« ■二酸化炭素による地球温暖化に関する私の変節 | トップページ | ■節子への挽歌4416:引き落としができないと連絡が来ました »

2019/10/04

■節子への挽歌4415:朝のさびしさ

節子

朝起きたときに、節子がいないのが、私がどうもすっきりしないことの理由なのかもしれないと今朝気づきました。
先日、那須に行ったときには、節子はいなかったけれども朝目覚めたときに、一緒に一日を過ごす仲間がいたので、目覚めがよかったのかもしれません。
自宅での朝も、同居している娘がいるのですが、娘はやはりちょっと違う存在です。
それに自宅には節子がいるはずなのに、姿も見えず声のやり取りもできない。
自宅には、やはり伴侶がいないと何かが欠けている気分で、ともかくさびしい。
外出先の朝は、節子は自宅にいると思えるのでさびしさはないのです。

自宅での私の朝は、仏壇に水を供え、節子に挨拶してから灯明をつけて線香をあげて、般若心経を唱えるところから始まります。
それまでの時間が、いつもどうもモヤモヤした不安感があるのです。
その朝のお勤めが終われば、寂しさも消えて動き出せるのですが。

朝のさびしさは節子がいなくなってからずっと変わることはありません。
伴侶を喪って10年もたてば、気持ちは変わるだろうと思う人もいるでしょうが、気持ちが変われる人はたぶん1~2年で変われるのでしょう。
逆に1~2年で変われなければ、たぶんもう変われない。
私の小学校の時の同級生は、夫を亡くしてもう20年ですが、今もって全く気持ちは変わらないそうです。
時が止まってしまった。
私も同じような気持ちです。

そうした「さびしさ」に、さらに何かが加わると、もう気力がなえてしまう。
今日はまた大きく気持ちの萎えることがありました。
試練の嵐は、なかなか吹き止みません。

困ったものです。

 

|

« ■二酸化炭素による地球温暖化に関する私の変節 | トップページ | ■節子への挽歌4416:引き落としができないと連絡が来ました »

妻への挽歌18」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ■二酸化炭素による地球温暖化に関する私の変節 | トップページ | ■節子への挽歌4416:引き落としができないと連絡が来ました »