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2020年4月

2020/04/30

■節子への挽歌4580:久しぶりにスーパーに買い物

節子

今日はわが家の食料品買い物デイでした。
コロナ騒ぎで、今月からわが家のスーパー買い出しは、週1回になったのです。
1週間分を買い込んでくるとなると、ユカ一人では大変です。
それを口実に、私も同行させてもらいました。
やはり時々は「社会の現場」を見て行いと落ち着きません。

思ったほど混んではいませんでしたが、何となく緊迫感がありました。
野菜は軒並み高くなっていましたが、品薄という感じはありませんでした。
私もいつもはほとんど飲むことにない牛乳をラッシー用によぶんに2本買ってきました。給食がなくなって牛乳メーカーや酪農家が大変だと言うので、毎日ラッシーにして牛乳を飲むことにしたのです。

店内をなんとなく歩いていたら、にこが見つけてやってきました。
偶然にも親子で買い物に来ていたのです。
しっかりとマスクをしているので大丈夫でしょう。

今日は1週間分の食材の買い物でしたが、ユカからはもう少し節約しないといけないと言われました。
かなり節約しているはずですが、これからわが家はどうなるかちょっと不安な要素が多いので、さらなる節約が行われそうです。
ユカは節子よりも節約家になりました。
困ったものですが。

 

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■節子への挽歌4579:「大きな福祉に救われた」

節子

今朝、パソコンを開いたら、長いメールが届いていました。
「大きな福祉」を標榜して取り組んだコムケア活動の時に出合ったMさんです。

コロナ禍の渦中で、いろいろと思うことが多いようで、長いメールには彼女の心情が吐露されていました。
とてもうれしかったのは、その長い文章の中に「大きな福祉」という言葉が書かれていたことです。
たとえば、こんなように。

佐藤さんの大きな福祉に救われた一人として
改めて感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

大きな福祉を実践してこられた佐藤さんだからこそ
いま大切なことを伝えて下さるように感じていて
思うがままにメッセージを入力させていただきました。

年に一度くらいですが、いまも「大きな福祉」への共感を伝えてきてくれる人がいます。
私自身がもう使用しなくなってから10年以上たつと思いますが、心に刻んでいる人がいると思うととてもうれしいです。

節子が、もし元気だったら、「大きな福祉」はもう少し具体的な形になって残ったかもしれません。
いまは私の生き方の中にしか残っていませんが、もしかしたら、いまのコロナ危機が「大きな福祉」の感覚を広げてくれるかもしれません。
Mさんのメッセージを読んでいて、そんな気がちょっとしました。
もしそんなことが起これば、コロナ様様と思いたいです。

大きな福祉は、言うまでもなく、ウイルスにも寛容でなければいけません。

 

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■コロナ危機を活かす〔7〕3つ目の岐路「同調か自律か」

ポストコロナ社会をイメージしながら、コロナ危機をどう活かすかを考えるはずが、どんどん横道に入り込んでしまっていました。
閑話休題。
3つ目の岐路、「同調か自律か」に話を戻します。

前回の話につなげていえば、発想の起点が全体(社会)の場合には「同調」が思考の基本になります。それに対して、発想の起点が個人、つまり自分にあれば、まずは自分ならどうするかを考える、つまり「自律」が思考の基本になります。

同調の場合は、「考える」のではなく「与えられる」「探り合う」と言ってもいいかもしれません。「与えられる」「探り合う」と「考える」は全く違います。
私には「思考」の有無が、「同調」と「自律」の違いのように思われます。「思考停止社会」か「思考稼働社会」かといってもいい。いずれにしろ、社会の質は全く違います。「同調」が基本の社会か、「自律」が基本の社会かでは、社会は全く違っていくでしょう。

現在、コロナ危機という、自らの生命にもつながる状況への対策に関しても、多くの人は「同調」行動に身を任せているように思います。「外出自粛」「対人接触回避」がコロナ危機対策の中心です。しばらく我慢して家に引きこもっていれば、コロナ危機は通り過ぎていく、というわけです。
しかも、その理由を考えることも、問うこともせずに、「専門家」や「お上」任せ。万一それが間違っていたとしても、「みんなで渡れば怖くない」というわけです。
「外出自粛」と言われれば、みんな外出を自粛し、世界を見ないようになってしまう。私には信じがたい話ですが、それで感染防止ができるとみんな思っている。

