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2019年8月

2019/08/31

■節子への挽歌4381:朝の果物は金(2019年8月31日)

節子
私は野菜と果物が大好きです。

わが家にはいくつかの「節子のルール」があります。
果物に関しては、節子が「朝の果物は金、昼の果物は銀、夜の果物は銅」とよく言っていて、夕方以降は果物をできるだけ食べないようにいうルールがあります。
いまもわが家ではそれが守られています。
外食でデザートなどが出た場合は、食べてしまいますが、これはもう一つのルール「食べ物は無駄に捨てない」というルールに従っているからでもあります。

時に夜に果物が食べたくなることはあるのですが、基本的にはそのルールはよく守られています。
秋は果物が多いので、このルールはよく話題になります。

「食べ物は無駄に捨てない」というルールと並んで、「無理をして食べない」というのもあります。
ですからたとえば、おかず類がほんのわずか残っても、それが冷蔵庫に保管されることも少なくありません。
極端なことを言えば、ほんの少し残った野菜炒めとかトンカツの切れ端が残っても、保管されるわけです。
娘もそれをまもっていて、なんだこんなわずかな残りを冷蔵庫に保管しているのかと驚くほどですが、節子のルールは文化になっているのです。

もっともそのいっぽうで、節子はけっこう無駄も多かったような気がします。
賞味期限切れになるまで保管しておいて、結局は処分する羽目になるようなことも多かった気がします。
残念ながら、その「文化」も、娘には継承されています。
困ったものです。

先日、娘がいない時に、料理しないで食べられるものはないかと冷蔵庫を探したら、奥から納豆が出てきました。
それを食べようと思ったのですが、かなり古いもののようで、納豆をかき回すことが難しいほどに、「甘納豆」的になっていました。
それでも「捨ててはいけない」という節子のルールを思い出して、食べてしまいました。
ちなみに私は賞味期限にはこだわらないタイプなのです。

ところでスイカは果物でしょうか。
スイカは朝は食べる気がせず、昼間いないことが多いので、先日のスイカがまだ半分ほど冷蔵庫に入っています。
さて、寝る前に食べるべきかどうか。
節子の定義ではたぶんスイカは果物ではないと思うのですが、何故かスイカも夜食べる気が起きません。
不思議なものです。

 

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2019/08/30

■湯島サロン「生活を豊かにするかたづけ術:探し物がないことが一番!」のお誘い

最近また「かたづけ」が話題になっています。
時流に乗るわけではないのですが、今回は「かたづけ」をテーマにしたサロンです。
家事セラピストで整理収納アドバイザー1級の石田ユキさんに、整理収納術のミニセミナーをやってもらい、後半では、「かたづけはなぜ生活を豊かにするのか」をテーマに話し合いをしたいと思います。

石田さんは、「かたづけ」の大切さを「生き方」につなげて考えている方です。
そこで今回は「生活を豊かにする」という視点に焦点を合わせていただこうと思います。
したがって、単なる「かたづけ」技術のサロンではありません。

前半では、そうした「かたづけ」法とか整理術の話をしていただき、ミニワークショップもやってもらいますが、後半では、生き方につながるような形で「かたづけ」の意味や大切さを、広い視点で話し合えればと思っています。

石田さんは、「家事」や「片づけ」をテーマに、さまざまなところで講演やワークショップもやられていますので、そうしたことから現代の社会の問題もいろいろ見えているでしょう。
そんなお話も聞けると思います。

もちろん、かたづけが苦手だという人は、たぶんたくさんの知恵をもらえると思います。
かたづけ嫌いな方も、かたづけマニアの方も、大歓迎です。
きっと生活が豊かになる、楽しいサロンになると思います。

参加者は事前に私にご連絡ください。
あふれるといけませんので。

〇日時:2019年9月29日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「生活を豊かにするかたづけ術:探し物がないことが一番!」
〇話題提供者:石田ユキさん(家事セラピスト/整理収納アドバイザー)
〇会費:500円〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌4380:孫を見ていて思うこと

節子

孫がやって来たので、ようやくスイカが食べられました。
棚落ちもなく、おいしかったです。
懸案事項が一つ片付いた気分です。
丸いスイカを孫と一緒に食べる、という課題です。

孫と別れるとき、いつも、頭を手でぽんと抑えるのですが、それが痛くていやだと孫から言われました。
力など入れずに、優しく手を添えるくらいの気分ですので、ちょっと信じがたい話なのですが、小さな孫にはそう感ずるのかもしれません。
注意しなければいけません。

孫は今日、自宅近くで見つけたクワガタを虫かごに入れて持ってきました。
私に見せた後、わが家の庭に逃がしましたが、今度はわが家の庭で蝸牛を見つけ、それにキャベツを食べさせていました。
その蝸牛も、帰る時に庭に放していきました。
これは娘の考えのようです。
私は、逃がさずに飼いたくなるタイプですが、その結果、虫が死んでしまったのを娘は小さいときに嫌だと思っていたのかもしれません。

瑣末な話のようですが、私としてはいろいろと考えてしまう話でもあります。

私は小さいとき、周りの人から「修はアリも殺せない」といわれていました。
実際にはそんなことは全くなく、子ども時代はかなり残虐なこともたくさんしましたが、たしかにアリも蚊も殺せないこともあります。
人は矛盾した行動をしながら生きています。

子どもから教えられることは少なくありませんが、ジュン母娘を見ていると、節子もこういう時代を過ごしてきたのだろうなと気づかされます。
子育ては大変で、私はかなり協力的だと自負していましたが、会社の言っている間、節子はきっと苦労したのだろうなと思います。

母娘と違って、孫との関係であれば、節子にとっては楽しいことばかりでしょうが、その幸せな時間を持てなかったことが残念でなりません。

 

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■湯島サロン「ご先祖様の見える化に取り組んでみませんか」のご案内

6月に開催した「お墓の活かし方をみんなで話しあいませんか」のサロンで、話題提供してくださった篠田石材工業代表の篠田さんが「ご先祖さまシート」というのを紹介してくださいました。
普通の家系図とは違って、自分の名前が一番上にあって、その下に両親の名前、さらにその下に両親の両親の名前…とどんどん書いていくシートです。
このシートを見ていると先祖との関係がはっきりと見えてきます。
私には、目からうろこの体験でした。

篠田さんはその後、先祖が見える化「いのちの積み木」ファシリテーターという資格を取得されました。
そして篠田さんから、9月のお彼岸の前後に湯島のサロンでその話をしてもいいという申し出を受けました。
そこで今回は、「ご先祖様の見える化」をテーマに、お彼岸前にちょっと先祖のことを思い出すサロンを持ちたいと思います。

篠田さんはこう言っています。
自分だけで生きていると思いがちな世の中。
自分の存在があるのは、父・母がいて、先祖がいて、脈々と頂いた奇跡の「命」を次に繋げるために生まれて来た。
自分も将来先祖になる、改めて自分の存在は過去と将来の為にあると感じます。

ご先祖様の見える化は、いまの自分の生き方を問い直す契機になるかもしれません。
忙しさに追われがちな毎日を少し離れて、ちょっと違った時間を過ごしてみませんか。

「いのちの積み木」については、テレビなどでも紹介されていますので、ご存知の方もあろうかと思いますが、もしご存知でなければ、次のサイトをご覧ください。
https://gosennzosama.11ohaka.com/

篠田さんのお話にはいつも心洗われますが、今回もそんなサロンになると思います。
どなたでも歓迎です。
お時間の許す方はぜひご参加ください。

〇日時:2019年9月16日(休日・月曜日)午後1時半~3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ご先祖様の見える化に取り組んでみませんか」
〇講師:篠田雅央さん(篠田石材工業代表取締役/「いのちの積み木」ファシリテーター)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

 

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2019/08/29

■節子への挽歌4379:孫の選択

節子

今日は夕方、孫たちが来るのでスイカを食べられると思っていたのですが、残念ながら実現できませんでした。
孫はわが家には来ないで、逆に私が呼び出されたのです。

前に何かの予防注射をしたときに、泣かないで注射ができたので何でも好きなものをご褒美に上げようと約束していたのです。
ところが孫が望んでいたものが、ディズニーランドでしか売っていないもののようで、娘がネットで探してくれたのですが、なかなか見つからず、そのうち、私は忘れてしまっていました。
それが今日、電話があって、買いたいものが見つかったので近くの“しまむら”に来て買ってほしいというのです。

約束は守らなくてはいけませんが、スイカを食べに来いと言いましたが、わが家に来るよりも、そのおもちゃを買って、近くの友だちの家に遊びに行きたいというのです。
困ったものです。
スイカのほかにも、いくつか魅力的であろうメニューも付けましたが。友達と遊ぶのには勝てませんでした。
孫とはいえ、彼女の選択を優先しなければいけません。

孫が選んだおもちゃは、1000円もしないスマホでした。
しかも3割引きでした。
私はお金がないので、娘に買ってもらって、孫との約束は果たせました。
たぶん娘が安いものに替えてくれたのでしょう。

買った後、しつこく、スイカを食べに来ないかと誘いましたが、だめでした。
明日はスイカを食べに来いよと言ったら、来ると言っていましたが、どうなりますか。
約束は守らせないといけませんが、無理やり約束させてしまったような気もするので、守られなくても仕方がありません。

しかしスイカはまだ大丈夫でしょうか。
切ったら中身が抜けていたということになるかもしれません。
なにしろもう2週間ほど転がっていますので。

 

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■チョ・グクさんの疑惑問題は日本では日常的なことでしょう

テレビでは、GSOMIA破棄報道が終わったかと思ったら、今度は韓国の文大統領側近のチョ・グクさんの疑惑問題がにぎやかです。

私には、日本ではすでに日常化しているような話題なのに、どうしてこんなに詳しく熱心に報道するのか理解できないのですが、日本の同様な事件を報道できないので、その代償行為として報道しているのだろうと考えると、ちょっと納得できます。

しかし、チョ・グクさんの疑惑問題などは、たとえば、総理大臣夫妻による森友疑惑に比べれば、銅でもいいような話としか思えません。
それにしても、日本のテレビは韓国が嫌いですね。

日本のテレビが嫌いなのは韓国だけではなく、トランプ大統領も嫌いのようです。
私は、これまでの大きな歴史の流れに異議申し立てしたトランプ政権には好意的です。
ほとんどの人が、トランプの発言をおかしいと思っているようですが、素直に考えればほとんどが納得できる話です。
最大の功績はTPPつぶしだったと思いますが、あれで金融資本の世界支配の流れはちょっと止まったような気がします。

思考の枠組みや基準を変えると世界はまったく違って見えてきます。
世情に出回っている知識が多すぎると実際はその年企業をまき散らしているマスコミとそれを牛耳っている政権と同じ世界から抜け出られません。
安倍政権を批判する私の友人たちも、結局は安倍さんの同じ価値観で世界を見ていると思えることが少なくありません。

先入観を捨てて世界を見ることは、とても難しいです。
たとえばマスコミの価値評価を反転させて世界を見ると、気づかされることは少なくありません。
間接的な報道はむやみに信じないことも大切です。
私は基本的に自分で直接見聞したことを基準にして考えるようにしています。

しかし、それよりも効果的なのは、自らの素朴な価値観や日常生活を大切にすることです。
もっともこれが一番難しいかもしれません。

 

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2019/08/28

■節子への挽歌4378:廊下に転がっているスイカ

節子

もやもやした気分から抜け出せません。
どこで何がどうなっているのやら。
困ったものです。
しかし、周りの状況は少しずつですが、好転はしているのです。
まあ、たぶんではありますが。

昨日、海に行ったジュン家族から大きなイチジクをお土産にもらいました。
佐原の道の駅で買ってきたそうです。
節子にお供えしていますが、今朝、私も食べました。
美味しいイチジクでした。
イチジクには、子ども時代の思い出も重なってきます。

お盆に買った大きなスイカがまだ廊下に転がっています。
お盆に孫のにこが風邪をひいてこられず、その後は今度はユカが気管支をこじらせてしまい、割るタイミングを失しました。
もう2週間もたつのでだめかもしれません。
しかし、これは、孫に丸いスイカを切ることを毎年体験させるためのものなので、食べるに食べられないのです。

廊下にスイカが転がっている風景は、昔はよくありました。
節子の生家に夏訪ねるといつもそうでした。
丸いスイカを切ってみんなで食べる風景は、私はとても好きなのですが、最近は私も含めて、スイカを食べる量が少なくなりました。
私が小さいころは、子どもくせにたくさん食べて、お腹が水でいっぱいになり動けなくなったものです。

そういうことは、もうなくなってしまいました。
あの頃は、みんなとても豊かでした。
もちろん経済的には貧しかったでしょうが、いまよりずっと豊かな時代だったような気がします。

先の日曜日に、地上の楽園をテーマにしたサロンを開きました。
その報告は時評編に書きましたが、そもそも「地上の楽園」を目指そうということが話題になる時代は貧しい時代です。
その報告の最後に。こんなことを書き加えました。

「自分らしくのびやかに」に生きるところがもし地上の楽園であれば、それは、その気になれば誰にでもできることです。
「地上の楽園」は、もしかしたらみんなのすぐそばにもうあるのかもしれません。

地上の楽園は廊下にスイカが転がっている風景こそ、私には地上の楽園のような気がします。
あの頃は、本当に豊かでした。

私もいよいよ過去を懐かしむようになってきたようです。
困ったものです。

 

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■老後の生活費が2000万円不足するという発想

公的年金の将来の見通しを示す年金財政検証の結果が、昨日、厚生労働省から発表されました。
テレビや新聞でその内容が報道されていますが、それを聞いたり読んだりしても、何がなんだかさっぱりわかりません。
というよりも、わからないように発表したり報道したりしているのではないかとさえ勘ぐりたくなります。

今回の消費税増税のやり方もそうですが、何が何だかわからなくしてしまって、考えたり反論したりするのをあきらめさせるのが、最近の政府のやり方です。
それを未消化のまま、報道するマスコミやキャスターには驚きます。
話していて、書いていて、おかしいと思わないはずはないのですが。

