■節子への挽歌4491:人はみんな違う世界に生きている
節子
久しぶりに武田さんと2人で、国家論争をしました。
国家や政治の捉え方が全くと言っていいほど違うのですが、なぜかいつも武田さんから問題提起を受けます。
いつもは電話で、こんなことを考えたのだがどうかと意見を聞かれるのです。
毎回、どちらかと言えば否定的に反応することが多いのですが、武田さんは懲りずに電話してきます。
そのため、いつも長電話なのですが、電話ではやはり話し合いは難しい。
それで時々、2人での激論会になるわけです。
しかしお互いにちょっと疲れていて、今回は激論にはならずに、まあ程々の話し合いになりました。
しかしいろんな人と話していていつも思うのは、人はみんな違う世界に生きているということです。
私が社会の多様性に気づいたのは、会社を辞めて、地域の住民運動の場に参加した時です。
そこで体験したのは、企業の世界とは全く違う世界と言ってもいいでしょう。
その活動を通して、さらに行政にも関わったら、ここもまた全く違う世界でした。
ですから、たとえば、行政による住民説明会などは、まったく違った思考や言語がただ飛び交っているという感じでした。
ということは、企業もまた、地域社会や行政とは違った言語やルールで思考し行動しているのでしょう。
そこから私の活動の大きな方向が決まったのですが、長年付き合っている武田さんとさえ、理解し合うというよりも、伝え合うことさえ、相変わらず難しいのです。
まあそれは今さら気づいたことではないのですが、このごろ、人は違う世界に住んでいることを思い知らされることが本当に多いのです。
特に私の場合、世間の価値評価基準とほとんど真反対なので、相手に勘違いされることが多いのです。
相手が褒め言葉で私のことを話せば、だいたいにおいて私は褒められたなどとは思いませんし、有名人の話をしても、私はその人って誰ですか?という程度の知識しかありません。
ブランドなどの知識はまったくありませんし、グルメで有名なレストランなどの知識もありません。
困ったものですが、私が信ずるのは自らが直接体験したことだけなのです。
ですから私の世界はとても狭い。
しかし、それは私に限ったことではないでしょう。
みんな狭い世界に生きているのです。
そのことがわかれば、人は誰とも仲良くやっていけるのかもしれません。
みんな違う世界に生きている。
そう思うと、とても生きやすくなります。
しかし、時にあまりの違いにつかれることも少なくありません。
違う世界にもかかわらず、同じ世界と実感できる幸せは、なかなかもう体験できないでしょう。
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