もしかしたら、それで当面の危機は乗り越えられるかもしれません。しかし、それによって、社会の未来は決まってくる。危機への対策はだれかに任せてしまい、自分では考えない。危機でさえそうであれば、日常の行動は当然に自分では考えずに、周囲に身を任せて、責任も取らずに、お上に従うか、(現在の野党や安倍政権批判者のように)お上に責任をなすりつけるかして、貧しく生きるしかありません。

運よく死を免れたとして(多くの人は免れるでしょう)、コロナ危機がかなり長期的に続くとすれば、これまでの経済の枠組みで生きてきている人は苦境に置かれるようになるでしょう。経済的な困窮が、別の意味での死をもたらすかもしれません。人の意味は全く変わってしまい、人は社会のための道具的な存在になってしまう。

しかしもし、「同調」よりも「自律」を選ぶならば、世界は一変するでしょう。
コロナ関係の情報を自分でしっかり考えるようにすれば、感染予防の対策は変わってくるかもしれません。外出自粛したとしても、その意味を問い直すことで、能動的な予防策や危機を克服する方策も考えつくはずです。

この危機をチャンスにすることさえ、できるかもしれません。
少なくとも、自分の思考で、生き方を変えることはできるでしょう。
所与のものとしてではない、みんなで創りあげていく社会もイメージできるでしょう。
社会は、人間にとっての道具的な存在に戻されるでしょう。

民主主義を「個人の尊重」ととらえれば、その基本には「自分で考える」自律的な個人という主体的な存在が不可欠ですが、最近の日本は、「自分で考える」ことは生きにくさにつながってきています。組織の中で「自分の考え」にこだわっていると、うまくいかず、最悪の場合は死に追いやられる。そんな社会になってきていた状況を、コロナ危機は変えてくれるかもしれないのです。

幸いに、行動が制約されて、時間はたっぷりある人も多いでしょう。
忘れていた「思考」を取り戻し、どちらの未来を選ぶか考えたい。
そして、小さくてもいいので、一歩を踏み出したい。
そう思います。

 

 

 

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■コロナ危機を活かす〔6〕発想の起点は個人か社会か

コロナ危機で私が考える3つ目の岐路は、「同調か自律か」です。
今回はまるっきり横道なので、お暇の方だけ、どうぞ。

「同調か自律か」は、私が長年、行動の基準にしていることとつながっています。
その基準は、発想の起点を個人に置くか、全体(組織・社会)に置くか、です。
ちょっと読みにくいのですが、20年近く前にホームページに書いた文章があります。
「メッセージ6:発想の起点を変えてみましょう〔2002/04/06〕」
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m6

これまでの日本では、発想の起点は全体(組織・社会)にありました。
まず全体があり、個人はそれに合わせる存在でした。
つまり、個人は全体に合わせる受動的な無表情な存在でした。

学校教育は、子供たちを社会に合わせるための場でした。
そのため学校は子供の能力を伸ばすというよりも、規律に従う訓練と社会に適合するための知識を得る場になり、豊かな感性や意志を持っている子どもたちは不登校になりがちです。そこでは学ぶことの楽しさを味わえず、勉強は苦行になります。

会社に入ったら、会社の常識に合わせないといけません。おかしいと思ってもがまんをするのが会社員の常識であり、そのためメンタルダウンしてしまうことも少なくありません。働くことが楽しくなくなり、これまた苦行になってしまう。

福祉も制度に合わせて考えられますので、個々人の事情はあまり考慮されません。福祉施設では障害者や高齢者の豊かな人間性は認められず、上から目線で「世話されること」になります。そこには、豊かなケアし合う喜びはありません。

高度経済成長期においては、みんな猛烈社員として働きました。
個人の生活よりも、会社の業績、国家の経済成長が目標でした。
会社の業績が上がれば給料も上昇する。パイが大きくなれば、取り分も増えていく。
全体を豊かにすれば、個人も豊かになる。
高度経済成長のおかげで、非常にわかりやすい形で、多くの人がその恩恵に浴しました。

そのおかげで、ボードリヤールが指摘したように、「ウサギ小屋」と言われる住居に住みながら、満員電車に詰め込まれて会社に行って、24時間がんばって、経済を成長させてきたのです。
そして、私たちの生活も「豊か」になってきました。

しかし、「豊か」になれば、「もっと」豊かになりたい、「別の」豊かさを求めたい、と思うのが、人の定めです。
2つの岐路がありましたが、日本だけではなく、世界は「もっと」路線を選びました。
1970年代から80年代にかけての話です。