それはともかく、私が一番気になっているのは、金融庁審議会報告書をきっかけに騒がれ出している「老後の生活費が2千万円不足する」という世間の動きです。
テレビでもそれを前提に番組が組まれ、多くの人がそう考えてきているようですが、そこにこそ、私は大きな違和感を持ちます。

老後の生活費が不足するのであれば、その格差をどう埋めればいいのか
その問題が、すぐに「不足する2000万円をどうやって確保していくか」という問題にすり替わってしまうことに違和感を持つのです。
これではまるで、餌をもらって生きている家畜の発想です。
そういう生き方を変えればいいだけの話なのではないか。

そもそもお金がなければ生きていけないようになったのは、たかだかこの数十年の話です。
私はそういう社会こそがおかしいと思っています。
お金がすべてのいまの社会はおかしいという人は、私の周りにも少なくありません。
そうであれば、その「おかしな生き方」を捨てればいいだけの話ですが、そういう論を説く人に限って、生き方を変えようとはしていないようにも感じます。

最近では、人間が、生活者ではなく「(お金の)消費者」になってしまった。
これに関してはこれまで何回か書いてきていますので、繰り返しませんが、そういうお金を基準にした生き方から抜け出さない限り、生活は取り戻せません。

そもそも、本当に不足するのは2000万円なのでしょうか。
お金があれば、老後の生活は安心なのでしょうか。
解決すべきは、老後の生活をどう豊かにするかであって、2000万円をどう確保するかではないでしょう。
問題は、2000万円不足するということではなく、保証された年金額でどう豊かな生活を維持できるかではないでしょうか。

豊かな生活は、金銭だけでは実現しません。
にもかかわらず、金銭だけに依存している今の生活を見直すことの方が大切ではないか。
多くの人がそういう考えを持ち出せば、社会もまた変わっていくでしょう。

大切なことは、金銭への生活依存度を最小化していくような生き方の見直しではないのか。
問題は老後の生活ではなくて、いまの生活なのです。

お金から自由になると、たぶん生活は豊かになります。
しかし、時間はかかるでしょう。
私の場合は、20年以上かかってもまだお金からは自由になれていません。
しかし、不十分でも自らが納得できる方向に向かって、少しでも動き出さねば、何も変わりません。

ちなみにいま2000万円あれば、湯島のサロンもずっと続けられるので、2000万円は欲しい気もしますが。

 

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■第4回万葉集サロン「柿本人麿「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」を読む」のご案内

万葉集サロン4回目は、前回につづき柿本人麿です。

今回は、柿本人麿「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」を題材に、〈亡びにし者たちの「われ」の喪失〉をテーマにします。
講師の升田さんからのテーマ解説です。

壬申乱によって廃墟と化した天智天皇の近江大津宮の跡を詠んだ、人麿の若いとき(万葉初出)の長歌である。
安禄山の戦によって滅んだ唐の都を詩に歌った、杜甫の「春望」(国破れて山河あり 城春にして草木深し)は、漢文の教科書を通して多くの若者たちに感動を与えた。人麿の近江荒都歌は、780年それに先んじている。日本で「荒都」を主題とした歌は、これが最初である。
前半は皇統譜を、後半は一転して廃墟の中をさ迷う人麿の姿を歌う。人麿の目に映ったものは何であったか。
動乱調、乱調と言われる人麿の歌には分かり難い部分もあるが、言葉の意味と調子で力強くそこを突き抜けて行く。古代の歌の魅力である。
近江荒都で人麿の詩性を突き動かしたものは、人麿の「われ」と対峙することの決してない、滅んだ人々の〈「われ」の喪失〉だったのではないか。
若き人麿の、心の迷いを歌う古代言語に触れたい。

というわけで、升田さんの人麿論も佳境に入ります。
「滅んだ人々の〈「われ」の喪失〉」とは、ちょっとロマンを感じさせます。
さてどんなお話になるか。

初めての方も大歓迎です。
もちろん予備知識などは不要ですが、できれば壬申の乱に関してちょっとだけ調べてきてもらえれば、もっと楽しくなるかと思います。
お気軽にご参加ください。

〇日時:2019年9月21日(土曜日)午後1時半~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「柿本人麿「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」を読む」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

 

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2019/08/27

■湯島サロン「見えない世界を感じながら生きている人が構想する地上の楽園」報告

異文化次元交流カフェ主催者の内藤さんが構想する「地上の楽園」をテーマにしたサロンは申し込みが多くて、参加募集を締め切るほどでしたが、当日は、目に見えない自然の摂理が働いたのか、20名以内に収まり、おかげで私もきちんと話を聴けるサロンになりました。

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案内でも書きましたが、内藤さんが目指す「地上の楽園」は次の3つが実現されることです。
 * 人種を問わず、安心して笑い合い、交流できる。
 * 人間の本質である「創造性」が発揮できる。
 * 人間としての尊厳が保たれている、正当に評価される。

その実現に向けて、内藤さんはいま、埼玉県の寄居の“エルモット”を拠点に活動しています。
詳しく知りたい方は、内藤さんのホームページをご覧ください。
http://ermot.jp

内藤さんはまず、「地上の楽園」構想と今それがどういうところまで来ているか、そしてこれからどう展開しようとしているかを、自分のこれまでの活動も含めて話してくれました。

地上の楽園は、「場所」であるとともに「人が創り出すコミュニティ」です。
そこに集まる人たちは、「世界と自分が一体であることが感じられ、あらゆるものに生命が満ちていて、すべてのものごとに意義が感じられる状態」であることが望まれます。
そしてそうなるためには、エゴの殻で自分をまもって生きている状態から、エゴを手放し、自分らしくのびやかに生きている状態へと自己を変えていかなくてはいけない。
内藤さんは、それを自らの精神を成熟させるという言い方をしました。

「地上の楽園」は、成熟した精神の人たちだけのコミュニティではありません。
そこに暮らすことで、精神が成熟していくようなコミュニティでもあります。
精神の成熟に向けて、自らの中にある「精神の可能性」を「発芽」させるための要素は、日本の伝統文化の中に豊富に含まれていると内藤さんは考えています。

そこで「地上の楽園」の実現のためには「和文化体験」を重視しています。
武芸・工芸・文芸だけではなく、日常の生き方に残っている和文化のなかにも、精神を発芽させる要素がたくさんあると内藤さんは考えています。
“エルモット”にはさまざまな国からお客様がありますが、彼らと接して、内藤さんはそういう思いを強めているようです。

さらに、“エルモット”では、精神の成熟を補完するものとして、ヒーリングや各種講座も用意されています。
“エルモット”の場所は、埼玉県の寄居ですが、ここは数年前に内藤さんが訪れて、「ここだ!」と感じたところだそうです。
私も何回か行きましたが、たしかに気を感ずるところです。

“エルモット”を拠点に、内藤さんはすでにさまざまなプログラムを展開中ですが、いまはまだ個人活動にとどまっているためなかなか広がりが出てきません。
この構想をもう一歩前進させるために、独立自由な人たちがゆるくつながり、精神の成熟を高め合う、そんなコミュニティが、いま内藤さんが目指している課題のようです。
この構想に共感した人たちが集まりだして、それぞれが自らのやりたいことを実現するプラットフォームが生まれれば、構想は実現に向かいだすでしょう。

お話を聴いた後、話し合いが始まりました。
もう構想ができているのだからどんどん進めればいいという意見がある一方、構想が抽象的すぎてわかりにくいのでもう少しテーマや方向を絞ったらどうかという意見もありました。
今回、内藤さんは「見えないビジョン」をできるだけ言葉にし可視化するために、見える世界の言語や思考の枠組みを組み込んで話してくれましたが、それが却って混乱を起こすのではないかという指摘もありました。

たしかに見えない世界のビジョンを言葉で説明するのは難しいです。
言葉で説明するよりも、絵や書で伝えられないかという指摘もありました。
あるいは、踊りや歌のような「楽しさ」をもっと前面に出して、まずは人が集まりたくなる場を考えたらどうかという提案もありました。

みんなが幸せに暮らせるコミュニティづくりは、これまでもありましたし、いまもあります。
しかし内藤さんが目指しているのは、仲間内の楽園ではなく、開かれた楽園であり、世界(宇宙)に広がっている楽園です。
そこに難しさがあり、わかりにくさがあり、しかし魅力と新しさがあるように思います。

今回のサロンのいろんな意見が、内藤さんの構想実現に役立つといいのですが。

サロンをさせてもらって、1回の話だけではなかなか伝わらないと思いました。
それで改めて、寄居の“エルモット”で体験型サロンをやってみるのはどうかと思いました。

最後に私の感想を一言。
精神の成熟とか自己超越とかいうことは難しいですが、内藤さんが話した「自分らしくのびやかに」に生きることは、その気になれば誰にでもできることです。
そういう生き方をしている人が、寄居に3人集まったら、地上の楽園は育ちだすのではないかと思いました。
いや、その気になれば、それぞれの人が自らの周りに「地上の楽園」を創り出せるのではないか。
「地上の楽園」は、もしかしたらみんなのすぐそばにもうあるのかもしれません。
そんな気がしました。

 

 

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■節子への挽歌4377:節子の卒業写真

節子

懐かしい写真が届きました。
節子の同級生の雨森さんが、小学校と中学校の卒業写真を送ってくれたのです。

中学校の同窓会を4年ぶりにやったのだそうです。
3割の人が参加したそうですが、雨森さんは「節ちゃんなら、遠方でもきっと来てくれたことでしょう」と書いてくれていました。
いずれも前に見た記憶がありますが、確かその時はすぐに節子を見つけられました。
しかし、今回は見つけるのが大変でした。

私の記憶が弱まったのでしょうか。
困ったものです。
こんなことだと彼岸に行ってもすぐに見つけられないかもしれません。

相変わらず疲れが取れません。
畑にはまだ行く元気が出ません。
私の周辺に「病気」が蔓延しているせいかもしれません。
ちょっと深刻な人も2人いて、それもあってか、私自身も元気が出てきません。

今日はがんばろうと思ってはいるのですが。
あんまりゆっくりできない1日になりそうですが。

 

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2019/08/26

■節子への挽歌4376:「怒り」を形にする方法

節子

今日は、晴れてはいませんが、さわやかな朝でした。
疲労感が抜けきれずに、ボーっとしていたのですが、電話がかかってきました。

あることに怒りが収まらずに、私のところに電話をかけてきたのです。
私への怒りではありません。
ある意味では、「私のためにも」怒ってくれているのです。

遠距離の、そして長い電話でした。
あんまり怒ると身体に良くないですよと、言いましたが、その怒りはよくわかります。
ちょうど、前に挽歌「見えない世界」のことを書いた直後だったのですが、怒りの本体もまた見えない世界の話です。
ついついその怒りを見える形にしたらどうかと言ってしまいました。
もちろん「暴力行為」ではありません。
怒りのもとをただすための活動です。

私は、多くの人たちが、「怒り」を形にする方法を間違っているとずっと思っています。
方法を変えたら、きっといい社会に役立つはずなのに。

ちょっと遠いところの話なので、私にできることは少ないのですが、やれることはあるかもしれません。
それにしても、本当に問題の多い時代です。
暇なのに心やすまることが少なく、本当に疲れます。
見えないことはそっとしておいた方がいいのかもしれませんし。私もそうして「見て見ぬふり」をしていることも多いのでしょう。
自分ではそうは考えてはいないのですが。

やりたいことが多すぎて、そのくせ、やる気が起きなくて、私は多分疲れているのです。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌4375:「見る」という意識は、「見えないもの」の切り捨てなのかもしれません

節子

昨日は、湯島で「見えない世界を感じながら生きている人が構想する地上の楽園」のサロンを開きました。
友人の内藤さんの構想のお披露目会です。

内藤さんは、節子が逝ってしまった後に知り合った人です。
ある時に、「啓示」を受けて以来、そのビジョンを言語化してきていますが、なかなか言語化できずに苦労しています。
昨年頃から、何とか言語化できたと時々湯島に来て語ってくれます。

私も一時期、「言語化」とか「ロゴス」とかに共感した時期がありましたが、最近は、それはほんの第一歩に過ぎないという気がしています。
というよりも、言語化とは見えない部分を切り捨てることかもしれません。
私が志向している「コンセプトデザイン」は、見えないものの可視化を目指していますが、それは本当は、「見えないものの存在の意識化」ではないかと思っています。

「見る」という意識は、「見えないもの」の切り捨てなのかもしれません。
そういう思いにいたったのは、この挽歌を書き続けているおかげです。

この挽歌を通じて、私はずっと「存在しないものの存在」を前提にして生きつづけています。
とりわけ意識しているわけでもなく、難しく考えているわけでもなく、それが自然なのです。
そして、そもそも「見えないもの」ということを意識することが「見えないもの」を生じさせることがよくわかったのです。
見えるか見えないかは瑣末なことなのかもしれません。

昨日のサロンには、私とは全く面識のない人が8人参加しました。
みんな「見えない世界」を感じて生きている人たちのようでした。
その人たちの言動には気付かされることが少なくありませんでした。

たくさんの気付きをもらって、昨日はちょっと疲れました。

 

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2019/08/25

■節子への挽歌4374:1週間の生活禅

節子

暑さは残っていますが、だいぶ秋らしくなってきました。
今日は午前中は在宅なので、久しぶりに畑に行こうかとも思ったのですが、どうも行く気が出てきません。
1か月前まではあれほど行きたかった畑ですが、気分が一変してしまいました。
自分の気分ではなく、お天道様の気持ちで生きようと思いながらも、なかなかそうなりません。

しかし、そういう自分の気分も含めて、これがお天道様の思いなのだと考えてしまうのです。
まことにもって、困ったものです。

今週はいろいろとあって、湯島に行きませんでした。
最近は湯島の開放もやめていますので、誰も湯島に行っていないということです。
どうなっているでしょうか。
今日はサロンなので午後は湯島に出かける予定です。

