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2019/12/17

■節子への挽歌4487:死こそが日常で、生き続けることが非日常

節子
また挽歌を書けなくなっていました。

この数日、いささか気の重い話が続いています。
サロンがあったり、孫が来たり、気がまぎれることもあったのですが、どこかで気が沈んでいます。
誰かと話している時はいいのですが、パソコンに向かうと気が沈んでしまう。
それにどうも夢見がよくありません。

そのうえ、テレビでは息子の暴力が他者に及ぶのを恐れて息子を殺害した元事務次官の裁判の話など、相変わらず暗い話で持ちきりです。
息子に殺されるのであれば、私には別に悲しい事件には感じないのですが、その逆の事件はあまりにも痛ましいです。
その話も、最近私が落ち込んでいる一因です。

愛する人に殺されるのは不幸ではないでしょうが、愛する人を殺すことは、この上なく不幸で辛いことのはずです。
親子は相似形ではないかと思いがちですが、たぶんそんなことはないでしょう。
親は子どもには無償の愛を持てますが、子どもは親に無償の愛は多分持てないでしょう。
誤解されそうな言い方ですが、それが生命の本質のように思います。

しかし人の死は、なぜかくも心に響くのでしょうか。
人はいずれ死を迎えるわけで、死を迎える時期が早いか遅いかの違いだけの話ですが、そして新聞を見ればわかるように、死は社会にはあふれかえるほどの日常事なのですが、なぜこれほどに重く感ずる死があるのか。

この頃、ようやく実感できてきたのですが、生き続けるということは奇跡的な僥倖の連続に支えられていることの結果なのです。
いま生きていることの幸運を、私もようやく実感できるようになりました。
それに気づけば、死はさほどのことではない気もします。
死こそが日常で、生き続けることが非日常なのです。
まあこんなことを書いてしまうほどに、いまちょっと生が萎えています。
困ったものです。

今日はまた孫が来るそうなので、お昼でも食べに行こうと思っています。
気が戻ってくるといいのですが。
今日は、気が滅入るような、そんな陰鬱な天気です。

 

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