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2019/10/04

■贈与の暴力性

湯島のサロンでは「贈与」をテーマにしたサロンも何回か行ってきましたが、基本的には「贈与」に好意的なイメージをおきながらサロンしてきました。
ところが、むしろ問題は「贈与の暴力性」かもしれないと思いださせたのは、今回の関西電力の事件でした。

事件の概要は改めて書く必要はないと思いますが、高浜町の元助役が関西電力の経営幹部に巨額な「贈与」を行い、その贈与を断りきれずに関西電力の経営者たちが元助役に使役されてきたという事件です。

その事件の釈明を求められての関西電力経営陣の記者会見は、こうしてみんな人間を辞めていくのだろうなと思わせるものでした。
彼らの発言は、自らを失った抜け殻の人間もどきの発言でしかありませんでした。
自分たちが何をやったのかがわかっていないのです。
私には同情を禁じ得ませんでした。

たとえば、「金品を渡された者は受け取る理由はないと考え、返却を申し出たが、『ワシを軽く見るなよ』などと激高されてしまった」、と彼らは言っています。
つまり彼らは元助役を重く見ていたわけです。
だから家族の安全までも驚かされながらも、彼らを裏切ることができないほど、元助役グループに服従していたわけです。

私の判断基準からすれば、明らかな「ゾンビ族」です。
昨今の日本ではゾンビ族はめずらしい存在ではないので、驚きはしませんが。

たった数億円、時には数十万円のお金で自分を売ってしまうほど人間は弱いのでしょうか。
たぶん弱いのです。
その理由を、マルセル・モースやモーリス・ゴドリエは、その著書で解き明かしています。
私はしかし、今まで「贈与論」や「贈与の謎」を、暴力の持つそうした暴力性を逆にうまく活かしてきたし、さらにこれから活かしていけるというメッセージと受け止めてきました。
しかし、どうもそれは考え直す必要がありそうです。

モーリス・ゴドリエは「贈与の謎」で、暴力ほどではないが贈与もまた階層制の中での地位の変更に力をもっていると指摘した後で、「この世紀未の状況にあって、今や再び、今度は社会問題の解決の援助手段として気前のよい贈与、《返報なき》贈与が必須とされている」と20世紀末に書いています。
さらに、モースが贈与は「それを受けとる人々の心を傷つける」と判断していたが、現在では隣人愛組織は数を増している」と書いていることにも注目しています。
それは、贈与の脱暴力性を示唆しています。

そもそも贈与の語源につながるギフト(gift)という言葉には、「贈り物」という意味に合わせて「毒」という意味もあります。
そしてモースもまた、「贈与」には平和性と暴力性とが混ざり合っていると警告していました。
「贈ること、贈られた物をもらうことは、贈る側にとっても、もらう側にとっても賭けなのだ。そのような危険な賭けを通じて、集団どうしは「つきあう」ことになる」とモースは書いていますが、常に「危険」があるからこそ平和があるという私の考えから言えば、とても納得できます。
しかし、暴力性が強くなり、人間を過剰に貶めるようなことがあれば、話は別です。

今回の関西電力に象徴されている現象は、たぶんもう私のすぐ隣にまで展開されているのでしょう。
いつ私が感染するかもしれません。

私は一方的な贈与、つまり交換と切り離された贈与を素直に受ける生き方を選んでいます。
理屈っぽくいえば、お布施の論理のように、贈与を受け取ることこそが相手への私の贈与行為と考えているのです。
そして自分では背負いきれない贈与は、ていねいにお断りしているつもりです。
しかし、とはいうものの、贈与が生み出す義務意識から完全に解放されているわけでもありません。

もちろん私に贈与してくれる人たちは、元助役のような悪意は微塵も持っていません。
にもかかわらず、積み重なるとなぜか負担感が生まれてしまう。
これはどうしようもありません。
それが人間の弱味であり、社会を生み出す力なのでしょう。

ゾンビにならないように、言行不一致にならないように、自分を生きなければいけません。

 

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