1週間、あまり外部とは接点を持たずに過ごしてきたのですが、こういう生活に慣れてしまうと元に戻れなくなりそうです。
人は一人では生きてはいないとしても、一人で生きることの快適さは何とも言えません。
一人でボーっとしていると、世界も他者もよく見えてくる。
もちろん自分も少し見えるようになる。
とりわけ自分の間違いに気づくことはうれしいことです。
前を向いて進んでばかりいると、どうしても唯我独尊に向かってしまう。

禅を通して己事究明すると正眼僧堂師家の山川宗玄さんは語っていましたが、この1週間は私にとっては「生活禅」だったのかもしれません。
いろいろとありすぎで、いささか披露気味ではありますが。

 

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2019/08/24

■節子への挽歌4373:施餓鬼法要

節子

宝蔵院の施餓鬼供養でした。
最近は兄が基本的には行ってくれて、私は途中から行くことが多いのですが、今年は明日から兄が検査入院なので、私が一人で参加することにしました。
宝蔵院の施餓鬼の日は、毎年猛暑という記憶がありますが、今日も暑かったです。
新盆の人は本堂内ですが、それ以外は基本的には本堂前につくられたテントで供養ですが、とても座りきれずに境内の涼しそうなところにみんな陣取っています。
私は始まるだいぶ前に行きましたので、手続きを終えて椅子に座ることにしました。
椅子に座るのは何年ぶりでしょうか。

新盆の時には家族みんなで堂内で供養しましたが、それ以外の記憶はほとんど思い出せません。
だれか顔見知りの人はいないかと探しましたが、誰も見当たりません。
宝蔵院は檀家数も多く、そのほとんどが久寺家在住の昔からの地の人です。
ですからわからないのが当然です。

久寺家は、私たちも住んでいましたので、私自身は交流は皆無でした。
住んでいたのは、新しく開発された住宅地だったので、近隣はみんな、いわゆる新住民です。
私たちは、とても運よく、宝蔵院に墓を建てられました。
というのは、宝蔵院の子どもたちが娘と同級生だったからです。
先代のご住職は昨年亡くなり、息子と娘が継いでいますが、年々、それらしくなってきています。
先代のご住職もいい人でしたが、息子もとてもいい僧侶になるでしょう。

施餓鬼法要は、餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することで、特定の先祖への供養ではなく、広く一切の諸精霊に対して修される、と本には書かれています。
ちなみに、最近、テレビの「こころの時代」で、正眼僧堂師家の山川宗玄さんが、餓鬼への供養は「食べ物」ではなく、「滋養」だと話されていました。
「食べ物」ではなく「滋養」。
いろいろと考えさせられる言葉です。

施餓鬼法要の場もいろいろと考えたら、とても効果的な場になるなと思いました。
まもなく節子の命日です。
今年は13回忌ですが、節子のお姉さんに参加してほしいので、彼女が出てこられるように涼しくなってからにしました。
本当は命日の前にやるべきなのですが、まあ姉思いの節子も賛成してくれるでしょう。

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2019/08/23

■韓国のGSOMIA破棄に素朴に思うこと

韓国がGSOMIA(日韓軍事情報包括保護協定)の破棄を発表したことが大きな話題になっています。
軍事で平和を目指そうという考えに拒否感がある私には、素朴に共感できる話ですが、どうもそういう捉え方は非常識のようです。

北朝鮮と韓国の関係は、たぶん当事者でなければ分からない話でしょう。
自分たちが望みもしなかった代理戦争で、分断国家にされて、北と南とで生き別れになった家族にとっては、一番の「平和」は、家族一緒に暮らせることだと思います。
南北の戦争が起こらないことが確信できれば、軍事など無駄な話です。
南北の戦争が起こらなければ(あるいはその危機がなければ)困る人もいるでしょうが、私は、自分は部外者であるとしても、起こってほしくありません。

昨今の日韓関係の報道情報は、やはり私には違和感があります。
日韓政府関係と日本人と韓国人の関係とは全く違う話ですが、それがいつも混同されてしまい、前者が後者に大きな影響を与えるのが残念です。

逆にもっと日本人と韓国人が往来しあい交流を深めたら、状況は変わるでしょう。
むかしは、日本と韓国は同じ生活圏にありました。
そもそも同じ生活圏で生きていたことを思い出したいものです。

 

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2019/08/22

■病院の待合室は実に面白い

前の記事で、病院のことを書きましたが、その時の待合室での体験です。
病院の待合室は実に面白いです。

中年世代の夫婦が親の付き添いで来ていました。
私の後ろでよく話していました。
仲の良い夫婦なのでしょう。
職場の話のようです。
女性は、立場のある人の考えや姿勢を気にしていましたが、男性は「偉くなる人は信頼できない」と言い切りました。
この夫婦はいつか破綻するかもしれません。

スタッフの方が、時々、待合室に出てきて、患者の方と問診票の内容を確認することがあります。
たとえば、こんなやり取り。
「食事ではどんなものを食べていますか?」
「いいものを食べています」
とても感心しました。
実にいい答えです。

眠れないので心配で病院に来たという高齢の女性。
9時に寝るそうですが、2時半に目が覚めてしまう。
そこからなかなか眠れなくて、3時半には起きてしまう。
5時には朝食、6時にはボランティア活動で家を出るそうです。
昼間はまったく眠くないと言いますが、朝早く目が覚めるので、病院に来たそうです。
受け答えしていた病院のスタッフは、6時間近く寝ているので大丈夫ですよと言っていましたが、本人は不安だそうです。
ちなみに、前回は耳のところにちょっとできものができたので耳鼻科に来たが、先生から心配ないですよと言われたと言っていました。
来週はまた別の科に行って、先週は不眠を訴えたが、大丈夫だと言われたと言っている様子が想像できました。
それにしても、朝6時からの「ボランティア」活動はなんだろうかと気になりましたが、スタッフの方は質問しませんでした。
私なら訊いたのですが。

病院では呼び出しなどは番号で呼ばれます。
しかし、番号で読んでも反応しない人が多く、「失礼ですがお名前で呼ばせてもらいます。〇〇さん」と呼ぶと「はい」と手を挙げる人が多い。
幸いにまだ多くの人は番号で呼ばれるのに慣れていない。
それはいいとして、「失礼ですがお名前で呼ばせてもらいます」というのに違和感を持ちました。個人の名前は「個人情報」に属するからですが、番号で呼ぶ方がよほど「失礼」と思いますが。

それにしても、あれだけ大勢の人が次々とバスでやってきたのに、実に見事に流れに乗って、よどみなく「処理」されていく様子は感動的でした。
まもなく「社会」全体も、こういう感じになるのかなあとちょっと思いました。

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■病院に6時間いました

昨日、娘の付き添いで大学病院に6時間いました。

娘がちょっと無理がたたって近くの病院に昨日逝ったのですが、専門医に診てもらうように大学病院を紹介されました。
昨夜は大変そうで、娘もほとんど寝ていないようなのです。
横になれないので、この数日あまり寝ていないそうです。
娘がそうなった理由の一因が私にあることもあって、娘からは断られましたが、ちょっと無理やり付き合ったのです。
最近体調があまりすぐれない私にとっての、ミニリトリートも兼ねていました。

紹介状を持って朝早くいったのですが、まず初診受付で40分ほどかかりました。
総合病院ですから、まあいろんな患者が多いのです。
次に内科受付に行って、ここでまた1時間ほど待たされました。
まあ、そのくらいは覚悟していました。

しかし、待合室にいるといろんな人がいます。
眠れないからという人もいれば、糖尿病かもしれないという人もいます。
待合室で待つ時間のおしゃべりを楽しんでいるように見える人もいます。
そういう中で、娘の苦しそうな様子を見ていて、こういう場でも「トリアージ」方式が取れないものかとつい思ってしまいました。

しかし、これはいかにも勝手な考えで、だれもが自分が一番大変だと思うでしょうから、フェアなトリアージ仕分けをするのは至難なことでしょう。
外見では娘が一番苦しそうだなと感じましたが、それはあくまでも贔屓目の外見でしかありません。

それに今日も実際にあったのですが、病状はたいした様子ではなかったのですが、午後から用事があるので急いでもらえないかという人がいました。
そうした個人事情を認めだしたらきりがないと言われそうですが、その人はきっと時間のない合間に来たのでしょう。
そう思うと優先させてやってほしいなとついつい思ってしまう。

もっとも今日も、娘は少し優先してもらったかもしれません。
スタッフの方が気にかけてくださったような気配を感じました。
お医者さんも、娘に処方後、薬が合わなくてあまり効果が出ないときには、救急窓口に来てくださいと言われたそうです。
昨日は娘からは救急車など大げさだと一蹴されましたが。

長々と書きましたが、先日の「分け合う経済」サロンに通ずるように思います。
「分け合う」文化は「譲り合う文化」でもあります。
譲り合う生き方に向かうことが、私にとっての前進です。

しかし、残念ながら今の社会は譲り合いどころか奪い合いに向かっている。
その根底にある「競争」の文化を「共創」へと向けていければ社会も個人も幸せになるはずです。
譲り合うことがどんなに気持ちの良いことか。
それを体験することがなかったがゆえに、あおり運転のようなことをやってしまう人たちに、ぜひとも「譲り合い」の喜びを体験してほしいです。

 今日、病院で感じたことです。

 

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■節子への挽歌4372:病院でのミニリトリート

節子

ユカが「ぜんそく」症状が出てこの数日ちょっと大変です。
節子も気管支が弱く、2回も入院しましたが、ユカが咳き込んでいるのを見るとあの頃のことを思い出します。
節子は、我慢強いというか、無理をするタイプで、早く医者に行けばいいのに、我慢してしまいこじらせることもありました。
娘のユカを見ていると、同じ傾向があるようです。

ユカは先日、ちょっと体調を崩したときに、仕事がらみの約束があり、新宿まで出かけました。
その件は、私も少し関係しているので、大丈夫かと確認はしたのですが、約束したことだからと出かけていきました。
猛暑の日でしたが、私も本人がいいというのだからと送り出しました。
私が代わることもできたのですが、私自身もちょっと体調が崩れ気味だったこともありました。

結局、ユカは早目に戻ってきましたが、回復途上だった体調がまたぶり返してしまい、それが気管支に来てしまったようです。
翌日、熱が出てきて、かかりつけのクリニックに行きましたが、あいにく夏休み。
自宅療養していましたが、状況は改善されません。
昨日、病院に行ったら、近くの専門科のある慈恵医大を紹介されたのです。

ユカが病院に行っていた昨日、私は近くに住む兄と食事をしていました。
兄が、私に「あなたはユカに感謝しなければいけないな」といわれました。
たしかに、もしユカが同居していなかったら、私はこんなに元気でいられたかどうかはわかりません。
ユカが私を世話してくれたという意味もありますが、娘を残しては彼岸には行けないという思いも含めてです。
私には2人の娘がいますが、彼女らがいなければ、この世には未練は全くありません。

昨夜、西部邁さんの自殺を話題にしたテレビをやっていましたが、西部さんの心情は少しだけわかります。
ただし信条的には、私には受け入れがたいことですが。

今日は、病院に私も同行しようと思います。
ユカは来なくていいと言いますが、ささやかの罪滅ぼしです。
まあ、これが罪滅ぼしになるかどうかはかなり疑問ですが。
それに、自分が患者でない久しぶりの病院も体験したい気もします。

慈恵医大病院は待ち時間多く、半日は拘束されるでしょう。
しかしちょうどいいミニリトリートになるかもしれません。
久しぶりの慈恵医大病院です。

 

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2019/08/21

■節子への挽歌4371:92歳の加野さん

節子

なかなか連絡が取れないでいた、大宰府の加野さんから電話をもらいました。
加野さんには、節子が好きだった梨を毎年食べてもらいたいと思い、送らせてもらったのですが、なかなか連絡がつきませんでした。

加野さんとの縁は不思議な縁です。
節子が元気なころに、残念ながら大宰府に行けませんでしたが、加野さんが節子に会ったことがあるかどうかは思い出せません。

私たちと加野さんのつながりは、加野さんの娘さんです。
娘さんが東京に出てきていた時、時々、湯島に来てくれていました。
夢を持っていた女性でした。

しかし、大宰府に戻った後、数年して急逝してしまいました。
あまりにも突然のことだったのですが、当時は私も節子の闘病の時期で、余裕がありませんでした。
私が大宰府に弔問したのは、節子がいなくなってからです。

加野さんは、若くして亡くなった娘さんの37回忌までは死ねないと決意しています。
今年で92歳ですから、あと15年です。
私にもそれまでは元気でいてほしいと今日の電話でも話していました。

加野さんは、不思議な人で、前にも書きましたが、福岡の大日寺に私を連れて行って、彼岸の節子の様子を教えてくれた人です。
ほかにも不思議なことがいくつかあるのですが、そういうことを考えれば、107歳まではきっと元気でしょう。

加野さんは節子のことを知って、最後にいろいろと尽力してくれました。
奇跡は起きませんでしたが、その一歩手前までは行った気がします。
だから加野さんには、節子の好きだった梨を毎年食べてもらおうと決めたのです。

加野さんは最近は年寄り仲間と毎日歌を歌っているそうです。
最近、万葉集ブームで話題の大宰府ですが、和歌を詠っているわけではありません。
みんなで一緒に歌を歌っているそうです。

実は加野さんの娘さんは、大宰府で世界中の人たちが集って平和を歌うイベントを夢見ていたのです。
その夢を加野さんが知っているかどうか、確認したことはありません。
でもたぶん親子の霊はつながってるでしょう。
そんな親子なのです。

107歳になる前に、大宰府に行こうと決めました。

 

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■パンのためのバラ

あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の中止が波紋を呼んでいます。
しかし残念ながら、またうやむやのうちに終息し、事態は一歩進むような気がします。
もちろん私にとっての悪い方向での前進ですが。

