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2020/03/16

■湯島サロン「コミュニティは見つけるものか育てるものか」報告

4回目の「コミュニティを考えるサロン」は、「なぜあなたはコミュニティを求めるのですか」「いま何が欠けているのですか」という問いかけから、話し合いを始めました。
参加者は13人、世代は20代から70代まで、さまざまでした。

Community20200314

他者と思いを共有したい、生を実感したい、異質さと触れ合いたい、安心や幸せを感じたい、信頼関係に身を置きたい、愛を感じたい、気を通わせ合いたい、気兼ねなく「ただボーっと」いっしょの時間と空間を共有していたい、いや適度の刺激を受けたい、など、さまざまな要素が出てきました。

要素はいろいろでしたが、共通しているのは、当然ですが「他者の存在」です。
どこかに引きこもって一人でいても、それはコミュニティではなく、満たされた空間でもありません。
他者との共存が、豊かで幸せな人生には、どうも不可欠な要素のようです。

つまり、コミュニティを考えるとは「他者とのつながり方」を考えるということです。
参加者からの意見には一見、相反するものもありました。
たとえば、生さえも忘れるような平安と適度に生を感じさせてくれる刺激。
たとえば、疲れを癒される休息感と新たな挑戦に旅立ちたくなる高揚感。

主客の関係もまた複雑です。愛されたいのか愛したいのか、信頼したいのか信頼されたいのか、それは全く別のものですが、混同して考えがちです。
人は愛したり信頼したりすることはできますが、愛されたり信頼されたりすることは、他者の問題ですから自由にはなりません。しかし、ともすると私たちはそれを勘違いしてしまう。

時間も同じように変化していきます。
信頼関係や愛(思いやり)に満たされた関係も、不変ではありません。
時間の経過、環境の変化の中で、突然に崩れることがないとは言えません。
信頼や愛が「存在」することが重要なのか、そうしたことを創り出していく「過程」(の充実感)が重要なのかも、人によって違うでしょう。
いつも信頼や愛や安心が満ち溢れているのが「コミュニティ」ではないでしょう。不信や憎しみや不安があるのもまた「コミュニティ」かもしれません。

しかも、信頼や愛や安心などには、実際には常に緊張関係が含まれています。
信頼や愛や安心を持続していくための緊張感と持続できなくなった時の不安感。
「他者とのつながり方」ですから、常に不安定の要素があります。

これまでも世界中にいろいろな「コミュニティ」が生まれましたが、とてもコミュニティとはいえないような人間集団になってしまったものも少なくありません。
かつての村落共同体や高度経済成長期の日本の企業コミュニティも、良い面もあれば、抜け出したい面もありました。
そんなことをいろいろと考えるヒントがたくさん出されたような気がします。

それにしても、みんなそれぞれに「自分のコミュニティ」を持っているはずなので、どうして「コミュニティ」をテーマにしたサロンが4回もつづくのでしょうか。

参加者のおひとりが、すでにいろんなつながりを持っているが、最後まで心配もなく逝くことができるだろうかちょっと不安というような話をされました。
「生きるためのコミュニティ」とは別に、「死ぬためのコミュニティ」も大切かもしれません。これに関しては、これまでも湯島でいろいろと取り組んできましたが、まだ中途半端にとどまっています。

結論を見つけ出すサロンではないので、それぞれに気づきがあればそれでいいのですが、話し合いを聞いていて、まだ多くの人が、「コミュニティ」を観察的に考えているのではないかという気がしました。
私たちは、どこかで「コミュニティ」を観察的に考えています。

そもそも「コミュニティ」という言葉自体が、外在的なイメージです。
それでは学者の議論にはなるかもしれませんが、生活の役には立たないのではないか。
自らが生きやすい人のつながりをつくることに関心があるのであれば、「コミュニティ」という言葉から一度、自由になることが必要ではないか。

だれにも、必ず自らの生の拠り所になっている「人との関係」はあるはずです。
まずは、それを自分のコミュニティと捉えて、そこから自らのコミュニティ(世界)を広げていくのがいいのかもしれません。
自分の周りに、コミュニティは広がっていると思うと世界は一変するかもしれません。
それにコミュニティはひとつである必要はありませんし、未来永劫抜け出せないわけでもない。

エマニュエル・トッドが、人類の歴史は夫婦(家族)という2人の社会から始まったと言っていますが、言い換えれば、まずは「コミュニティ」をつくることで、人類は生きる基盤をつくりだしたともいえます。
私たちは、意識していなかったとしても、生きると同時にコミュニティを育ててきているはずです。
「コミュニティ」は観察する対象ではなく、生きてきた足跡のなかに育ってきているものかもしれません。

長くなってしまいましたが、肝心のことがまだ書けていない気もします。
このまま書き続けると1冊の本になりそうなくらい、論点はたくさんあった気がします。

今回は、次の3つの課題を意識した話し合いをさせてもらいました。
(1)コミュニティは参加するものか、育てていくものか。
(2)コミュニティにとっての時間と空間と人間。
(3)コミュニティの開放性と多層性。
これらに関しては直接的な議論はしませんでしたが、それぞれに考えてもらえたと思います。

どこかに焦点を絞って、もう少し話し合いたいという方がいたら、5回目のサロンをしようと思います。
ご希望の方がいたらご連絡ください。

 

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