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2019/11/11

■第5回万葉集サロン「柿本人麿の〈われ〉の喪失‐人麿の詩のかたち「泣血哀慟歌」を読む」報告

今回は、人麿の、妻の死を哀しむ「泣血哀慟歌」を取り上げました。
併せて、それとは対照的な大伴家持の妻への哀歌も詠んでくれました。
テーマは、「われ」から「自己」へ、です。

最初にまず、これまで詠んできた3つの万葉歌を振り返りました。
最初に詠んだのは、額田王が漢詩の宴で、天智天皇から「春山がよいか、秋山がよいか」と問われて即興で応えた「秋山、われは」の歌でした。
「ことば」をもって仕える巫女の「われ」意識の強さが宴席に出ていた人たちを魅了しただろうと升田さんは言います。

次に詠んだのが天智天皇の后の倭太后の天智をしのぶ歌でしたが、そこには妻ならではの「孤高のわれ」のまなざしがあり、その「われ」は、亡き夫とともに永遠につづく「われ」だ、と升田さんは言います。

そして前回の人麿の近江荒都歌。そこにあるのは、死者たちと共にある「われ」です。
いずれにおいても、「われ」は現世(うつせみ)を超えているわけです。

こうしたなかに升田さんは「わ」と「な」の相似性を置いています。
「わ」はいうまでもなく「吾」「我」であり、「な」は「汝」です。

そして、今回は人麿の「泣血哀慟歌」。
そこでは人麿はついに現世の「われ」から現世を超えた「われ」へと向かっている。
そして、心身を震わせるように、死者への思いを生々しく表現している様は、われを死者と融合させるようだと読み解きます。
升田さんによれば、歌の主体としての「われ」の喪失とも読めるというのです。

升田さんはまた、「現世」(うつせみ)をうたうとき、万葉歌人の中で、人麿だけが「うつせみと思ひし」と表現するという点に注目します。
それはまるで、霊の世界から現世を見ているようだ、と升田さんは言います。
そこに人麿の「われ」の特異性がある。

ところが、大伴家持は悲しさをとても冷静に歌っている。
そこでの「われ」は、まさに現世で他者と対峙している「われ」です。
霊から解放された「われ」の誕生、言い換えれば「自己」意識が生まれたのです。
「わ」と「な」のつながりは切り離され、おのおのが別々の「わ」になっていく。
その変質のさまが、人麿の歌と家持の歌に、はっきりと読みとれる。
そしてそこから家持の世界が広がっていく。

おおまかにいえば、歌の主体としての「われ」の変質は、人の生き方や社会のあり方を映し出しています。
そう思って、これまで読んできた歌を読み直すと、またいろんなことに気づく面白さがあります。
私自身はまだ十分には消化できていませんが、少しだけ万葉集の世界の魅力を感じさせてもらいました。

関連していろんな話が出ました。

私が興味を持ったのは、「わ」と「な」の話でしたが、それに関連して、升田さんは「わのなの国」という言葉をつぶやきました。
その解説はなかったような気がしますが、「わのなの国」は古代にあった国の一つです。
有名な志賀島で発見された古代の金印には、「漢委奴国王印」と刻まれていましたが、これは「かんのわのなのこくおうのいん」と読まれています。

「わ(吾)のな(汝)の国」。
なにかとんでもない気付きをもらったという気がしたのは私だけかもしれませんが、残念ながら升田さんがどうしてそれをつぶやいたのかはわかりません。

最後に少しだけ古代の文字表記について話がありましたが、これは改めてサロンをしてもらうことにしました。
升田さんが資料を配ってくれましたが、ひとりで読んでも理解不能な気がします。
きっとたくさんの話したいことが升田さんにはあるのでしょう。
であれば、話してもらうのがいいので、番外編を考えようと思います。
升田さんが了解したらですが。

次回は1月です。
来年からは、もっと自由に万葉の世界を遊ぶ内容になっていくようです。
ぜひご期待ください。

私の報告は一部の主観的報告ですので、ぜひ実際にサロンに参加して、万葉集の世界を楽しんでもらえるとうれしいです。

Manyo191108

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