あいちの問題に関してはすでに多くの議論がありますので、議論は繰り返しませんが、芸術監督の津田さんは、「社会の自己検閲」への問題提起を目指したと言っています。
その考えには大賛成ですが、方法には大きな違和感があります。
もしそうであれば、社会の現場に降りてきて、その問題をこそ、考える動きを創り出すことをなぜ目指さないのか、です。

同じような事件や問題はさまざまなところでこれまで繰り返し起こっていますが、そうしたことをつないでいく地道な活動はあまり広がっていません。
そこに大きな問題を感じます。
そして、そうした背景には、現代のアートがあまりにも、「道具」的な存在になってしまった現実を感じます。

そんなこともあって、先週、プレハーノフの「芸術と社会生活」を読み直しました。
プレハーノフは、「芸術と社会生活については、「芸術は人類意識の発達、社会制度の改善をたすけるものでなくてはならない」と「芸術はそれ自身が目的である」という、2つの全く反対の考えがある」と書きだしています。
他の目的を達する手段に芸術をしてしまうことは、芸術的作品の価値を低下せしめるものである、という考えもありますが、そもそも「価値」というのは、社会があればこそ生ずる概念です。
芸術の持つ社会への影響力は極めて大きいことは間違いありません。

社会が豊かになってきた大きな要因の一つは「芸術」でした。
「人はパンだけでは生きていけない。バラも必要なのだ」。
これはウィリアム・モリスの考えを国分功一郎さんが表現し直した言葉ですが、パンだけを目指す生き方に向かっている私たちが思い出すべき言葉だと思っています。
ところがいまでは、バラもまたパンのためのものになりつつある。

最近のアートは経済主義に向けて大きく変質したと思っています。
あるいは、政治(正確には金銭経済の下部組織としての政治)の道具に取り込まれつつあります。
そこに大きな失望を感じます。

アートには大きな力がありますが、それは誰かに私用されるべきではありません。
あるいは、金銭経済の道具にされるべきでもありません。

私がとても素晴らしいと思っている事例は、ラマラ・コンサートです。
前に私のホームページで何回か紹介したことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/09/post_5897.html
アートでできることはたくさんあるでしょう。

この自由が失われそうな時代に、なぜアーティストの人たちが大きな動きを創り出さないのか。
アーティストの世界には、山本太郎さんのように、人民の中に飛び込んでくる人はいないのでしょうか。
才能のある人が、その才能をどこに向けて発揮するかは、とても大切なことだろうと思いながらも、才能がない私としては悔しいばかりです。

 

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2019/08/20

■仏教サロンを始めたくなりました

昨日、挽歌編に書きましたが、日曜の朝、Eテレの「こころの時代」の禅シリーズを見てしまいました。
岐阜正眼寺の山川宗玄さん(正眼僧堂師家)が禅について語ってくれるシリーズです。
毎月1回の放映でまだ5回目。まとめてみようと思って録画しているのですが、うっかり5回目を見てしまいました。

思っていた内容と全く違っていて、引き込まれてしまいました。
それで、今日、録画していた4回分をすべて見てしまいました。
ますます山川宗玄さんの話に引きこまれてしまいました。
個人的体験をベースにしたお話は、禅には不案内な私にも素直に心に入ってきました。
テキストも出ていますので、お薦めです。
https://www4.nhk.or.jp/kokoro/33/

実は数日前から、あれほど楽しみだった畑に行く気が失せてしまっています。
手が負えなくなったという状況もあるのですが、なぜか畑が私を拒否しだしているのです。
理由はわからないのですが、歓迎されていないのがよくわかります。
山川宗玄さんの話を聴いて、まだまだ私が自分本位で行動していることを思い知らされました。
山川宗玄さんの生き方を学ばねばいけません。

それにしても、誠実に生きている人の人生は豊かで、示唆に富んでいる。
山川宗玄さんにお会いできる自信はありませんが、せめて著作だけでも少し読んでみようと思います。
東京でお話を聴けるような場があれば、教えてください。
7月にチャンスがあったようですが、くづくのが遅かったです。

どなたか「正法眼蔵」を解説するサロンをやってくれる人はいないでしょうか。

仏教関係の本ではもう一冊、ちょっと気になっているのが、曹洞宗の南直哉さんの「超越と実存 「無常」をめぐる仏教史」です。
どなたか読まれた方はいないでしょうか。
「無常」を語ってくれるサロンをやってくれる人がいるとうれしいです。

改めて仏教を考え直したくなっています。
僧籍を持った友人は多いのですが、考えてみたら、仏教をテーマにしたサロンはあまりやってきていません。

どなたかお願いできませんか。

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2019/08/19

■最近のテレビ報道に思うこと

最近のテレビ報道に関して、フェイスブックに2度ほど意見をアップしましたが、いろんな人から意見がありました。
2回にわたり書き込んだことの要旨をここにも書いておきます。

2019818日〕
この数日話題になっている「あおり運転」の加害者が逮捕されました。
その逮捕の瞬間をテレビでしつこく放映されていました。
私には非常に不快な画面でした。

加害者が不快だったのではありません。
撮影をやめてほしいという警察の指示を無視して撮影し、報道するテレビ関係者が不快でした。
私の感覚では、加害者の行動を正当化する姿勢でしたから。
加害者もうまくそれを利用しているように思いました。

 あおり運転をなくす方向で最近のマスコミが動いているとはとても思えません。
たぶんあおり運転はさらに「進化」するでしょう。
ドライブレコーダーも売れて、経済成長に寄与するでしょう。

警察も行政もあおり運転に限らず、飲酒運転も含めて、真剣に取り組んでいるとは思えません。
これまでも書いていますが、自動車運転免許の管理をすればいいだけの話です。
そして自動車の台数を減らせばいいだけの話です。
財務省と経産省が、そんなことを許しはしないでしょうが。

 経済成長を基準にした発想から、もう抜け出したいです。
利便性や快適性も、経済視点ではなく生活視点で考えていきたいものです。
人間にとって、「利便性」とか「快適性」とは何かを考えなしたいです。

 最近は新聞を読まなくなってきていますが(見てはいます)、テレビの報道番組も見るほどに気分が悪くなり、見なくなってきています。
新聞もテレビも、この半年、急速に変質しているように思います。
私の偏見だといいのですが。

 2019819日〕
しつこいですが、今日もまだあのあおり運転加害者逮捕の瞬間が繰り返し流されています。
たとえば、いまやっていた「ひるおび」では司会者が「不愉快な画面」と言いながらも繰り返し流しています。
不愉快な映像をなんで繰り返し流すのか。

その背景には、一時期、やはり繰り返しテレビで流されたコンビニ店員などが悪ふざけした行為を撮影してネットに流す「いたずら映像」と同質です。
あれも増長させたのはテレデだと思いますが。
こういう番組のディレクターや司会者やコメンテーターは、ああいう映像をネットで流す若者とどこが違うのか、とつい考えてしまいます。
同じ仲間です。

 そもそも不快な映像をテレビで流さないでほしいですが(流すべき価値があるものは別です)、それよりも、この映像を「かっこいい」と受け取る人もいるでしょう。
かつて逮捕されると箔がつくということが言われたこともありますが、要はこの画面はそうした人たちを刺激し、さらにエスカレートさせることになるでしょう。
今回の加害者はそれを意識して、行動していたように思います。

少なくとも加害者は全国ベースでの「有名人」になりましたし、彼はこの事件をたぶん活用していくでしょう。
いまの社会の風潮を助長しているテレビ関係者は、テレビはそれとは逆の可能性を持っていることを知ってほしいです。
まともな政治記者がいなかったと言われているように、まともなテレビディレクターはいないのでしょうか。

 

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■湯島サロン「分け合う経済試論 〜資本主義の次の世界への可能性」報告

平田英二さん(やとじぃ/練馬区文化財保護推進員)の「分け合う経済試論」のサロンは猛暑にもかかわらず、14人の参加がありました。
いつもより時間を1時間延ばし、平田さんが作成してきてくれたテキストをベースに2時間近く、じっくりと平田さんのお話を聴かせてもらいました。

平田さんは最初に今回サロンで話すことになった背景を話してくれました。
「カネ、カネ、カネ…の世の中、やだなあ」と感じていた平田さんは、昨年、湯島でやった霜里農場の金子友子さんのサロンで、有機野菜を売るのではなく、あげちゃうことにしたらうまく回りだしたという友子さんの話を聴いて、目が開かされたといいます。
その後、平田さんは4回も入院をするのですが、その間、改めていろいろと本を読んだり考えたりしているうちに、「分け合う経済」ビジョンが形になってきたようです。
念のために言えば、平田さんは現場と実践の人ですので、書籍だけから組み立てられた仮設ではありません。
現場調査もしながら、自分の生きかたとつなげて考えてきたビジョンです。

話は、「アイヌの鮭交易」の話から始まりました。
それは、収穫した鮭を加工して、ある場所(チシャという一種の神域)に放置し、それを欲しい人が引き取っていくというようなスタイルです。
神域に放置することで、鮭は神のものになり、それを必要な人が活かしていくということで、個人の所有権の移転とはちがうのです。
神のもの(みんなのもの)を分け合って活かしていくという仕組みで、平田さんの提唱する「分け合う経済」のエッセンスが凝縮されているように思います。

そこから平田さんはアイヌ文化の成り立ちに話を転じ、北アメリカ先住民のポトラッチまで話を進めます。
アイヌの話は、社会のありように大きな示唆を与えてくれる内容でした。
そして、資本主義経済は「棚田経済」だと言って、水田稲作という装置産業が生み出した権力と格差の話に入っていきます。

その話をたっぷりしてくれた後、では格差を生まない経済取引はあるのかと問題を設定し、いくつかのモデルを紹介します。
その一つが、「分かち合う経済」ですが、それはそれですぐれた解決戦略だと思うと言いながら、やはり平田さんは納得しないようです。
視点が違うのです。
そして出てきたのが「分け合う経済」なのです。

平田さんはこう言います。
心情的な語感をもつ「分かち合い」よりも、物々交換や沈黙交易に対置できるような、フラットで動的な言葉として、「分け合う経済」を選んだ。

「分け合う経済」は必然的に仲がよい関係を作り出す、と平田さんは言います。
人間同士だけではなく、自然とも仲良くして、自然から分けてもらった恵みを分け合う。
自然の一部として生きる者どうしが自然の恵みを分け合う、ということです。
そして、狩猟採集民こそ、まさにそう生きてきたと平田さんは言います。

平田さんは、アイヌも含めて狩猟採集民が農耕と無縁だったなどとは思っていません。
その生き方というか社会のありようを言っているのです。
そういう時代に分け合って生きている人たちがどういう集落をつくり、どういう文化や死生観をもっていたかを、縄文環状集落モデルで説明してくれました。
これも示唆に富む話でした。

とまあ、そういう話をしてくれた後、平田さんは格差と戦争原理をなくす分け合う経済が持っている可能性を語ってくれました。

分け合うのであれば、できたものをできたなりで分け合えばよい。
コストパフォーマンスどころか、コストという概念さえない。
B級品や規格外というロスが生じることもない。
お返しもまた分け合いだから、必ずしも、もらったものに見あったものである必要はない。分け合える何かをお返しすればよい.
価格という制約がなくなれば、むしろ、物そのものの価値をまっさらな状態で受け止めることができるのではないか?

少なくとも生活に関わる領域を「分け合い経済」に変えていき、人びとと分け合い、自然と分け合えば、自然を過剰にいじめることなく、おのずと持続可能性の高い社会を維持することができるのではないか?
「各人ができることを分け合って働き(そこにいること自体ひとつの働き)、得られたものは平等に分け合う」ことによって、格差も小さくなる.
そこに「働かざるもの食うべからず」の思想はない。
「分け合う経済」は、戦争という人類最大最悪の不幸を避ける道にもなる。

いかがでしょうか。
そして最後に結論としての平田さんとしての行動宣言です。
「そういうことで、私はまず「あげること」からはじめることにしました」。
そういって、今回のサロンの資料をカラープリントで参加者全員に配布してくれました。
一冊の本にもなりそうな内容の濃い資料です。

話し合いも、賛否あって、いずれも示唆に富むものでした。
魅力的な議論も多かったですし、私の意見も書きたいのですが、長くなりすぎるので今回はやめます。
できたら参加された方がフォローしていただけるとうれしいです。

参加された方は、いろんな示唆を受け取ったと思われますが、平田さんが最後に自己宣言したように、いまの社会がもし生きづらいのであれば、まずは自らの行動を変えることから始めるのがいいと改めて思いました。

このシリーズのサロンは引き続き継続します。
話したい人がいたらご連絡ください。

190817

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■節子への挽歌4370:手足を使って生きることの大切さ

節子

山川宗玄さんのお話をもう少し書きたくなりました。

山川宗玄さんは、いまここを生きることと手足を使うことの大切さを話されました。
山川宗玄さんは、今、この瞬間瞬間をしっかりと生きていくことが「看脚下」だといいます。
足元とは、まさに「いまここ」なのです。
私は、「いまここを生きること」は節子から学びました。

さらに山川宗玄さんは言います。
道場の雲水の日常は、世間からは修行といわれるが、手足を使って日常生活をしているだけだ。
掃除もまき割りも托鉢も、すべて自らの手足を使った行為。
それを通じて、「今」というものが実感できる。
そしてそれが「悟り」にもつながっていく。
悟りは頭ではなく手足からたどり着けるというわけです。

しかし、最近の世の中は、手足を使うことが少なくなってきた。
食材はコンビニで買え、スイッチ一つで掃除もできれば涼もとれる。
手足を使わなくても、生活できるような社会になってきた。
しかしそれによって何かが欠けてきてしまい、一生が夢のようになってしまう。
山川宗玄さんはそう言います。

