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2019/10/08

■節子への挽歌4419:死のイメージ

節子

今日は抗がん治療をしている友人からの相談です。
一人暮らしのため相談は私にやってきます。

今回はオブジーボを使用するかどうか迷っているのです。
私には適切なアドバイスをする能力はありませんが、節子と一緒に抗がん治療に取り組んでいたころを思い出すと、彼の迷いや悩みがよくわかります。

いや「悩み」とか「迷い」というのとは少し違うかもしれません。
実はすでに答えを決めた上で、電話をしてくるのです。
私はただ、それを肯定すればいいわけです。
節子と一緒に考えていた頃の私も節子もそうでした。

一緒に問題を共有することが大切なのです。
それにもし結果が思わしくなかったとしても、自分だけを責めずに済みます。
私を恨めばいいのです。
ですから私は、彼と一緒に迷いながら考えるわけです。

彼は私の小学校時代の同級生ですから、お互いいつ何が起こってもおかしくありません。
もしかしたら、関係は逆転するかもしれません。
まあ今は彼ががんなので、私が相談を受ける役割を果たしているだけです。
こういう友人が、いま数名します。

私もそうですが、死が身近になると死は怖くなくなります。
ただできれば死を先に延ばしたいと思うのは自然です。
ただ苦痛に見舞われるとか生きるのが面倒だというのであればともかく、不都合もなく生きているのであれば、まあ「死を避ける」ことこそが生きる意味にもなってきます。
生きるために生きるという言い方が当てはまるかもしれません。
生きることは手段ではなく、目的なのです。

若いときにはこんなことは考えもしなかったのですが、最近はそんなことも納得できるようになりました。
生きることが少しわかってきたと言えるかもしれません。
たぶん完全にわかるのは、死の直前でしょう。
まあそれも楽しみではありますが、わかったところでどういう意味があるかはわかりません。
ただきっとそれは幸せにつながるのではないかと思っています。

ただしこれはすべて自然に死を迎えられる時の話です。
突然の事故死の場合は、まだイメージできずにいます。

 

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