■節子への挽歌4359:枯れてばかりのイチジク
節子
育たないパピルスのことを書きましたが、もう一つ、育ててもなかなか育てられない木があります。
それは日本イチジクです。
いまの家に転居する前の家に、イチジクの木がありました。
私が、庭の片隅に植えました。
というのは、節子はなぜか果物がなる樹があまり好きではなかったのです。
それに、節子はイチジクも好きではありませんでした。
しかし、そのイチジクは大きく育ち、毎年、とても美味しい実をつけました。
それから節子はイチジクを食べるようになりました。
毎年たくさんの実がなりました。
いまのところに転居するときに、そのイチジクを挿し木で持ってきました。
ところが実をつけだす前に枯れてしまいました。
イチジクは強い木ですので、そう簡単には枯れないはずですが。
実際に、転居するときに挿し木したものを敦賀と高崎に送ったのですが、そのいずれもが毎年たくさんの実をつけています。
なぜかわが家のイチジクだけが枯れたのです。
そこで敦賀と高崎から挿し木を送ってもらい、またわが家でも植えようとしました。
根がついた段階で送ってもらいましたが、2回とも一冬越したのですが、また枯れてしまいました。
それで今年の春、また何本かの枝を届けてもらい、挿し木しましたが、再び全滅。
一体どうなっているのでしょうか。
娘が西洋イチジクの樹を買ってきてくれましたが、それは順調に育っています。
しかし私が欲しいのは、節子が好きだった、あのイチジクです。
いままた挿し木をしてもらっています。
長々と書きましたが、節子がいなくなってから、あるいは節子ががんになってからと言ってもいいのですが、わが家はなにか「いのちが吸い取られているような状況」になっていたような気がします。
私自身の気が大きく枯れていたのかもしれません。
悪いことばかり起こりました。
もういいかと思うほど、生きるのに疲れた時もあります。
私がそうであれば、私の周りもそうなるでしょう。
わが家から「いのち」が消えていき、ゴキブリさえもあまり見かけなくなりました。
こうした状況を反転させるのは、たぶん私が意識を変えなければいけないのでしょう。
生命力を蘇生させなければいけません。
畑を覆いだしている野草たちのように。
畑はもう大変なことになっています。
野生のセイジと種から育ったメロンが覆っています。
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