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2019/12/04

■嘘を前提にして議論する社会

国会では相変わらず「桜を見る会」での与野党のやり取りが続いています。
テレビでもその関連の話が話題になっています。
私がこの問題で驚いているのは、官邸や与党の反応ではありません。
みんなが「嘘」を前提に思考し議論していることです。

これは最近の風潮ですが、こうしたことが繰り返されると「嘘」という概念さえなくなっていくのではないかと気になります。
いやもうなくなってしまっているのかもしれません。
最初にこうした風潮をつくった小泉政権からもうかなり経ちますから。

「桜を見る会」問題での嘘は、たとえば、参加者名簿がないという嘘です。
本当にないと思っている人がいるのでしょうか。
手書きで名簿をつくる時代ならともかく、パソコンでデータ作成する時代に、プリントアウトした名簿をシュレッダーにかけることで名簿はなくなりません。
万一すべてのパソコンのデータを消去しても、復元は可能でしょう。
そういう時代に、相変わらず、紙媒体の名簿を廃棄したことで、名簿がないなどと騒いでいることの滑稽さをだれも指摘しない。
しかもつい最近、同じようなことを体験しているはずなのに。
アンデルセン童話の「裸の王様」を思い出します。

嘘を認めての野党の追及は時間の無駄でしかありません。
テレビのキャスターやコメンテーターもみんな、嘘の上に構築された問題の上で、政権に忖度しながら発言しています。
一人くらい「王様は裸だ!」と素直に発言する人はいないものでしょうか。
ばかげた国会論争やテレビ報道はやめてもらいたいものです。

「私人」と言われている首相夫人が招待者になっていることについてさえ、「私物化したと思われても仕方がない」などとバカなコメントをしています。
なんでもっと端的に「私物化だと思う」と言えないのか。
それはその人が多分テレビを「私物化」しているからでしょう。

腐ったリンゴはどんどん広がります。
私もまた腐っていくのは避けようがないのでしょう。
困ったものです。

 

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コメント

佐藤様
ご無沙汰しております。
今回の佐藤様のコメント、まったくその通りです。
忖度、委縮した現在の主要メディアの日々のニュースに期待できるものはありません。稀に気骨のある人たちが制作した番組にみるべきものはありますが、
筑紫さんが「多事争論」「異論・反論・オブジェクション」でコメントしていた時代は遥か彼方へ行ってしまいました。
まさかこんな時代になってしまうとは夢にも思いませんでした。(それは間断なく強硬採決して成立してしまう法律にも思うことです)
でも、それは甘かったと自戒しています。たしかに小泉政権が決定的な潮目になったのでしょう。
私の最初のショックを伴う挫折は東日本大震災後の対応です。ここで被災者の方々の生活と国民の安全を最優先する方向に舵を切ると思いきや、オリンピック招致までいってしまった。
あくまでも企業利益、市場、消費が優先された…。
次の大きな挫折は憲法解釈変更を含む集団的自衛権行使容認の安全保障法成立です。この時の強行採決を目の当たりにして涙があふれました。

東日本大震災の三か月後に彼は旅立ちました。
正直言って目の前の日々変化する彼の病状と共にあることで精一杯、私自身まるで重力がない世界にいるようでしたから震災後も復興云々より人の生死についてばかり頭を巡らせていました。
こうして稚拙ながらコメントできるようになったのも時の経過故です。
そして佐藤さんのブログとの出会いもこの喪失の経験がなければ起こらなかったことなのです。佐藤さんの本意に反するかもせれませんが、改めて感謝を伝えたいと思います。
「詫びることができるうち詫びる」と同じように感謝も伝えられるときにしっかりと伝えなくては。


「嘘」について先ごろ中島義道氏の「ウソつきの構造 法と道徳のあいだ」を読了していたのでそこから引用します。
   
    近・現代社会では、外形的に最低限度つじつまが合っていれば、そして、
    明らかな反証となる証拠が挙げられなければ、どんなに全体がヘンだと感じられても、常識では考えられないと思われても、
    さしあたり「ウソではないと」みなされ、これが直ちに「真実である」とみなされてしまう。

これが「法的に守られた真実」であるとしています。ではどうするか。
「法の判断は端的な真実ではない」「きわめて狭い枠内における真実にかかわっているだけである」ことを認識し、
「ウソは言語を学んだ理性的な存在者としての人間そのものの産物なのであり」「よって原理的には根絶できない」ことを直視し、
「人間には法よりずっと重要な道徳という領域が開かれている」ことを自覚し実践する。

本当に当たり前のことなのですが、私は「人間の中にある悪を直視すること」が重要だと思っています。そこを突き詰めずに放たれた道徳的言葉は「空語」になって飛び交うだけです。
そして「開かれている」とういうことにも。可能性に賭け続けることは厳しい道のりで、あまりのことにすぐに諦念の陥ってしまいがちだからです。

直近で鼓舞されたのは昨夜のU2のライヴです。政治的メッセージも辞さない彼らの一貫した姿勢のみならず、昨夜はアフガニスタンで悔しくも凶弾に斃れた中村哲氏への哀悼と彼の功績を讃えました。
前日私は一人悶々と悲しみに暮れていました。偶然手に入ったチケットでその場に居合せ、ともに追悼できたことへの感謝と事件への憤り、無念さがない交ぜになってくしゃくしゃになりました。

そんな一夜が明けて佐藤さんのブログを開いて書き連ねてしまいました。長くなってすみません。
サロンをはじめ多くの人たちとの関わり合いの「場」提供し続けている佐藤さんはなんと心強い存在でしょう。
お体にはくれぐれも気を付けてください。またお邪魔させていただきます。

patti


投稿: patti | 2019/12/06 11:25

pattiさん 
お久しぶりにうれしい名前に出合えました。
ありがとうございます。

時々、pattiさんのことを思い出したりしていました。
最近、この挽歌も私の内容のない日記になってしまっているので、読者も減っていて、pattiさんももう立ち直っているだろうなと思ってもいました。

かくいう私も、ようやくですが、最近になってかなり元気になってきました。
13年目にして、呪縛から解き放たれた感じです。
しかし、それとともに、逆にまた妻のことを思い出すことが増えています。
おかしな話ですが。

コメントの内容、とてもうれしいです。
いつか東京に出て来る機会があったら、ぜひpattiさんのサロンをお願いしたいです。
内容のないコメントですみません。

投稿: 佐藤修 | 2019/12/06 17:42

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