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2019/10/03

■説Kへの挽歌4414:安楽死

節子

相変わらず不思議な気持ちでの時間を過ごしています。
それに最近は、私ではありませんが、周辺に死の気配がかなり色濃くあります。
死は決して見えない世界の話ではないのです。

昨日もまた遺産を預けたいという電話がありましたが、預けられても困ります。
お金ほど人にとっては有害なものはありません。
かくいう私でも、お金にはおそらく目がくらむでしょう。
丁寧に辞退しましたが、当人も困っているかもしれません。
お金はないのもありすぎるのも困ります。

突然死の可能性を医師から宣告されている友人もいます。
入退院を繰り返している友人もいる。
医師からあと1か月と宣告されている知人もいます。
すでに医師からは何回も見放されながらも奇跡的に生きている友人もいます。
私自身の年齢のせいなのでしょうが、周辺にはそうした話題には事欠きません。

しかし若者の安楽死となると衝撃的な話題です。
私の若い友人が、いま女性と付き合いだしているそうなのですが、2人をつなげているのは、最後は一緒に安楽死で人生を終えようという合意なのだそうです。
これだけでは、ロマンティックなラブストリーに聞こえますが、よくよく聞いてみるとどうもそうでもないのです。
2人とも生きることにそう未練を持っていないようで、安楽死も日本で難しければスイスに行ってもというような考えで、そんな先を考えているわけではないというのです。

その話を聴いた時にはショックでした。
なぜこんな自由で幸せそうな若者がそんなことを考えるのか。
節子が一生懸命に生きようとしているまさにその時に、ある友人からいま自殺しようとしていると電話があった時のことを思い出します。
ちなみの祖の若者は自殺は思いとどまった今も元気です。

安楽死は私には共感できません。
しかしつい先日にも安楽死の話をききました。
私と同世代の女性から、安楽死を日本でも認められるような活動をしているので協力してくれないかといわれたのです。
即座にお断りしましたので、なぜ彼女がそういう活動をしているのか聞けませんでした。
まさかその直後に、安楽死したという若者に会うとは思ってもいませんでした。
今度会ったら聞いてみようと思いますが、安楽死は決して一部の人だけの関心事ではないようです。

節子は、さほど苦しむことなく最期を迎えましたので、安楽死などは想像したこともありませんでしたが、もし節子が苦しい数日を過ごしたのであれば私の意見も変わっていたかもしれません。
これまでは「安楽死」は、私には論外の課題でしたが、少し考えてみようと思いだしています。

死に関する本も何冊か読みましたが、私にはどれも退屈でした。
いま、死の気配を感ずるようになると、私よりも若い世代の書いた死の話は現実性を全く感じません。
自然に任せれば、死とは本来、安楽なのではないかと思いだしています。
ですから「安楽死」を望むことは、生き続けることを望むことなのです。

「安楽死」願望の若者とはいつかゆっくり話したい気分です。

 

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