感覚」に襲われていました。
いささか不思議な感覚で、スマホは作動しなくなり、行きかう人はいなくなり、道を聞こうとは入ったお店は、タイムスリップしたような雰囲気でした。
異界に迷い込んだような気分でしたが、あれはしかし、これ以上歩かない方がいいというメッセージだったかもしれません。
そんなことを思い出すと、また歩きたくなってきました。
巡礼にはまた行きたくなるというのはこういうことでしょうか。
梅雨が明けて、あまり暑くなく、そして時間が取れたら、今度は取手の長禅寺からコース通り歩いてみたくなりました。
ゴーギャンの問いについて書こうと思ったに、違う話になってしまいました。
私が、ゴーギャンの問いにはあまり意味を感じていないからかもしれません。
その問いは、考えるよりも自分で決めればいい、無意味な問いだという気持ちがどこかにあるからです。
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