■節子への挽歌4375:「見る」という意識は、「見えないもの」の切り捨てなのかもしれません
節子
昨日は、湯島で「見えない世界を感じながら生きている人が構想する地上の楽園」のサロンを開きました。
友人の内藤さんの構想のお披露目会です。
内藤さんは、節子が逝ってしまった後に知り合った人です。
ある時に、「啓示」を受けて以来、そのビジョンを言語化してきていますが、なかなか言語化できずに苦労しています。
昨年頃から、何とか言語化できたと時々湯島に来て語ってくれます。
私も一時期、「言語化」とか「ロゴス」とかに共感した時期がありましたが、最近は、それはほんの第一歩に過ぎないという気がしています。
というよりも、言語化とは見えない部分を切り捨てることかもしれません。
私が志向している「コンセプトデザイン」は、見えないものの可視化を目指していますが、それは本当は、「見えないものの存在の意識化」ではないかと思っています。
「見る」という意識は、「見えないもの」の切り捨てなのかもしれません。
そういう思いにいたったのは、この挽歌を書き続けているおかげです。
この挽歌を通じて、私はずっと「存在しないものの存在」を前提にして生きつづけています。
とりわけ意識しているわけでもなく、難しく考えているわけでもなく、それが自然なのです。
そして、そもそも「見えないもの」ということを意識することが「見えないもの」を生じさせることがよくわかったのです。
見えるか見えないかは瑣末なことなのかもしれません。
昨日のサロンには、私とは全く面識のない人が8人参加しました。
みんな「見えない世界」を感じて生きている人たちのようでした。
その人たちの言動には気付かされることが少なくありませんでした。
たくさんの気付きをもらって、昨日はちょっと疲れました。
| 固定リンク
「妻への挽歌18」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌4500:東尋坊からのお餅(2019.12.28)
- ■節子への挽歌4499:歯医者さんと節子(2019.12.27)
- ■節子への挽歌4498:年末のお接待(2019.12.26)
- ■節子への挽歌4496:年末の相談つづき(2019.12.24)
コメント