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2019/12/19

■不登校や引きこもり体験者と話して思ったこと

昨日、ブログの「挽歌編」に書いたのですが、むしろ「時評編」の内容だなと気づき、その一部をリライトして、時評編にも載せることにしました。

湯島では、私の主催ではない集まりがいくつかあります。
たとえばほっとスマイルプロジェクトという世界に笑顔を広げていこうという集まり。ちょっと霊的な要素が入っている地上の楽園を目指す集まりなどです。
そうしたものの一つに、引きこもり体験者などを中心とする集まりがあります。
これはオープンハートを主宰する阿部さんがやっています。
以前から私にも声がかかっていたのですが、なかなか参加できずに、昨日、初めて参加しました。
わたしを入れて、6人ほどの集まりでした。
かつて引きこもっていたり不登校だったりしていた人です。
それもかなり長期にわたってです。
不登校や引きこもりに、なぜか多くの人はコンプレックスを持っています。
世間も、それがおかしいと考えています。
私自身も、かつてはそうでした。
しかし、不登校や引きこもりにコンプレックスを持つ必要などあるはずもありません。
問題は、コンプレックスや罪悪感を持ってしまうことから始まります。
はじめてなので、それぞれにどんな人かをお聞きしました。
ちなみに、私のことはたぶん阿部さんからみんなには伝わっているようです。
「いまは働いていない」と言った人がいました。
そこで、「稼いでいないだけではないですか」と問い返し、生きている以上、働いていない人はいないと言付け加えました。
人は、そこに存在するだけで必ず誰かの役に立っています。
もちろん誰かに迷惑をかけているともいえるのですが。
役に立つことと迷惑をかけることは、私には同じことのように思えます。
稼いでいないと価値がないと考えるようになったのは、いつのころからでしょうか。
私が、そのことのおかしさに気づいたのは3年ほど前ですが、その呪縛から解き放たれると生きやすくなります。
同じように、学校に行かなければいけないという思いからも自由になるのがいい。
「学校だけが学びの場」ではありません。
いや学校こそが学びをワクワクさせない場所になってしまっています。
学びはわくわくする面白いものでなければいけません。
学校に行きたくないのは自分をしっかりと生きているからだともいえます。
私は子ども時代、あまりしっかりしていなかったので学校には行きました。
学校に行かないことができるということに気づいたことがないのです。
ただ高校時代には学校が嫌いでしたので、不登校ではありませんでしたが、嫌いな授業はさぼって図書室で本を読んだりしていました。
いまの子どもたちには、学校と家庭しかないと思わせているところに問題があります。
ちなみに塾や学童保育の場は、もう一つの学びの場ですが、いずれも大人たちに管理されている場であることには変わりはありません。
子どもたちが自分たちの場が作れないところに問題を感じます。
ネットのようなバーチャルな場は、私には別の世界のように思えます。
みんなと話していて、やはり社会そのもののおかしさを改めて感じます。
ここに集まっている人たちのエネルギーや思いを束ねたら、みんな生き生きしてくるでしょう。
いつもこういう人たちと話していると思うことです。
いろいろなことを気づかせてもらいました。
不登校や引きこもりを体験した人たちの素直さにはいつも感心しますが、いろんな世界に触れてこなかったが故の視野の狭さも感じます。
現在のさまざまな対策や相談に取り組む活動には、やはりどうしても共感できません。
基本的な捉え方が、すでに間違っているように思えてなりません。
やはりだれをも区別(差別)しない、サロンを続けることが大切だと改めて思いました。

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