■節子への挽歌4421:新米の季節
節子
新米が届きだしました。
この季節にはいろんな人たちが新米を送ってくれます。
新米が届くとお礼の電話をします。
ところがだんだんみんな高齢のためにお米づくりを自分ではやらなくなってきています。
若い世代に代わりにつくってもらったり、あるいは購入したりして、わが家に送ってくれるのです。
台風が近づいているので、畑を見に行きました。
強風で何かが飛び立って近隣の家に迷惑をかけてはいけません。
そのついでに野菜を見たら、トマトやナスやピーマン、そしてピーナツかぼちゃが成っていました。
収穫してきましたが、最近は何の手入れにも行っていませんでした。
こうした体験を重ねると、農作物は天からの授かりものだと思えてきます。
みんなにおすそ分けしなくてはいけないという気分が自然に生まれてきます。
自分のものでもありみんなのものでもあるという、ゲルマン法理の「総有」の感覚がよくわかります。
「総有」は、正確にはちょっと違う意味でしょうが、私は同じ感覚で理解しています。
私のものであって、みんなのもの。
そういう感覚があれば、多くのものを持つことは負担でもあります。
高齢になったために、自分では米づくりできなくなった人は、いずれもちょっとさびしそうでした。
自分で汗して育てた新米だからこそ、私に食べさせたかったのでしょう。
でも誰か育てようと、贈ってきてくださった方のお気持ちはきちんとつたわってきます。
ありがたいことです。
さて私には何ができるでしょうか。
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