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2019/09/13

■社会保障への懸念

こんな記事が目につきました。

安倍首相は第4次内閣発足の記者会見で、社会保障改革について「社会保障全般にわたる改革を進める。令和の時代の社会保障の制度を大胆に構想していく」と述べ、全世代型社会保障検討会議検討会議の初会合を来週にも開催する考えを示した。

社会保障制度の構想変革を安倍政権の手に任せることに、大きな不安を感じます。

それはともかく、最近、社会保障政策にもいささかの懸念を感じています。
湯島では、「贈与」をテーマにしたサロンを継続的にやっていますが、「贈与」の概念が大きく変わりだしているのが気になっているのです。

フランスの人類学者のモーリス・ゴドリエが20年以上前に書いた「贈与の謎」と言う本があります。
難解で、私にはあまり消化できないのですが、その本を最近また読み直しました。
その本にこんな文章が出てきます。

日本では、贈与交換の慣行が千年紀にもわたって伝統的に社会のあらゆる階層で尊重され、各人の人生で重要な役割を演じてきた。人生の大事件(誕生、結婚、家の新築、死亡等)や新年、中元、歳暮には、贈り物が欠かせなかった。

つまり、贈与は「人のつながり」と一体なのです。
私がイメージする贈与の基本はこういうことなのですが、最近はこの慣行もなくなりつつあります。
代わって盛んになっているのが、社会保障です。

社会保障は、国家による国民への贈与です。
それは国民によって形成されている国家の重要な役割です。
しかし、注意しなければいけないのは、それは個人の事情とは無縁に脱人格的に行われがちなことです。

モースの「贈与論」以来、贈与は返礼を義務化するとされています。
ゴドリエは、「受贈者は、贈与者の債務者となり、ある程度まで、少なくとも与えられた物に《お返し》をしない間は従属していることになる」と書いています。
つまり、贈与は「負債」を創出するのです。

いいかえれば、社会保障は国民を負債者にしていくというわけです。
とても考えさせられる話です。
負債者は、なかなか主体的・自立的に言動できなくなりがちです。

NPO活動をしている友人からこんな主旨のメールをもらったことがあります。

昨今の社会では、統治者から評価されることを自らの地位の向上や実利と考えて、統治側に寄ることをいとわないことが多い。NPOでも同じことが起こります。行政の末端(委託事業、委員会メンバー等)になったほうが有名になり経済的に安定します。

その方は、そうした誘惑に抗いながら、真摯に活動されていますが、個人としてはともかく、組織としては難しい問題でしょう。

「贈与の謎」にはこんな文章もあります。

社会を再構成し、溝を埋め、亀裂を修復するのが国家の役目のはずだが、国家はその仕事を十分に果していない。まさにこの矛盾と無能の結節点から、今日新たにあちこちで、だんだんと贈与に訴える状況が生じてきている。
この状況から、広く贈与と分配の的となる《住所不定の》個人が増えている。贈与の需要が供給を呼びおこし、ついで組織化されはじめる。思いやり食堂からスーパーマーケットの募金まで、寛大で連帯愛に満ちた潜在的贈与者に、直接現金ではないまでも、そのお金で買ったものや自分の消費に予定していたものの分配を要請する無数の《慈善》組織が現われてきた。

そういう状況は、いまの日本でも広がっています。
そして、それは政府による「社会保障制度」とも深くつながっています。

社会保障といわれると、その内容も吟味せずに、多くの人は歓迎します。
しかし、それによって失うものも忘れてはいけません。

ちなみに、私が大切にしている「布施」は、「純粋の贈与」とも言われています。
私の理解では、贈与と布施は主体が違います。
「贈与」は贈与者が主役ですが、「布施」は受贈者が主役です。
行為の意味は真逆なのではないかと思いますが、なかなか見えてこないことが多いのです。



 

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