■廃棄物の山の向うに見えること
同じ情景を見てもどうも、少し違う世界を見てしまうことがあります。
正確に言えば、見ている世界の向こうに見えてきてしまうことがある。
この頃、むしろその「向こうの世界」のほうが強く見えてしまうようになってしまいました。
困ったものです。
そうなると、被災者や被害者、あるいは当事者に、なかなか「寄り添う」ことができなくなってくる。
いや、そもそも「寄り添う」と一体何なのだろうかとわからなくなってくる。
昨日また「寄り添う」という言葉を何度か聞いていて、考えてしまいました。
たとえば、台風の被災者が出す廃棄物の山がテレビによく出てきます。
被災者は大変だなという思いと同時に、どうしてみんなこんなにいとも簡単に捨ててしまうのかという思いが出てきてしまう。
こんなことを言ったら、実際に被災した人にはとても「寄り添えない」し、みんなからもひんしゅくを買うでしょう。
そんなことを考えている暇があれば、現地に行って、かたづけを手伝えと言われそうです。
でも、廃棄物の山を見ていると、廃棄されたものたちの悲しさが伝わってきます。
もっと生かしてやれないものなのか。
いや、きちんと大事に使われていたのだろうか。
たとえば、水につかった畳の山がある。
乾かして燃やして畑に戻してやれないのか。
なんで水につかっただけで壊れてしまう家電製品を大量生産しているのか。
むかしの人もこんな感じで、物と付き合ってきたのか。
「断捨離」とか「捨てる技術」などということがはやっているようですが、私にはとても共感できる言葉ではありません。
「物との関係性」を大事にしない人は、たぶん「人との関係性」も大事にはしないでしょう。
それに気づけば、そう気安く、「断捨離」とか「捨てる技術」とか言えないのではないか。
前から書いているように、私はそろそろみんな「消費者」から卒業して「生活者」になっていく必要があるのではないかと思うのです。
廃棄物の山を見ていると、何とも情けない。
これでまた「経済成長」のタネが生まれたと思っている人の顔まで見えてきてしまう。
台風襲来の前にスーパーから食料がなくなった写真をアップしましたが、廃棄物の山は、それとつながっているような気がします。
生き方を問い直したいです。
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