手足を使うことが生きているという実感を与えてくれる。
そしてさらにそこから、自分は一体何者なのだという疑問が生まれてくる。
理屈ではなく、身体を通してわかることの尊さこそ、今一番大切なことではないか。
そして山川宗玄さんは、手足を使って毎日精一杯生きていくことこそが人を変えていくと言います。
山川宗玄さん自身が、迷いを持ってお寺に入った後、手足を使う毎日の中で、迷いが疑問になって、自らが変わってきたというようなお話をされていました。

手足を使った生活。
いま求められているのは、まさにそれではないかと思います。
しかし、手足を使って生きている人は今どれだけいるでしょうか。
夢のような社会には、実感の喜びがありません。

 

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■節子への挽歌4369:仏の対語は「不仏」

節子

録画していたEテレの「こころの時代」の禅シリーズを見始めました。
岐阜正眼寺の山川宗玄さん(正眼僧堂師家)が禅について語ってくれるシリーズです。
まだ5回目までですが、まとめてみようと思っていたのですが、先日放映された5回目をライブで少し見てしまい、山川宗玄さんが「餓鬼が食べるのは何か」という話をしていたのが耳に残ってしまっていたのです。
間もなく施餓鬼の日が来ますので、それまでに見ておきたくなったのです。

とても共感できる話でした。
山川宗玄さんは大学で物理学を学んだそうですが、それもあってか、宇宙を構成しているダークマターの話も出ました。
今回、私が教えられたのは、「不仏とは私」だというメッセージです。

まだ消化はできていないのですが、山川宗玄さんは「仏とは何か」を背理法で明らかにしようと話し出します。
そして、仏の反対語としての「不仏」を、「私」と読み替えるのです。
不物の「不」と「仏」の人偏(亻)を重ねると「禾」になります。

つまり「不仏」の2文字を重ねると「仏」という文字になる。
というわけで、仏と私は対語になる。
私を捨てれば、仏になれるというわけです。

山川宗玄さんは、ひとつのわかりやすい話としてこれをあげているのですが、納得してしまいました。

仏教は、私の中にも仏性がある、つまり仏がいると言っています。
しかし、その一方で、仏が不在なのが私だという。
ややこしい話ですが、たぶん同じことを言っているのでしょう。
私と仏をどう重ねていくか。

これはもう少し考えてみないといけません。

 

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2019/08/18

■節子への挽歌4368:死が生を豊かにしてきた

節子

会社時代の先輩から、「科学」の7月号掲載の大橋力さんの論文が面白いと教えてもらいました。
図書館から借りてきて読んでみました。
書き出しを読んで驚きました。
こんな内容です。

宇宙には(生命が生存可能な惑星)は数えきれないほどあるかもしれない。
しかし、それらの生命たちのほとんどすべては,地球生命と大きく違い,〈必然的に到来する生命の終焉〉という事象をもたない。
地球においても,〔自個体の生存活動を有限時間に終結する仕組〕は,原初の地球生命〈原核生命〉にも存在せず,それより15億~20億年も遅れて登場した〈真核生命〉に至って初めて,生命の自律的な終焉が進化的に形成された。

つまり、「生命」と「死」とは別のものであり、死なない生命もあるというのです。
私の認識とあまりに重なっているので驚きました。

この論文の後半では、生まれ変わりや輪廻転生、解脱の話題も取り上げられていました。
私は解脱反対論者、つまり輪廻を楽しむ三世ノマドを目指していますが、そのことも肯定されている内容でした。

科学は時代によって大きく変わります。
現在の科学もまた、たまたま今理解できることを整理したものです。
間にも書きましたが、質量不変の法則が絶対の真理でもありません。
しかし多くの人は、科学という言葉がつくと、それは絶対的なものだと思考してしまいます。
それは生きるための知恵かもしれませんが、世界を狭めてしまいかねません。

この論文は、死が生を豊かにしてきたとも読めます。
私も最近そう思えるようになりました。

 

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2019/08/17

■節子への挽歌4367:統合失調気味?

節子

台風の後の、さわやかな朝でした。
西日本には大きな被害を与えた今回の台風も、我孫子は風が強かっただけで、雨もさほど降りませんでした。
台風とお盆のおかげで、私も元気になりました。
思考力も戻ってきました。

畑には、しかしまだ行く気にはなりません。
少し前までは、畑に行くと元気がもらえたのですが、何かが変わってしまっています。
他者と付き合うのも大変ですが、自分と付き合うのも、いろいろと大変です。

しかし、こうした状況は、ある意味で自己の分裂で、統合失調につながるのでしょうか。
あるいは、「悟り」への近づきでしょうか。

まあいずれでも同じようなものですが、こんな風に考えてしまう状況では、まだ心身が回復したとは言えないようです。
作業をしたり、あるいは他者と話したりしていると、それなりに落ち着きますが、一人でパソコンに向かうと、やはり心は乱れます。
困ったものです。

今日も猛暑が予想されていますが、朝の風はとてもあったかで快い。
狭い仕事部屋にいると、「平和」とはこういうことかなと思うほど、静かで穏やかな時間です。
この先に、もしかしたら「ひきこもり生活」があるのかもしれません。
あるいは「涅槃」とはこういうことでしょうか。
思い出せば、節子が元気だったころ、夏に節子の生家に一緒に帰省していたころに、こんな時間があったような気がします。
お盆で帰ってきていた節子が、何かを残していってくれたと思えるほど、今朝はおだやかな時間を、ほんの少しですが、過ごさせてもらいました。

もうじき、節子の13回忌。
空白の12年でした。

 

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2019/08/16

■節子への挽歌4366:節子が戻っていきました

節子

早くも送り火の日になりました。
台風の余波で、我孫子も昨日から強い風が吹き荒れています。
孫が来る予定が、風邪で来られずに病院通いで、スイカを割ることができませんでした。

兄の家に戻ってきている両親にも会いに行く予定でしたが、兄夫婦も体調を崩しているようでやめました。
今年の夏は体調を崩している人が少なくありません。
私の場合は、体調というよりも、心調ですが。

ユカと一緒に節子をお墓に帰してきました。
先導の灯明はいつものようにベネチアンのランタンです。

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お線香をあげて、般若心経を唱えました。
また節子は私の両親と同居というわけです。

帰宅して精霊棚をかたづけ、仏壇に戻しました。
また大日如来の出番です。

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なんだか急にさびしさが襲ってきました。
波立っている手賀沼の上の夕焼けが、ちょっと感傷的な気分にさせてくれます。
風の音も感傷的に聞こえます。

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お盆が終わりました。

 

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2019/08/15

■節子への挽歌4365:敗戦記念日

節子

敗戦記念日です。
毎年、この時期になると、テレビでは戦争関係の番組が増えますが、私にはそうした「敗戦記念日」感がまったくありません。
困ったものですが、そもそも「記念日」という呼び方も違和感があります。

原爆が投下された日の広島や長崎の式典は理解できて、私なりの追悼の意も表せるのですが、敗戦記念日というのはまったく理解できません。しかし、広島や長崎の式典に、政府関係者が参加して、心のこもらない形式的なスピーチをするのには違和感があります。
どうして被爆者はブーイングしないのか。
いつもそう思って、苦々しく聞いています。

先日、湯島で辺野古をテーマにしたサロンを開きました。
そこで「平和」とか「反戦」という言葉がでました。
その言葉に感情的に反応してしまい、「平和」とか「反戦」とかいう言葉は嫌いですと言ってしまいました。
言った途端に、言わなければよかったと思ったのですが、今回は参加者のおひとりが、私も嫌いですと、フォローしてくれたので、少し救われました。
しかし、平和活動に取り組んでいる必要たちもいる中で、発言には気を付けなければいけません。
以前は、節子によく注意されていましたが、最近は同じ注意を娘のユカからされています。
やはり母娘です。

それでもやはり今日は平和とか戦争のことを考える気になりました。
節子がいた頃は、夫婦でよくそういう議論もしたものです。
しかし、娘たちとはなかなかできません。
それに娘たちは、節子と違って、私の言葉など理解しようとはしてくれません。
あまりにも違っているからです。

こう書いてきて、気づいたことがあります。

最近のモヤモヤ感は、もしかしたら私を分かってくれる人がいないからではないかと気づいたのです。
四六時中、一緒に生きていると、言葉ではない思いの交流があります。
それがあればこそ、思いはシェアできますが、言葉だけだとなかなかわかりあえないものです。

わかるということには、どうも2種類の「わかる」がありそうです。
節子は私のことをあんまりわかっていなかったにもかかわらず、たぶん完全にわかっていた。
同じように、私も節子のことをあんまりわかっていなかったにもかかわらず、完全にわかっていた。
そんな気がしてきました。

だからそこでは「けんかと信頼」が共存していた。
論理を飛躍させれば、平和と戦争を超越した観念がある。
そこに向かわないといけません。

「敗戦」などを記念日してはいけないのです。

 

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■湯島サロン「沖縄・辺野古の現状2019年夏」報告

今年もまた、沖縄の東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長の緒方さんに、サロンをやってもらいました。

緒方さんは、アメリカで開催される平和を求める元軍人の会(VFP)の総会に出席する予定だったのですが、体調を崩され渡米は中止されたのに、サロンは無理を言って予定通り開催してもらいました。
ともかく緒方さんのお話をお聞きしたくて、緒方さんには無理をさせてしまいました。
サロンには、女性3人を含む、12人が参加しました。

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最初に緒方さんは、アメリカのVFP総会で上映予定のDVDを見せてくれるとともに、総会で配布される資料の日本語版を配布し、それに沿って、辺野古をめぐる概況とVFP総会へのメッセージを紹介してくれました。
それに加えて、「本土」のマスコミがほとんど取り上げていない琉球新報のワシントン特派員からの衝撃的なニュースを紹介してくれました。

それによれば、最近、上下両院で可決された国防権限法案では、「辺野古を唯一」とする条文が削られ、「国防長官は沖縄やグアム、ハワイ、オーストラリアなどの部隊の展開計画を再調査しなければならない」とされているそうです。
さらに、代替基地としては、「アラスカ、ハワイ、米本土、日本、オセアニアのどこか」と提案されるようですが、ここに書かれている「日本」には「沖縄」は含まれていないそうなのです。

詳しくは、琉球新報の下記の記事をお読みください。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-961260.html
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190726-00000011-ryu-oki

ちなみに、琉球新報の記事にあるように、辺野古基地建設で失われようとしているサンゴ礁や自然の破壊を取り上げた映像ドキュメンタリー「我した島ぬ宝(私たちの島の宝)」も上映されるそうですが、日本のマスコミではなかなか伝わってこない動きが、沖縄の人たちの活動によって、アメリカでも始まっているようです。

日本でも、たとえば自然破壊とか軟弱基盤問題などが話題になりましたが、一時期の話題でそれが大きな流れの変化にはつながっていません。
もしかしたら、アメリカよりも日本の本土は沖縄から遠いのかもしれません。

まだまだ日本では、米軍基地問題は「沖縄の問題」と捉えられがちですが、問題は沖縄のみならず、日本全体の問題です。
沖縄の基地が問題なのではなく、日本に米軍基地があることが問題なのです。
そう考えれば、そもそも「沖縄基地問題」という言い方を変えることから始めなければいけません。
私が今回、一番反省したことはこのことです。

さらに言えば、問題は「米軍基地」ではなくて、現在の国政のあり方であり、私たちの生き方や政治への関わり方の問題です。
緒方さんは、話の中で、報道写真家の岡村昭彦さんの言葉を紹介してくれました。
「本土」の人から基地問題に関して何をしたらいいかを問われた時に、岡村さんは「基地の問題に何ができるかではなく、ご自分の周りにある問題に取り組んでもらえればいい」と応じたそうです。
とても共感できます。
同じような問題は、だれのまわりにもたくさんあるはずです。
それに実践的に取り組んでいえば、かならずそれは基地問題にもつながっていく。

それにしても、7割以上の住民が反対している辺野古埋め立てが、政府によって話し合いさえされずに進められているという、いまの政治のあり方を、私たちはもっと問い直す必要があります。
いつ、そうした政治が私(あなた)の身近な生活に及んでくるかもしれません。
その時に、当事者が7割反対しても押し切られる政治が生み出されているのです。

話し合いはいろいろと広がりましたが、私が一番ショックだったのは、沖縄の大学生たちがこうした「政治問題」に消極的になってきているということです。
若者たちの生き方は、社会の未来を示唆しています。
子育てや学校教育の問題は、決して「福祉問題」にとどまるものではないのです。

琉球・沖縄センターでは活発な情報発信を行っていますが、なかなか沖縄以外の地域には情報が届きません。
今回のように、緒方さんから直接お話を聞くだけでも認識は変わるはずです。
沖縄の実状や基地を取り巻く状況に触れられる場をもっとつくっていけないものか、と今回も思いました。

どなたかそういう場を企画しませんか。大学やNPOでも、個人でも、社会教育の場でも、その気になれば、いろいろと考えられます。
もしご連絡いただければ、私も一緒に考えさせてもらいます。

サロンの話し合いの内容をきちんと書かずにすみません。
参加された方、できればフォローしてもらえるとうれしいです。

 

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2019/08/14

■節子への挽歌4364:人生は80近くなっても変えなくても大丈夫

節子

やはり心身の状況がかなり悪いです。
軽いメンタルダウンの感じです。

実は、この3か月ほど、心身が安定せずに、息切れしながら元気を何とか維持してきているのですが、いろんなストレスがたまりすぎてしまいました。
いろんな人生に触れていると、毎年1回くらいは、大きくメンタルダウンするのですが、この2年、そうした大きなメンタルダウンがなかったことが、こうした状況をつくってしまっているのかもしれません。

今日は朝からグダグダと無為に過ごしていたのですが、先日、鈴木さんが紹介してくれた本を思い出して、図書館から借りてきました。
「人生は五十からでも変えられる」
外科医の平岩正樹さんが、53歳で東大の文学部に入学したり、トライアスロンに出場したり、フィリピンのスラムにホームステイしたりした体験を書いた話です。

