■節子への挽歌4518:「7日に亡くなりました」
節子
今日はいろいろな人と会ったりミーティングをしたのですが、思考力がとんでしまっていました。
気になりながら連絡を取っていなかった太田さんに、竹団と二人で耳に行こうと思っていたのですが、私自身の気が萎えていて、行けませんでした。
ようやく少し精神的に安定したので、太田さんの勤務先に、その後の状況を確認して、病院を教えてもらおうと思いました。
電話をして、名前を告げ、太田さんのことを確認したら、電話に出た人がちょっと待ってくださいと言って、違う人に取り次いでくれました。
だれかわからない人に入院先を簡単には教えないだろうと思っていたので、正直、少し安心しました。
ところが電話に出た人は、佐藤さんですね、ともう一度確認してから、「7日に亡くなりました」というのです。
頭が混乱して、思考力を失いました。
7日と言えば、京都から帰ってきて、そろそろ行けそうだと「覚悟」ができた日です。
サロンの話をすると、太田さんからいつもサロンの話は聞いていましたと言われました。
だから私の名前も知っていてくれたようです。
太田さんらしく、家族での見送りをした後まで伏せておくようにと言われているようで、それが終わった後、正式に関係者に連絡する予定ですので、と言われました。
最後まで、見事に自らの生き方を貫いたことに改めて感動しました。
しかし、最後にもう一度、会うということはできませんでした。
同じ経験を前にも2回しています。
一人は節子もよく知っている重久さんです。
暫らく連絡がなかったので、声をかけたら、いまは体調が悪いのでと断られました。
うすうす病気だと分かったので、少し間をおいてまた連絡しましたが、もう少し待ってほしいといわれました。
そしてまたしばらくして連絡したら、家族の方から亡くなったことを知らされました。
もう一人も、しばらくの音信不通の後、奥さんから訃報が届きました。
彼も会うのを断ってきていました。
2人に共通しているのは、たぶん私の記憶に元気な自分を残しておきたかったのではないかということです。
節子もそうでした。
そういうこともあって、太田さんのお見舞いに行くのを躊躇しているうちにタイミングを失してしまったのです。
それがよかったのか悪かったのかはわかりません。
しかし覚悟はしていたものの、今日は1日、何やら思考力が失われてしまい、うつろな1日でした。
まあしかし、そのおかげで、まだ太田さんが元気でいるような感じがします。
しばらく出張で湯島には来られないでしょうが、死の実感がありません。
悲しさもない。
しかし、どう表現していいかわからない、いつもとは違う気もとで落ち着きません。
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