私は最後の最後で、そうした社会に同調する生き方から離脱しました。
しかし、なかなかうまくいかずに、そうした社会のおこぼれにあずかりながら、なんとか辻褄を合わせながら生きていました。
そんな時に「コロナ危機」。

歴史の岐路の見直しの可能性が生まれてきた、と思いたくなっています。
「もっと路線」は、挫折はしないでしょうが、「別の路線」の魅力が高まるかもしれません。
そんな気がしてきています。

完全な横道でした。すみません。

「同調か自律か」について、次回から書き出します。

 

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2020/04/29

■節子への挽歌4580:庭の鉢の整理をがんばりました

節子

頑張って庭の鉢花を少し整理しました。
それにしても鉢のなんとたくさんあることか。
そして、節子がいなくなったから、何と多くの花を枯らしてしまったことか。

Img_20200429_161502     
この時期に植え替えなどやっていいのかどうか、心配でしたが、枯れそうになっていた牡丹と芍薬を、少し大きな鉢に植え替えました。
友人から教えてもらった888の肥料も入れました。
これもずっと気になっていたロウバイも周りの草を抜いて肥料も入れました。
節子がいなくなってから、なぜかロウバイは花を咲かせなくなりました。

枯れそうになっていたテッセンも、なんとか救い出しました。
地植えのテッセンは元気ですが、今年は支えを作らなかったので、地面で咲いています。
ランタナはずっと放置していたので、多分土の中の酸素が少なくなっているので、ちょっとかき回しました。今年はよく咲くでしょう。

昨年、冬に水をやりすぎて1本枯らしてしまったカサブランカは、1本が何とか頑張っていますが、球根を放置していたので、大きくは育たないかもしれません。
名前は忘れましたが、お気に入りのアジサイを鉢植えしていましたが、ひとつは枯らしてしまいました。残ったのがお気に入りのだといいのですが。
ミニバラもかなり枯らしましたが2つだけ残っています。
たぶん節子時代からのものです。

ほかにもいろいろとあったはずですが、見当たりません。
困ったものです。

日本イチジクの挿し木が葉を出してきました。これは転居前の家にあったもので、節子も好きだったのですが、転居後、枯らしてしまいました。姪が挿し木で大きくしてくれたので、その枝をもらい、挿し木をしています。
今回は元気に育っています。
節子と一緒に行って買ってきた河津桜は1本だめにしてしまいましたが、1本は鉢植えにしています。肥料を入れたので元気になるでしょう。
まあ今日は2時間かかってこの程度です。

作業の途中で、トカゲやルリタテハ、クマンバチにも会いました。
この2時間で、一番元気をもらったのは私でしょう。
ちょっと元気が戻ってきました。

明日は天気がよければ畑作業です。

 

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■節子への挽歌4579:まずは庭に出よう

節子

今日はいい天気になりました。
気を取り直して、庭の整理をすることにしました。

最近の日課である、コロナ関連のテレビ番組の録画を早送りでチェック。そのあと、ホームセンターに肥料を買いに行きました。
いつもなら、野菜の苗を購入するのですが、今回はパスしました。

しかし、売り場でたくさんの花に触れていたら、元気が戻ってきました。
自然の力は、やはりすごいです。
昨今は、コロナウイルス対策で、外出自粛でステイホームが叫ばれていますが、これはとんでもない愚策に思えます。
自宅に引きこもっていれば、生命力は損なわれていくでしょう。
それこそが、コロナの目的かもしれません。

庭の花の手入れを始めようと思います。
まずは節子が大事にしていた、牡丹と芍薬。
いずれもほぼ枯れかけているのです。
復活するといいのですが。
いずれも思い出の花です。

 

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■節子への挽歌4578:例年とは違う大型連休の始まり

節子

今朝もいつもと同じような朝でした。
昨日はちょっとショックでしたが、まあ人生はいい方向に進でしょう。
いや、進む方向を受けいれないといけません。
幸いに、ユカも元気ですし、考えるのはもう少し先にしましょう。

いつもならば、今日から大型連休が始まります。
しかし今年は、コロナ騒ぎでそれどころではありません。
というよりも、コロナを利用して、なにか大きな力が働いているとも思いますが、まあ静かなことは良いことです。
大型連休で大騒ぎをする風潮は、以前から私の趣味には合いません。
そういう意味では、コロナのおかげで世間は私の好みへと転じています。

しかし、残念なのは、今度はそれにあまりに同調して、自粛だとかステイホームだとか、過剰にまた反応している風潮です。
自分の人生を生きることを、多くの人は忘れてしまったのでしょうか。
実にさびしい。