やることもないので、夕方から時間つぶしのために読んでみることにしました。
難しい本は無理ですが、こういう本なら今の状態でも読めるだろうと考えたのです。
それにその本に、一か所、間違いがあるような気がしたからです。
そもそも、学びの場を大学に求めるという発想は、私にはまったくありませんし、恵まれた人の道楽話で、どうせ大した内容ではないだろうと思っていたのです。

ところが、読み出したら、すごい内容です。
本書のメッセージは、「新しいことを始めるのに、遅すぎることはない」です。
そのことを、説教調ではなく、自分をさらけ出すことで読者に感じさせてくれるのです。
しかも文章のスタイルが私好みです。

感動しながら、そして共感しながら、一気に読み上げました。
もちろんちょっと共感できないところもありましたが。

読み終えて、元気が戻ってきました。
まさか、会ったこともない人の体験記を読んで、こんなにうれしい気持ちになれるとは思っていませんでした。
平岩さんに感謝しなければいけません。

もっとも、私が本書を読んで確信したことは、「人生は80近くなっても変えなくても大丈夫」ということなのですが。

 

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■節子への挽歌4363:桃を節子にお供えしました

節子

節子がせっかく来ているというのに、体調を崩してしまいました。
7月以来、どうも調子が悪いです。
どこが悪いと一言では言えないところが一番問題です。
どことなく、というよりも、すべてにおいて心身の調子がおかしい。

ミニリトリートするはずが、中途半端な怠惰な生活に落ち込んでいたためかもしれません。
困ったものですが、何かやり場のないモヤモヤ感と気怠さがある。
かなり重症のような気もしますが、ただただ暑さに負けているかもしれません。
いやめずらしく冷房の効いたところに長くいすぎるためかもしれません。
冷房は快適なのか不快なのか、よくわかりません。

家でグダグダしていたら野路さんから桃が届きました。
野路さんの伴侶が節子が一緒にヨーロッパ旅行をした仲間のおひとりですが、数年前に階段から落下してしまい、記憶をかなり失ってしまいました。
少しずつ良くなってはいるものの、まだ完全ではありません。
節子がいたら、お見舞いに行って、元気づけられるのでしょうが、節子は野路さんのお見舞いに支えられていました。
人の関係はいつ逆転するかわからない。

野路さんの連れ合いとは、節子は何回もあっているはずですが、私は一度しかあったことはありません。
節子が亡くなった後、節子が好きだった梨を毎年届けているのですが、そのお返しで毎年、桃とリンゴが届きます。
バランスが取れていないのですが、まあ私の付き合い方はそんなものです。

桃を食べたら、元気が出るかもしれませんが、その元気も出てこない。

今日は家に引きこもって、グダグダと過ごしています。
唯一やったことは、シャデラックスのレコードを聴いたことですが、何故かこれもいつもとは違い、私の好みではありませんでした。
身心によって、音楽の印象まで大きく変わるようです。

さてさてこの状況から抜けるにはどうしたらいいか。
節子が戻ってきたからでしょうか。
困ったものです。

 

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2019/08/13

■節子への挽歌4362:大きな馬と2頭の牛

節子
今日は迎え火です。

精霊棚を準備しましたが、今年の送迎の牛馬はいつもと少し違います。

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まず迎えに行く馬ですが、大きなキュウリをつかい、巨大な馬にしました。
最初は前後が逆だったのですが、しっぽよりも首を伸ばした方が気持ちに合うような気がして、ひっくり返したら、なんだか恐竜のようになってしまいました。
いずれにしろ勢いがあって気に入っています。

見送りの牛は、最初は5センチほどの小さなナスでつくったのですが、あまりに大きさが違うので、小さなのはやめて2頭の牛にしました。
一頭は白い牛ですが、これはナスではなく、節子の生家から送られてきたメロンの種から育ったメロンです。

いずれも私が小作人として頑張っている畑から、今朝、いただいてきたものです。
ひまわりも畑からです。
カサブランカは、今年は失敗してしまったので残念ながら手作りではありません。
花のブーケはMさんからもらったものです。

スイカの陰に杉野さんの梨も備えています。
スイカは食べられるかどうかはともかく、お盆にお供えすることにしました。
むかし、お盆に節子の生家に帰省していたころ、いつもみんなでスイカを食べていましたから。

さてこれからお墓に節子を迎えに行ってきます。

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2019/08/12

■節子への挽歌4361:お盆が近づきました

節子

今年もお盆が近づいていますが、お隣のMさんがご夫婦で、今年もまた花を届けてくれました。
毎年、花を届けてくださるのです。
仏花ではなく、節子好みの洋花のブーケです。
仏花には少しアレルギーがあるのですが、洋花の明るいブーケは大歓迎です。

いつもはやわらかな温かな雰囲気が多いのですが、今年はめずらしく深紅のバラを基調にした、強さを感ずるものでした。
Mさんは節子と同じころにお母様を亡くされています。
それもあって、毎年届けてくれるのです。

節子と特に付き合いが深かったわけではないのですが、お子さんへのちょっとした節子の心遣いをいまでも感謝してくれているのです。
その娘さんも、もう大学生で海外に留学していますし、その上の娘さんも結婚が決まったそうです。
どんどんとみんな大きくなっていきます。
私だけがそういう流れに追い残されてしまっている感じです。
あの時から、時間が止まっている感じです。

節子の好きだったカサブランカと一緒に、節子にお供えしました。

明日は、迎え火です。

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2019/08/11

■節子への挽歌4360:孫とのバッタ取り

節子
今日もまた猛暑です。
まるであの年の再来です。

あの夏との違いは、節子はいないけれど孫がいることです。
にこは、ジュンから網と虫かごを買ってもらったそうです。
それで畑に虫取りに行こうとわが家にやってきました。

今朝も畑に草取りに行っていましたが、精霊バッタがたくさん飛んでいました。
殿様バッタは最近見かけませんが、なにしろ畑はまた野草に覆われだしていますので、バッタの天国です。
そこに乱入するというわけです。

私は小学校時代は、夏休みにはどんな暑いときも昆虫採集と称して、朝も夕方も、林などに出かけていました。
手入れが悪くてみんなだめになりましたが、中学校時代は標本もつくりました。

節子と結婚した後も、節子までつき合わせて、子どもたちと虫取りに行きました。
キリギリスは一度狙ったら逃しませんでした。
カブトムシもクワガタもどこにいるかはわかりました。

子どもが付き合わなくなっても、節子の郷里に行くと虫取りやカニとりに出かけていました。
節子は嫌がらずにいつも付き合ってくれました。
私が、子ども時代の生き方を継続できたのは、節子のおかげです。
とても感謝しています。

さて孫とのバッタ取りです。
孫はあんまりバッタ取りはうまくありません。
それに大きなバッタはどうも怖いようです。
トカゲは手でつかめるそうですが、バッタは苦手らしい。

だいぶつかまえて、かごに入れて帰宅し、庭に放しました。
にこは大満足でした。

ついでに畑のミニトマトやキュウリももいでくれました。
畑を覆っていたメロンはだいぶ踏みつけられてしまいましたが。

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■節子への挽歌4359:枯れてばかりのイチジク

節子

育たないパピルスのことを書きましたが、もう一つ、育ててもなかなか育てられない木があります。
それは日本イチジクです。

いまの家に転居する前の家に、イチジクの木がありました。
私が、庭の片隅に植えました。
というのは、節子はなぜか果物がなる樹があまり好きではなかったのです。
それに、節子はイチジクも好きではありませんでした。

しかし、そのイチジクは大きく育ち、毎年、とても美味しい実をつけました。
それから節子はイチジクを食べるようになりました。
毎年たくさんの実がなりました。

いまのところに転居するときに、そのイチジクを挿し木で持ってきました。
ところが実をつけだす前に枯れてしまいました。
イチジクは強い木ですので、そう簡単には枯れないはずですが。
実際に、転居するときに挿し木したものを敦賀と高崎に送ったのですが、そのいずれもが毎年たくさんの実をつけています。
なぜかわが家のイチジクだけが枯れたのです。

そこで敦賀と高崎から挿し木を送ってもらい、またわが家でも植えようとしました。
根がついた段階で送ってもらいましたが、2回とも一冬越したのですが、また枯れてしまいました。
それで今年の春、また何本かの枝を届けてもらい、挿し木しましたが、再び全滅。
一体どうなっているのでしょうか。

娘が西洋イチジクの樹を買ってきてくれましたが、それは順調に育っています。
しかし私が欲しいのは、節子が好きだった、あのイチジクです。
いままた挿し木をしてもらっています。

長々と書きましたが、節子がいなくなってから、あるいは節子ががんになってからと言ってもいいのですが、わが家はなにか「いのちが吸い取られているような状況」になっていたような気がします。
私自身の気が大きく枯れていたのかもしれません。

悪いことばかり起こりました。
もういいかと思うほど、生きるのに疲れた時もあります。
私がそうであれば、私の周りもそうなるでしょう。
わが家から「いのち」が消えていき、ゴキブリさえもあまり見かけなくなりました。

こうした状況を反転させるのは、たぶん私が意識を変えなければいけないのでしょう。
生命力を蘇生させなければいけません。
畑を覆いだしている野草たちのように。

畑はもう大変なことになっています。
野生のセイジと種から育ったメロンが覆っています。

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■節子への挽歌4358:4代目のパピルス

節子

知人からパピルスを2枝もらってきました。

わが家にとっては4代目のパピルスです。
1代目は家族でエジプト旅行した後でしたが、庭の池の端で元気で育っていました。
しかし、3~4年後に枯れてしまいました。

それでまた新たに花屋さんから購入してきました。
たしか少し品種の違うものでした。
しかし池の手入れがあまりできずに、今度は12年で枯れてしまいました。

当時、池にはハスも育てていましたが、これも枯れてしまいました。
池の手入れができなくなってきていたのです。
節子がいるころにもう一度、パピルスを買ってきた気がしますが、それも育ちませんでした。

昨年、今回いただいた同じ人からパピルスを分けてもらったのですが、土に植えずにハスのような感じで育ててしまったために、失敗してしまいました。
それでもう一度、今度は枝を切ってもらい、それをもらってきました。
今度はうまく育てて4代目のパピルスにしようと思います。

わが家の最初の海外家族旅行はエジプトでした。
私以外は、なぜ最初の海外がエジプトなのだとあまり喜ばれなかったうえに、娘には会社をむりやり休ませてしまって恨まれましたが、結果的にはみんな喜んでくれました。
とてもいいツアー旅行で、案内をしてくれた中野さんとは今も交流があります。

最初のエジプト旅行がよかったので、その後も家族は中近東への旅行に抵抗感がなくなりました。
それで、ギリシアやトルコやイランには行けました。
節子との海外旅行はイランが最後でした。

そんなこともあって、パピルスはわが家では人気があったのです。
にもかかわらず育たなかった。
それにはそれなりの理由があるのでしょう。
だから節子がいなくなってからは、パピルスを見ても購入する気にはならなかったのです。

しかし、昨年、偶然に知人のところでパピルスを見て、その人に勧められて一株貰ってきたのです。
それがまた育たなかった。

今度はどうでしょうか。

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2019/08/10

■節子への挽歌4357:メダカの奇跡(2019年8月10日)

   節子

猛暑が続いています。
今朝は早く起きて畑に行こうと思っていましたが、寝苦しくて寝坊してしまいました。
目が覚めたら6時過ぎ。
もう30度近いのです。
行く元気を失ってしまい、さぼってしまいました。
最近の体調から考えて、あまり無理はしないほうがよさそうです。

玄関にメダカの水槽を移しました。
リビングだと日光が当たり、水温が上がってしまうからです。
そのおかげかメダカは元気です。

メダカに関しては、こんな事件がありました。

手賀沼の花火の日、花火を見に来てくださった来客の一人が、リビングの土間に置いてあった水槽の中にメダカがいたと帰り際に言い出しました。
そんなはずはないのです。
なぜなら、その水槽にはしばらく使っておらず、先日、メダカの水槽の掃除をするためにその水槽に2時間ほど、メダカを一時的にいれていただけです。
その後、いつもの水槽にメダカを戻しましたが、それが4日ほど前です。
その水を観葉植物に注いで、空にしようと思っていたのですが、忘れてしまっていました。
ですからメダカなどいるはずがないのです。

ところがその人は絶対にいたというのです。
それで戻ってもらい、いないでしょうと言ったのですが、彼女はここにいるというのです。
そのうえ、ミジンコもいるじゃないかというのです。
そこでじっと見つめてみました。

そうしたらなんと12ミリの細い何かが動いています。
目を凝らすと、確かにメダカの子どもです。
あやうくそのメダカを観葉植物の鉢に流してしまうところでした。
きっと水草を2時間ほど一時的に入れておいたときに、水草と一緒に移ったまま残ったのでしょう。
あわてて、メダカがいる水槽の水草を、その水槽に移しました。

この事件はいろんな教訓を含んでいます。
とりわけ、人は見たいものしか見ないことを示唆しています。
私はいるはずもないと見ようともせず、彼女は水槽があるから何かいるはずだと探したわけです。
大いに反省しました。

メダカは順調に育っています。

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2019/08/09

■節子への挽歌4356:また幸水の季節です

節子

猛暑が続いていて、いささか披露気味でまた生活のリズムが崩れ出しています。
昨日から少しずつ生活リズムを取り戻そう解いています。

昨日も今朝も1時間ほど畑にいっていました。
しかし作業はなかなか進みません。
7月の雨で畑はまた野草に覆われだしているのです。

今週は一応夏休みのつもりで、かなり世間とは没交渉にしています。
来週は世間が夏休みに入りますので、引き続き没交渉を維持できるでしょう。
それで生活リズムが回復できるでしょう。

すぎの梨園の幸水が出荷され出したそうなので、早速に伺って購入してきました。
節子が好きだった幸水です。

杉野さんのところも、いまはもう息子さんが中心になってきています。
もう10年以上通っていますが、幸せそうな家族経営です。
そこに嫁いできたのが、なんと全く別のことで数年前に知り合った人の姪御さんでした。
世間はとても狭いのです。

