■パンのためのバラ
あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の中止が波紋を呼んでいます。
しかし残念ながら、またうやむやのうちに終息し、事態は一歩進むような気がします。
もちろん私にとっての悪い方向での前進ですが。
あいちの問題に関してはすでに多くの議論がありますので、議論は繰り返しませんが、芸術監督の津田さんは、「社会の自己検閲」への問題提起を目指したと言っています。
その考えには大賛成ですが、方法には大きな違和感があります。
もしそうであれば、社会の現場に降りてきて、その問題をこそ、考える動きを創り出すことをなぜ目指さないのか、です。
同じような事件や問題はさまざまなところでこれまで繰り返し起こっていますが、そうしたことをつないでいく地道な活動はあまり広がっていません。
そこに大きな問題を感じます。
そして、そうした背景には、現代のアートがあまりにも、「道具」的な存在になってしまった現実を感じます。
そんなこともあって、先週、プレハーノフの「芸術と社会生活」を読み直しました。
プレハーノフは、「芸術と社会生活については、「芸術は人類意識の発達、社会制度の改善をたすけるものでなくてはならない」と「芸術はそれ自身が目的である」という、2つの全く反対の考えがある」と書きだしています。
他の目的を達する手段に芸術をしてしまうことは、芸術的作品の価値を低下せしめるものである、という考えもありますが、そもそも「価値」というのは、社会があればこそ生ずる概念です。
芸術の持つ社会への影響力は極めて大きいことは間違いありません。
社会が豊かになってきた大きな要因の一つは「芸術」でした。
「人はパンだけでは生きていけない。バラも必要なのだ」。
これはウィリアム・モリスの考えを国分功一郎さんが表現し直した言葉ですが、パンだけを目指す生き方に向かっている私たちが思い出すべき言葉だと思っています。
ところがいまでは、バラもまたパンのためのものになりつつある。
最近のアートは経済主義に向けて大きく変質したと思っています。
あるいは、政治(正確には金銭経済の下部組織としての政治)の道具に取り込まれつつあります。
そこに大きな失望を感じます。
アートには大きな力がありますが、それは誰かに私用されるべきではありません。
あるいは、金銭経済の道具にされるべきでもありません。
私がとても素晴らしいと思っている事例は、ラマラ・コンサートです。
前に私のホームページで何回か紹介したことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/09/post_5897.html
アートでできることはたくさんあるでしょう。
この自由が失われそうな時代に、なぜアーティストの人たちが大きな動きを創り出さないのか。
アーティストの世界には、山本太郎さんのように、人民の中に飛び込んでくる人はいないのでしょうか。
才能のある人が、その才能をどこに向けて発揮するかは、とても大切なことだろうと思いながらも、才能がない私としては悔しいばかりです。
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