■節子への挽歌4473:闡提成仏
節子
私の友人の伴侶が真如苑の信仰者です。
その関係もあって、真如苑の開祖である伊藤真乗の伝記を読みました。
いわゆる新興宗教には興味はあるのですが、興味本位でしか関連書を読んだことがありませんでした。
節子の仲の良い友人にも、立正佼成会の信仰者がいて、節子の見舞いにも来てくれましたし、葬儀にも来てくれました。
節子は時々、その友人から書物などをもらっていたと思いますが、私は読んだことはありません。
ですから、関連図書をしっかりと読んだのは初めてです。
今回読んだのは教義に関するものではなく、開祖真乗の評伝ですが、真如苑というもののイメージは一変しました。
真如苑の「真如」とは真実そのもの、あるがままのものという意味で、「苑」とは囲いのない庭をいうのだそうです。
つまり、誰もが仏教の教えに沿って、真実を見いだすことのできる場所が「真如苑」というわけです。
海外にも広がっていて、真如苑寺院もかなり海外にもあるようです。
ネットで調べたら、真如苑の信徒は、「うちなる仏性を見出し、さらにそれを行動によって自らを磨き上げて、周囲の方とともに、 よろこびの世界を築くこと」を目指すのだそうです。
この言葉は、私が目指す生き方にもつながっています。
いくつか印象に残ったことはありますが、私がとても共感したのは、その平等概念です。
真如苑には「闡提成仏」という言葉あります。
闡提(せんだい)でさえ、成仏できるという教えです。
山川草木悉皆成仏という言葉が仏教にありますが、その一方で「闡提」という言葉もあります。
闡提は、因果や来世などを信ぜず、仏の教えを誹謗して成仏の縁を欠く者です。
つまり、成仏できないのが「闡提」です。
これは仏教が内在している矛盾の一つです。
しかしある意味では、当然の帰結で、成仏という言葉が存在する以上、成仏できない存在がどうしても生まれます。
ある概念をつくれば、必ずその概念に合わない存在を生み出すからです。
すべての宗教は「平等」を唱えますが、「平等」を唱えることは「不平等」を認めることでもあります。
一方で、悉皆仏性と言いながら、仏性を持たない闡提の存在を唱える。
そして、その闡提さえも成仏させるのが仏の教えだというのは、別に真如苑に限ったことではありません。
ほとんどの経典が結果的には闡提の往生の可能性を示しています。
もしそうなのであれば、そもそも最初から「闡提」などという概念を創り出すなという気がしますが、そうした小細工を工夫したのが仏教が広まった一因でしょう。
まあそれは良しとしましょう。
しかし、「真乗」を読んで、なぜか「闡提成仏」というところが強く心に残りました。
「闡提」さえも成仏できるのではなく、「闡提」こそが成仏できるというように読めたのです。
昨今の宗教や信仰のあり方には、いささかの違和感があるのですが、「真乗」を読んで、来年は少し「信仰」とか「宗教」の問題を少し考えてみたくなりました、
今回のローマ法王の来日には失望しました。
しかし、その一方で、やはり宗教の持つパワーを感じました。
それも、「信仰」や「宗教」の問題を考え直そうと思い立った理由です。
いまから思えば、節子は無意識の中の「信仰」を生きた人でした。
私も、その「信仰」から、ささやかな気付きをもらいました。
そのことも改めて思い出しながら、考え直すのもいいかもしれません。
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