今年は7月が雨ばかりだったので心配していましたが、今年の幸水もとてもおいしいです。
梨を食べて元気を取り戻さなくてはいけません。

 

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2019/08/07

■茶色の朝サロン「最近、ちょっと気になることから政治を考える」のお誘い

先日、「参議院選挙結果に感じたことを自由に話し合う」サロンを2回、開催しました。
改めて、生活の視点で政治を話し合うことの大切さを実感しました。
その報告でも予告させてもらったように、中断していたBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を9月から再開します。
第1回は9月4日(水曜日)午後2時~4時です。
できるだけさまざまな立場の人に参加してもらえるように、曜日や時間帯は、毎回、変えていこうと思います。

難しい政治談議ではなく、むしろ生活感覚から政治を話し合い、そこから私たちの生き方や社会のありようを考えていければと思います。
それこそが、私は「政治を語ること」だと思っています。
政治と生活は直結していることを、私たちはもっと認識すべきではないかと思います。

再開1回目は、特にテーマを決めずに、参加者それぞれが気になっていることを気楽に話しあいながら、生活と政治のつながりをゆるやかに考えられればと思います。

ふだん、政治のことなど考えたことがない人こそ歓迎です。
最近ちょっと暮らしにくさを感じている人であれば、そんなことを話題にしてもらえば、うれしいです。
平日の午後ですが、よろしくお願いします。

なお、このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。
みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。
そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

〇日時:2019年9月4日(水曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「最近、ちょっと気になることから政治を考える」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2019/08/06

■節子への挽歌4355:豊かな生き方

節子

いささかハードな4日間が終わりました。
今日は在宅でゆっくりできますが、畑や庭の手入れがあるうえに、ユカがダウンしてしまいました。
先日、庭の大掃除を手伝ってもらったのと花火の来客のときに、ちょっと無理をしてしまったのが一因です。

節子が心配していたように、私は生活力や生きる意欲が弱いので、食事づくりがあまりできません。
いまこうして元気なのは、娘が同居してくれているからです。
ですからその娘がダウンすると途端に不都合が起こるわけです。
困ったものです。

それに昨夜は寝苦しい夜でした。
真夜中に、これまで使っていなかった扇風機を寝室に持ち込み、回すほどでした。
それでも寝苦しく、真夜中にまた起きてしまい、本を読んでいました。
今日の朝はさわやかな暑さなので、畑に行くには絶好なのですが、寝不足なので畑作業は自重しました。

昨日、渕野さんがサロンに参加したのですが、猛暑なので参加者は少ないだろうと私へのお土産に宇和ゴールドというジューシーオレンジを7つも持ってきてくれました。
ところが参加者が多かったので、余ったのは1つだけ、それをもらってきて、昨夜、節子に供えました。
そういえば、昨年も渕野さんは持ってきてくれました。

渕野さんは3年前に肺がんが発見されました。
私と一緒にあるイベントを開催する、その当日の朝でした。
手術は成功し、根治したのですが、死を意識する生き方に変わりました。
その後の生き方をフェイスブックなどでいつも見ていますが、実に豊かな生活になっています。

家族や友人や動物に囲まれ、地域活動に精出し、社会活動にも取り組んでいます。
趣味にしているたくさんのことにも、時間をかけています。
とても豊かな生き方です。
渕野さんを見ていると豊かな生き方のモデルをみているようです。

昨日は猛暑の中を重い荷物を背負ってきてくれました。
体調を崩していなければいいのですが。

 

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2019/08/05

■湯島サロン「今回の参議院選挙結果に感じたことを自由に話し合う」報告

2回目の「参議院選挙結果に感じたことを自由に話し合う」サロンには、猛暑にもかかわらず10人が集まりました。
前回に引き続き参加してくださった方もいます。
今回の選挙に、新しい政治の予兆を感じている人は少なくないようです。

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最初は、やはり投票率の低さが話題になりました。
投票を義務制にしたらどうかという発言もありました。
難しく考えずに、自分が興味を持っていることを主張している人を選ぶことを若者に勧めているという話もありました。
ひとつのテーマで立候補することの是非に関する話し合いも少しありました。

山本太郎さんのところでボランティア活動をした人も参加されたので、山本太郎さんの話も多かったですが、おおむね共感する人が多かったように思います。
私も、山本さんの動きに、「政治家の政治」ではない「新しい政治」の予兆を感じた一人です。
それで最後に、2年前のサロンで話した「政治のパラダイム転回」の話をさせてもらいました。

配布させてもらったメモを添付させてもらいます。
ついでにサロンで話題になった政策シンクタンクの話も2年前に話させてもらっていますので、ついでに添付させてもらいます。

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私は、上からの政治が下からの政治へと180度転回する予兆を今回感じたので、もう少し長生きしようと思ったほど、今回の選挙はうれしかったのです。

いろいろな立場の方がいたおかげで、さまざまな切り口や視点での話が出ました。
映画「新聞記者」も話題になりました。
知性と感性、政治と生活、言葉と実体、家政と国政、などという話も出ましたが、いろんな話題が出た割には、いつもと違って、あまり話が散乱しなかった気がします。
今回の選挙が、それぞれの政策や価値観の違いを超えて、多くの人に何か新しい動きを感じさせた結果なのではないかと思います。
その風が吹いているうちに、こういう話し合いの場が、いろんなところで始まればいいなと改めて感じました。

2時間の予定が結局また3時間になってしまいました。
こんなに盛り上がるのに、どうして政治を語る場が広がっていかないのか不思議です。

これを皮切りに、しばらく中断していたBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を9月から再開します。

難しい政治談議ではなく、生活感覚から政治を話し合い、政局的な政治から生活につながる政治を取り戻していく動きを起こしていければと思います。
そのためにも、政治に関する固定観念からもっと自由になる必要があります。
政治家たちに期待する政治ではなく、自分たちが主役の当事者としての政治を語る時代の幕開けです。

話したいテーマがあれば、ぜひご連絡ください。
話したい人がいたら、ぜひご連絡ください。
基本的に湯島のサロンは、話したい人に開放していきたいと思っています。

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■節子への挽歌4354:無垢な子どもたちに元気をもらっています

節子

昨日は湯島で箸ピーゲームの交流会でした。
猛暑にもかかわらず10人を超える人が集まりました。

湯島では毎週、いろんな集まりをやっています。
節子と始めたオープンサロンもそうでしたが、こういうサロン活動をやっていると社会の実相が実感できます。
湯島にはいろんな人たちが集まるので、いろんなことをなんとなく実感できます。
残念ながら社会は、どうも私には住みにくい方向に向かっていますが、時に救いも感じます。

昨日は、ほっとスマイルプロジェクトの主催でした。
私も、その発起人の一人ですが、このグループは、世界中に笑顔を増やしていこうというのがビジョンでした。
しかし今のところは、自分たちが笑顔になろうというところからなかなか外に向かっての活動へと移行しません。
そのためちょっと距離を感じているのですが、そういう状況もまた、いまの時代状況を象徴しています。

昨日は竹居家族が参加してくれました。
竹居さんと知り合ったのは、もう30年ほど前ですが、時々参加してくれます。
昨日は、自閉症気味の息子のこうへいくんと奥さんも参加してくれました。
帰り際に私はこうへいくんから少し褒められましたが、最近疲れ切っている私も、その一言に救われました。
最近、人間嫌いになりかけていますが、一昨日花火に来た子どもたちや昨日のこうへいくんのように、無垢な人間に会うと元気が出ます。

今朝、久しぶりにシャデラックスの「緑の地球よ どこに行く」を聴きました。
このレコードはもう絶版で、ネットでも出てきませんが、私が昔よく聞いたレコードです。
幸いなことに、彼らが心配していたほどに、地球はひどい状況にはなりませんでしたが、その代償にそこに住む人間は劣化してしまいました。
このレコードを聴くたびに、そう思います。

残念ながら、シャデラックスは解散し、このレコードに収録されている歌12曲はネットでは出てきません。
とてもいい歌なのに、残念です。
特に私が好きなのは、「小鳥が落ちた」です。

こんな歌です。

小鳥が落ちた 空の上から
小鳥は空を 飛ぶものなのに

いつか湯島でこのレコードを聴くサロンをやりたいです。

 

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■『お箸を使ったゲームで遊んでみよう~!』の報告

毎月第2火曜日の午後、『ほっとスマイルプロジェクト』の交流会を開催していますが、8月は少し趣向を変えて、国際箸学会で推進している「箸ピーゲームと箸リンゲーム」の体験会を公開スタイルで開催しました。
ゲストにこのゲームの開発者でもある国際箸学会会長の小宮山さんに来てもらいました。
奇しくも84日は、「箸の日」。

猛暑の中を10人を超える人たちが参加。
ほっとスマイルプロジェクトのメンバー以外も、家族参加も含めて。4人が参加してくれました。

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このゲームは、一言で言えば、一種のコミュニケーションゲームですが、一人で取り組んでも楽しいゲームです。
そのうえ、ゲームで楽しみながら箸の使い方・持ち方が上達する効用もあります。

今回の参加者の中には以前も体験し、実際に福祉施設などで活用している人もいますが、初体験の人もいました。
最初に小宮山さんから、箸ゲームの開発物語を少し話してもらった後、みんなでゲームを楽しみました。
まずは箸でピーナツを移動させる箸ピーゲームに取り組み、みんなで体験。
つづいて、5つの輪を、さまざまに箸を使いこなして移動したり形を造ったりのゲームです。

このゲームに本格的に取り組むのは、ほっとスマイルプログラムとしても初めてですが、箸ピーゲームとはまた違った面白さと効用がありそうです。
ゲームの体験中、笑いが絶えず、ほっとスマイルプロジェクトが目指す、ほっとスマイルな時空間が生まれました。
ともかく面白い、どうしてもっと普及させないのか、もったいないという声も少なくありませんでした。

最後に、体験感想を話しながら、どうしたらもっと広げられるか。あるいはさらに進化させられるかについて、話し合いました。
実践的な意見もたくさん出ました。
暑い中をわざわざ来てくれた、小宮山さんにも、少しお返しができました。
参加者の中には、早速、箸ゲームイベントを企画するという人もいましたが、これからの展開が楽しみです。

ほっとスマイルプロジェクトとしても、箸ゲームはひとつのプログラムメニューになるかもしれません。
箸ゲームやほっとスマイルプロジェクトに関心のある方はご連絡ください。

 

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2019/08/03

■節子への挽歌4353:以前のお隣さんの娘さんたちが花火を見に来ました

節子

花火に、昔、近くに住んでいたYさんの娘さんたちが来てくれました。
ご両親は来られませんでした。
私たちがここに転居した後、Yさん家族も別のところに転居したのですが、その後、節子のところに遊びに来てくれたそうですが、私は20年ぶりくらいの感じです。
娘たちと同世代ですが、子どもも連れてきてくれました。

ご両親の様子をお聞きしたら、お母さんはハワイアンの関係のイベントで今日も出かけていたそうですが、お父さんはちょっと軽い認知障害も起きているそうで、今日はご両親は留守番になったそうです。
私自身はあまりお付き合いはなかったのですが、私よりも年長です。
お母さんの方は、ハワイアンダンスをやっていて、以前は、手賀沼のイベントにも参加していました。
長女の方も一緒で、いまもやっているそうです。

次女の方は双子の娘さんと一緒に来てくれましたが、私の孫のニコと初対面であるにもかかわらずすっかりなかよくなって、突然3人で踊りだしたりしていました。
子どもたちを見ていると人間の本性がわかるような気がします。

転居前のところでは、もう一家族、節子が親しくしていた人がいました。
私たちよりも少し年上ですが、転居後もわが家の来てくれ、節子が亡くなった後は私のことも気にしてくださっていたようです。
最近はお互いに連絡が途絶えてしまっています。

節子がいたら、いまもなお交流は続いていたと思いますが、残念ながら節子がいなくなってからの数年は、私もほとんど人との積極的な交流ができなくなってしまい、とりわけ地域での付き合いは少なくなってしまいました。
今回は、娘との関係で花火に来てくれたのです。

みんな歳をとっていく。
そしていつかいなくなっていく。
私の場合、同世代よりも若い世代の人たちとの交流が多いこともあって、ついつい自分の加齢への認識が弱いのですが、そんなことを改めて感じました。

花火は1時間半。目の前が打ち上げ会場なので、火薬のにおいと音の響きを実感しながら、久しぶりににぎやかな花火を満喫しました。
みんな楽しんでくれたようで、よかったです。
節子がいたら、もっと盛り上がったでしょう。

長い1日でした。

 

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■湯島サロン「キャリアコンサルタントになり100歳まで現役で働く」報告

国家資格のキャリアコンサルタント養成講習を主催されている柴田さんにその紹介も含めて、100歳人生時代の働き方に関しても、問題提起していただきました。
他者のキャリア、つまり生き方にまでコミットしていくというキャリアコンサルタントという仕事を国家資格として認定していくという考え方に、いささかの違和感を持っていた私にとっては非常に関心のあるテーマでしたが、柴田さんの話を聞いて、少し考え方が変わりました。
両刃の剣であることは否定できませんが。

Shibata190802

柴田さんは、最初にご自分のこれまでの働き方を最初に話してくれました。
柴田さんは、自らの生き方を悩みながら問い続けることを起点において、他者と関わっていこうという姿勢を持ち続けてきた結果、現在、行き着いたのが「キャリアコンサルタント」なのだと感じました。
柴田さんは、クライアント対象の単なるビジネスとしてキャリアコンサルタントに関わっているのではないようです。
ましてや、国家資格ができたから、それに便乗してのキャリアコンサルタント養成講習ではないのです。

