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2019/09/12

■節子への挽歌4393:便利な社会の脆弱さ

節子

先日の台風は、我孫子はさほどひどくはなく、わが家はほとんど被害はありませんでした。
しかし、房総方面は強風がすごかったようで、電柱倒壊などで今もまだかなり広域で停電が続いています。
昨日あたりからその実状がテレビで報道され出しています。
そのため、昨日から心配して電話してくれる人が増えてきています。

そのことに感謝します。
いろんな人たちのあたたかな気遣いの中で、私は生きているわけです。

今日も、なんと福井の東尋坊の茂さんからも電話がありました。
千葉と言っても、北西部に位置するわが家のあたりは、停電もなく、雨風の被害もさほどではなかったのですが、遠方の人には、「千葉」といえば、このあたりも含めて、千葉なのでしょう。
いろんな人が心配してくれるので、このあたりは大丈夫でしたとフェイスブックに書き込みました。

しかし、房総方面の被害は甚大です。
いまもまだ停電が続き、倒壊した電柱で道路が遮断され、水も出なくなってしまっている地域がまだかなりあるようです。
停電でエアコンが使えなくなったための熱中症の死者も出ています。
便利な社会は、一転して、生きるのさえ困難な状況へと急転することがあることを改めて思い知らされました。
便利さに慣れることの恐ろしさを忘れてはいけません。

私と節子がシェアしていたことの一つは、便利さへの依存への懸念でした。
頭で考えたことではなく、私たちには生理的に、便利さへの不信感がありました。
節子ときちんと話し合ったことはありませんが、そんな気がします。
しかし、いまの私がそうであるように、加齢とともに、機械に依存する傾向は強まりますので、節子がもし今も元気だったら、どうなっていたかはわかりません。
それに、わが家に自動車を持ち込んだのは節子ですし、食器洗浄機を導入したのも節子でした。
節子にも私にも、そうした矛盾する性癖がありました。
もっとも、節子は食器洗浄機をほとんど使用せず、娘たちもその文化を継承しています。

私は、普段は生活力がほとんどありませんが、いざとなったらたぶん生き延びられるタイプです。
いささかそれを過信しているところがありますが、生きる工夫をすることに関しては、まあそれなりに考えられる素地はあります。
ただ、節子がいない状況では、果たして私のそうした本分が発揮できるかどうかは、いささかの不安はあります。

節子がいたら、どんな状況になっても、生きつづけられたでしょう。
おそらく、節子も同じように、思っていた。
その片割れが不在となった時、どうなるか。

話がおかしな方向に来てしまいました。
いずれにしろ、台風の被害も少なく、便利さに裏切られることもなく、ほどほどの便利さを享受しながら、基本的にはたくさんの人に支えながら、今日もまたいい1日でした。

未だ停電しているところが一刻も早く復旧するように、祈りたいです。

 

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