■節子への挽歌4407:生と死は生命の両面
節子
今日はがんばって庭の整理を始めました。
ところが、何かに腕を刺されてしまい、いたくて仕方がありません。
自然と立ち向かうということは、たぶん誰かを害しているのでしょう。
その生命が、自衛のために私を攻撃したのでしょう。
いや、攻撃というよりも、その生命にとっては、それが自然の行動だったに違いありません。
まさに、生と死は同時に存在する生命の両面です。
畑作業をやっていると、そのことがよくわかります。
人はみな、だれか(人間とは限りません)の死に支えられて生きている。
そのことが実感できれば、生の捉え方が違ってくるでしょう。
「生きる意味」などという問いもでてはこないはずです。
自らの「いのち」を勝手に終わらせることなど考えもしなくなるでしょう。
そんな気がします。
ところで、いまわが家には生命が集まっているようなので、イチジクと歯医者さんからもらった観葉植物を植え替えました。
まあ今のままでもいいのですが、いずれも鉢が小さいので、大きな鉢に植え替えました。
節子と違い、植え替えがうまくないので、それでだめにしたこともありますので、今回は慎重にやりました。
さてうまくいくといいのですが。
うまくいったらイチジクは来春には地植えします。
池の掃除までには行けませんでした。
午前中出かけていたので、始める時間が遅れたのとちょっと疲れました。
最近は疲れやすいのが問題です。
今日は娘の誕生日だったので、ケーキをご馳走になりました。
すっかり忘れていました。
困ったものです。
| 固定リンク
「妻への挽歌18」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌4500:東尋坊からのお餅(2019.12.28)
- ■節子への挽歌4499:歯医者さんと節子(2019.12.27)
- ■節子への挽歌4498:年末のお接待(2019.12.26)
- ■節子への挽歌4496:年末の相談つづき(2019.12.24)
コメント