■節子への挽歌4326:迷い多き人生
節子
今年の七夕も雨でした。
私の気もなかなか戻ってきません。
昨日は地元の友人たちと立ち上げてきているまちづくり編集会議の集まりでした。
少しずつ形ができてきましたが、一番多い意見は、時々こういう場でいろんな人と会うのが魅力という感じでした。
場をつくるのと場に参加するのとは次元が違うのですが、そこがやはりなかなか理解してもらえません。
少しずつ進めていくしかありません。
でもお互いの信頼関係はかなり生まれてきているように思います。
ただ昨日も少し言いすぎた反省があります。
捉えようによっては、いささか現状を否定しすぎた感を与えたかもしれません。
私の本意ではないのですが。
私の生き方は、もしかしたら多くの人とは真反対な価値観に支えられているかもしれないということは前々から少し感じてはいたのですが、最近それが現実に感じられるようになってきました。
それも最近滅入っている理由の一つです。
私の評価基準が真反対といってもなかなか伝わらないでしょうが、たとえば私の人との付き合い方はまずすべてを受け入れるところから始まります。
ですから人を褒めることは基本的にしません。
なぜなら人は本来価値のある存在なので、あえて褒める必要がないからです。
褒めるということは、基本的にはその人を評価していないことだと考えるからです。
だから私の発言は、褒めるのではなく問題を指摘することを基本にしています。
たとえば、湯島でコーヒーを何回飲んでいる人が、ある時、今日のコーヒーはおいしいと言ったとします。
ということは、いつものコーヒーはおいしくないということを意味します。
こういうと、あまりにひねくれていると思われそうですが、わかりやすい例として書いているのですからお許しください。
「今日はコーヒーがおいしい」とか、ただ単に「コーヒーがおいしい」と言えばいいのに、「今日のコーヒー」と言ってしまうと、いつもはおいしくないという意味になります。
私がうれしいコメントは「今日のコーヒーはまずい」という指摘なのです。
そういってもらえれば、次はおいしいコーヒーを淹れるようにできるからです。
そういうことを他者に求めるのは無理かもしれません。
しかし私は、そういう発言をしてしまう生き方をしています。
ですから時々、他者を傷つけ、嫌われてしまうわけです。
さらにまた「嫌われる」のと「好かれる」のとの捉え方も、たぶん普通とは違っているかもしれません。
両者は同じように感ずるのです。
いずれも人として対応してもらったことの証ですから。
そうはいっても、私の言葉がそんな風に受け取られていたのかと思うとやはり気が萎えます。
私に直接言ってもらえれば、まだしも、間接的にそういう声尾が入ってくるとやはり気が滅入ります。
まだまだ未熟で、迷い多き人生です。
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