■節子への挽歌4481:期せずして太田サロン
節子
太田さんの話をつづけます。
一昨日のサロンに病院を外出してやってきました。
痛みなどもあって、病院に入院したのですが、これまで通りの生活をこころがけているそうです。
先日、佐賀の母親に会いに行ってきた後、やはり体力が大きく低下したようです。
サロンには遅れてやってきましたが、表情が違っていました。
これまで通り、話し合いでは、相変わらずの根本的な問いかけをしましたが、緯線のように声に勢いがありません。
話すのも辛そうでした。
サロンが終わった後、何人かが太田さんを囲み、話しだしました。
そのまま、太田さんを囲むサロンになりました。
フェイスブックにも投稿したのですが、みんな太田さんの症状も知っています。
しかし、明るい話し合いができました。
太田さんの話もたくさん聞けました。
おかげで病院に出してきた外出届の時間には病院には戻れなくなったでしょう。
それにしても、これだけあっけらかんと話せるのはめずらしいでしょう。
太田さんとは最近知り合った人もいましたが、彼は感激していました。
彼も死に関しては割り切っている人ですが、こういう話し合いの場がもっとあればいいと一緒に帰る途中で連発していました。
私は、来世を信じていますので、また会えるからと思っています。
そう思えば、哀しくはありません。
それに涙で人を送るのは私の好みではありませんし、太田さんの好みでもないでしょう。
それに涙は出る時には出るのです。
悲しさを感ずるのは、送ってからしばらくたってからです。
太田さんは、湯島のサロンの常連でした。
しかも、テーマによって参加を決めるのではなく、用事のない日曜日のサロンは必ず参加していました。
それこそ、私がサロンで目指している方針なのです。
その意味で、太田さんは湯島のサロンの最大の理解者でした。
ですからその前に一度太田さんに最後のサロンをやってもらいたいと思っていたのですが、さすがにどう頼んだらいいか判断できずにいました。
それが期せずして、サロンが実現したのです。
太田さんが途中で、メモを出して、読み出しました。
私への問いかけのようでした。
それも、いつものように、ついつい反論してしまいました。
最後まで、太田さんとはいつものように付き合おうと思います。
しかし、こんなサロンが開けるとは思ってもいませんでした。
いい時間でした。
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