自らのキャリアとの関係においてこそ、他者のキャリアやアイデンティティに関わっていけると考えている私としてはとても共感できました。
柴田さんはまた「ナラティブ」という言葉も使いましたが、そこにも柴田さんの人間的な姿勢を強く感じました。

キャリアコンサルタントは、簡単に言えば、これまでの経験を活かし、人に役立つ専門職です。
経験は人によってさまざまですが、どんな人もそれぞれの人生の中で、その人ならではの体験知を持っています。
失敗が多ければ多いほど、その体験知は貴重です。

しかし、それだけではせっかくの体験知も、その人だけの中で終わってしまう。
それを他者や社会に開いていくためには、コミュニケーションの実践知識や傾聴や対話、あるいは共創というスキルが必要です。
何よりも自分が「何者であるか」を認識しなければいけません、
それによって、自分の体験知が、そして自らの人生が社会性を持ってくる。
柴田さんは、そこに「キャリアコンサルタント」の大きな意義を感じています。
「キャリアコンサルタント」は、個人の生き方を支援することを通じて、会社や社会もよくしていくはずだと確信しているのです。
とても共感できます。

なによりも、苦労して得てきた人生の体験知を他者に役立てることで、キャリアコンサルタントになったその人が一番元気になり、豊かになるはずです。
そしてそれこそが、100歳人生時代の社会を豊かにしていくことになるでしょう。
いろんな捉え方はあるでしょうが、「キャリアコンサルタント」の発想には大きな価値があると思います。

話し合いもいろいろと広がりましたが、みんなまだ「金銭思考の呪縛」から抜け出せないでいるような感じを受けました。
この資格を取得したら「食べていけるのか」という言葉も出ました。
食べるための金額の話も出ましたが、年収200万円未満の友人知人が多い私は、なんだかあまりにも額が高くてついていけませんでした。
人はパンだけでは生きていけず、バラも必要ですし、なによりも、自らの価値を実感できることが必要です。
人生において大切なのは、「食べること」ではなく「生きること」です。

資格を取ったらそれで仕事になるという発想も問題です。
最近話題になっている吉本興業事件で、ある人が、吉本の学校を卒業したらもう自分は芸人だと勘違いしている若者が増えていると言っていましたが、資格は資格でしかありません。
弁護士資格を取っても食えるとは限らないと参加者の一人が指摘していたように、資格を活かして「価値」を生み出すからこそ対価が得られるのです。
資格は必要条件であって十分条件ではありません。

しかも対価とはお金だけではありません。
その発想を変えないと社会は変わらず、100歳人生時代は貧しい時代になりかねません。
逆に、そこを変えれば、人生は豊かになっていくかもしれません。

キャリアコンサルタントの考え方はよいとしても、なぜそれが国家資格なのかという疑問もでました。
現在の「働き方改革」もそうですが、政府が主導するとどうもおかしくなってしまうことは少なくありません。
しかしだからと言って民間主導で進めてもうまくいくとは限りません。
事実たくさんの資格が、資格ビジネスになってしまっている事例も多いです。
大切なのは、その制度を私たちがどう活かしていくかです。

養成講座の費用が高いのではないかという意見もありました。
自分の人生を豊かにするための費用と考えれば、私は決して高いとは思いませんが、そこにもまたキャリアの捉え方や金銭観の違いを感じました。

今回の報告は、いつも以上に私の私見が中心になってしまいました。
柴田さんの趣旨に反しているところがあるかもしれません。
この報告の文責はすべて私にあります。

キャリアコンサルタントに関心のある方はぜひ柴田さんが主宰している志木サテライトオフィスのサイトにアクセスしてみてください。
説明や講座などの情報があります。
https://telework.to/career/shikaku

柴田さんが出版している関連図書もあります。
https://telework.to/company/shibata

 また機会を見て、掘り下げたいテーマです。

 

 

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■節子への挽歌4352:今日は手賀沼の花火です

節子

今日は手賀沼の花火大会です。
節子も私も花火が好きで、いまの場所に転居した理由の一つも花火がみられるのが理由の一つでした。
残念ながら、節子と2人で、しんみりと花火を見る機会はありませんでしたが。

花火はよく見に行きました。
最初は滋賀県の瀬田川の花火。
一緒に暮らしだしたのが、そのすぐ近くでした。

熱海や湯河原の花火も何回か行きました。
そしてすぐ目の前の手賀沼の花火。
お客様中心だったので、節子はあまりゆっくり見られなかったかもしれません。
そして最後は音だけの花火。

花火には毎回、いろんな人に来てもらいました。
いまではもうあまり付き合いのない人たちも少なくありませんが、懐かしい顔を思い出します。
節子がいなくなってからは、お客様をお呼びすることもなくなりました。

娘たちの友人たちは時々来ていますが。
今日も、娘たちの友だちが6人も来るそうです。
全員女性たちですので、私の居場所はありません。
屋上で見るのですが、狭い屋上なので10人も集まると大変です。
困ったものです。

節子は、おもてなしが大好きだったのですが、最近は持ち寄り方式になってきているようです。
そのため準備もあまりしないですむようですが、風邪気味の娘につきあって、買い物に行ってきました。

屋上の掃除をしながら手賀沼を見ると、花火の打ち上げの準備はもうできているようです。
南風なのがちょっと気になりますが、まあ花火日和と言っていいでしょう。

ユカがあいにく風邪気味のようで、ふらふらしながら準備をしています。
私も少しだけ手伝っています。
節子がいたら、きっといろいろと仕切っていたことでしょう。
その姿が思い出されます。

190803

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■湯島サロン「見えない世界を感じながら生きている人が構想する地上の楽園」のお誘い

夏の終わりに、いつもとは少し、いやかなり雰囲気の違うサロンを開催します。
私の友人が、長年その実現に取り組んでいる「地上の楽園」構想がテーマです。
その構想を題材に、私たちの生き方やいまの社会のありようを、ちょっと視点を変えて考えられればと思っています。

その「地上の楽園」とは次の3つが実現されることです。
 * 人種を問わず、安心して笑い合い、交流できる。
 * 人間の本質である「創造性」が発揮できる。
 * 人間としての尊厳が保たれている、正当に評価される。

そんな社会を目指して孤軍奮闘しているのが、埼玉県の寄居で、異文化異次元交流カフェ“エルモット”を運営している内藤明子さんです。

内藤さんが考えていることをまとめたものを添付します。
Photo_20190803142301
これを読んで、どこかに共感することがあれば、ぜひご参加ください。
もう少し詳しく知りたい方は、内藤さんのホームページをご覧ください。
http://ermot.jp

ヒーリングとデザインが彼女の長年の仕事ですが、実際には彼女は「見えない世界を感じながら生きるライフスタイル」を実践している人です。
ちょっと現世から逸脱した生き方や世界観なので、なかなか彼女の思いは広がらず、構想もまだ端緒についたところです。

いまのテンポだと、私の今生には間に合わない恐れがありますので、湯島のサロンでみなさんにも聞いてもらい、彼女にアドバイスしてやってもらえればと思います。
ですから、今回は、自分とは違う世界の人だなと思う人は参加をお勧めしません。
基本的には、内藤さんのビジョンに共感した人を対象にしたいと思います。
特に仲間になりたいという人は大歓迎です。

どんなサロンになるか、かなり心配ですが、まずは内藤さんに30分ほど自らのビジョンと実際にやっていること・やろうとしていることを紹介してもらい、後半は私がファシリテーター兼メディエーター役になって、内藤さんの世界を掘り下げたいと思います。

もし好評であれば、寄居でのリトリートサロンも企画したいと思っています。
どなたでも歓迎ですが、心を思い切り開いて参加してもらえるとうれしいです。
いつもと違う秋を迎えられるかもしれません。

〇日時:2019年8月25日(日曜日)午後1時半~3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「見えない世界を感じながら生きている人が構想する地上の楽園」
*参加される方は、添付のPDFをあらかじめお読みいただき、できれば内藤さんのサイトも読んでおいてください。
〇話題提供者:内藤明子さん(異文化異次元交流カフェ“エルモット”運営者)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

 

 

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2019/08/02

■権力は腐敗する、のではありません

猛暑なのでできるだけ外出を控えていましたが、今朝は畑に行ってしまいました。
暫らく行けていなかったので、野草が猛威を振るっているのです。

 早朝1時間ですが、格闘してきました。
帰宅してシャワーを浴びましたが、汗が止まりません。
汗が異様に出るのは熱中症だと娘に言われ、しばらく冷房のある部屋で静かにしていました。
ついでに録画してあったテレビドラマを観ました。
「サイン」。法医学者のドラマです。

 こんな会話が出てきました。
「権力は腐敗する」
「組織が人を腐敗させる」

 私も以前はそう思っていました。
しかし、たぶんこの言葉は間違っていると最近は考えるようになりました。
いまはこう思っています。
腐敗が権力を生み出す。
人が組織を腐敗させる。

権力を避けている山本太郎さんの生き方には学ばされます。
権力とは腐敗の同義語です。
組織も権力と同義語かもしれません。

 念のために言えば、権力や組織を否定しているのではありません。
腐敗と同義語であることをしっかりと認識しておくことが大切だということです。
権力が腐敗する、のではなく、権力とはそもそも腐っているのです。

ちなみに、テレビドラマ「サイン」は面白いです。
組織の上に立たないと自分の思いは実現できないという「出世主義者」と出世よりも信念の実現を目指している人との対立が、物語の軸になっています。
来週で終わるようですが、そこでの人間模様に共感しながら観ています。

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■節子への挽歌4351:寝苦しい夜とあたたかな朝

節子

昨夜はさすがに寝苦しい夜でした。
私の寝室にはクーラーはありませんので、暑い夜は苦手です。
おかげで今日は5時から起きています。

今日は午後から湯島でミーティング、夜はサロンです。
朝は涼しいので畑に行こうかと思いましたが、最近の体調を考えてやめました。

昨日、友人がフェイスブックに訃報記事を書いていました。
有機農業を誠実に取り組んでいた30代の女性が、熱中症で畑で倒れていたというのです。
昨年、私も2回ほどおかしくなりましたので、注意しなければいけません。
早朝の畑は、気持ちがいいのですが、今日は我慢しておきましょう。

朝のさわやかさは感じますが、すでに温度は30度近くです。
体感と温度計とにずれを感じますが、湿度もとても高そうです。
涼しい感じがあるのに、汗ばむ感じもある。
高齢になると感覚もいささか不調になってくるのでしょう。

しかし、朝の陽の光には「あたかさ」を感じます。
わが家は少しだけ高台のため、この部屋から隣家の屋根が見えるのですが、朝陽が創り出す朝の様子には「あたたかさ」があります。
鳥たちもまだ静かで、自動車の音もさほどありません。
この雰囲気がとても好きです。

本当は今日も猛暑予想で、すでに猛暑は始まっていますが、視覚的には穏やかな「あたたかい」朝です。
世界は、自分の思いでいかようにも見えるのかもそれません。

と書いていたら、やはり畑に行きたくなりました。
娘は昨日から体調を崩して、まだ寝ています。
起きる前に戻ってきたら、大丈夫でしょう。

さて無理をしない程度に、畑に行って野菜に挨拶をしに行きましょう。

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2019/08/01

■節子への挽歌4350:結局ミニリトリートは先延ばしです

節子

今日も猛暑でした。
この3日間、ミニリトリートの予定でしたが、世間との付き合いも絶てずに、猛暑の中で汗を流していました。
ミニリトリートは先延ばしです。

しかしこの3日間はだれにも会わず、やっていたのは畑と庭の整理でした。
メールは毎日見ていましたが、働きかけはほとんどしませんでした。

主日入院した武田さんからは、天からまだ生かされるようだとショートメールが入りました。
手術は成功し、また会えるようです。
よかったです。
彼とはまだ論争の決着がついていませんから。

家の裏側は普段はほとんど行くことはないのですが、久しぶりに行ってみたら、すごいことになっていました。
かつてはここにも花木を植えていましたが、ナニワイバラを除いてすべて枯れてしまいました。
ナニワイバラは棘がすごいのですが、水がなくても元気です。
木が枯れて後には、鳥の糞から生えてきた名前も知らない木が生えてきていましたが、これはすべて切り取りました。
あまり日当たりはよくないのですが、ここを少し整理して、庭の植木鉢を移そうと思います。
しかしこれまた大仕事です。

昨日はちょっと頑張りすぎたので、今日は1時間単位で休みながら作業をしましたが、あまりにも放っておきすぎたので、なかなか整理ができません。
リトリートにはなりませんでしたが、汗をかくことで精神的には少し落ち着きました。
しかし、すっきりしたわけではなく、相変わらずいくつかの重荷が覆いかぶさっています。
困ったものです。

猛暑はもうしばらく続くようです。

 

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■「参議院選挙結果に感じたこと」を話し合うサロンのお誘い

すでにご案内していますが、85日の午後、湯島で、「今回の参議院選挙結果に感じたこと」を自由に話し合うサロンを開催します。
一度、開催しましたが、平日の参加を希望された方がいたので、もう一度、開催します。
また今回は、その後、選挙以後、起こっていることも話題にしたいと思います。

私は、今回の参議院選挙で、「政治家の政治」ではない「新しい政治」の予兆を感じましたが、その一方で、政治の終焉の予感もしました。
そしてそのいうれもが実際に動き出したような気もします。
みなさんはどう感じたでしょうか。

なおこれを皮切りに、しばらく中断していたBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を9月から再開します。
BMS(茶色の朝)サロンのことは次をご覧ください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-dd3c.html

難しい政治談議ではなく、むしろ生活感覚から政治を話し合い、そこから私たちの生き方や社会のありようを考えていければと思います。
それこそが、私は「政治を語ること」だと思っています。

今回は、いわばそのキックオフ編です。
お時間が許せば、ご参加ください。
政治と生活は直結していることを、私たちはもっと認識すべきではないかと思います。話し合いのテーマがあれば、ぜひご連絡ください。

〇日時:2019年8月5日(月曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「今回の参議院選挙結果に感じたこと」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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