昨日、細菌学者の益田さんと相談して、今度の土曜日に「コロナウイルスとの付き合い方」をテーマにしたサロンを湯島で開くことにしました。
こんな時期に、そんなには集まらないだろうと思いながら、案内を出したら、すぐに定員を超える人が申し込んできました。
早速お断りに回りましたが、これまた一体どうなっているのだろうかとちょっとすっきりしない気分でした。
来週も開催しなければいけないかもしれません。

いずれにしろ、今日から大型連休。
ユカが外出する気分ではないでしょうから、今日も在宅ですが、天気もいいので畑に行こうと思います。
しかし、畑に行くのも何となく億劫でもあります。

最近、私も時間のつぶし方がわからなくなってきました。
節子には信じてもらえないでしょうが。

 

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2020/04/28

■節子への挽歌4577:悪夢がやってきた日

節子

今日は大きな衝撃を受けてしまいました。
娘のユカが、体調が悪く検査を受けていたのですが、その結果がわかったのです。

結果はグレイ。
精密検査を受けることになったのです。

ユカのことなので、勝手には書けませんが、私もショックでした。
ユカにとっては、コロナウイルスどころではありません。
何事もなければいいのですが。

不安な数日がつづきそうです。
節子に守ってほしいです。

 

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■コロナ危機を活かす〔5〕改めて「自由か安全か」

2回も寄り道してしまいましたが、2つ目の帰路、「自由か安全か」に戻ります。

あなたは「自由」と「安全」のどちらを重視して生きているでしょうか。
「自由」と「安全」は、次元の違う話だから比べられないと思うかもしれません。
しかし、そんな発想こそを捨てなければいけないと私は思っています。

そもそも、厳密にいえば、対置できる概念などありません。
平和と戦争も対置されがちですが、次元が違います。戦争でないから平和というわけでもなく、平和でないから戦争というわけでもありません。
でも「戦争か平和か」と問われれば、多分多くの人は「平和」を選ぶでしょう。

同じように、「自由か安全か」と問われれば、感覚的に答えられるはずです。
そして現代の日本では、多くの人は、「自由」よりも「安全」を選ぶようです。しかも、自らの「安全」のために他者の「自由」を抑制することさえ正当化してしまっている。

話題になった先日放映されたEテレの「緊急対談 パンデミックが変える世界」でも、ジャック・アタリが、安全か自由かという選択肢があれば、人は必ず自由ではなく安全を選びますと話していました。
アタリが、そんなことを言うのかとがっかりしますが、「自由のために死を辞さない」時代は終わってしまいました。

20世紀後半になって、「安全」は私たちにとって日常の事柄になってきました。
それに伴い、「死」はだんだん、生活から見えなくなってしまいました。
毎日、どれほどの人が死んでいるか、ほとんどの人は意識できなくなりました。
日本では自殺者だけでも毎日100人以上はいるでしょうが(統計上は少し低くなっていますが)、ほとんどの人は何も感じていないでしょう。

そんな時に、新型コロナウイルス感染症の蔓延。棺桶の並ぶ映像とともに、今日は何人死んだという報道が毎日なされるようになりました。
数字だけなら他人ごとにしておけましたが、テレビなどで親しく感じている人の突然の訃報は衝撃を与えました。

そして急に「安全」指向が高まってしまった。
もし「自由」が「安全」を損なうのであれば、たとえ他者の自由も抑制すべきだ!
人々の行動原理は「自由」から「安全」へと変わってしまった。

人の自由を抑制するには、権力や罰則、強い政府が必要です。
それによって、強い秩序が維持されて、安全な社会が実現するかもしれません。

ウルリッヒ・ベックの提唱した「リスク社会」時代とも深くつながっています。
かつては「安全」は個人の課題でしたが、今や「安全」は社会全体の課題になってしまった。個人の手には負えないリスクの発生です。

つまり、安全と自由が共立しにくくなってしまったのです。
だから、自由よりも安全は、時代の大きな流れとしてもはや変えられないと多くに人は思っています。
個人の自由が社会の安全を壊し、回りまわって個人の自由を奪ってしまう。
自由の時代から安全の時代への移行です。

しかし、それでいいのだろうか。
各自の自由こそが社会の多様性を豊かにし、社会の安定を高めるのではないかと私は思います。
種の多様性こそが淘汰を生き抜く生命の効果的な戦略です。
人間社会もその例外ではないでしょう。

ポストコロナに関しては、自由な文化は消えてしまうのではないかという見方が多いようですが、むしろ安全志向の流れを反転させる契機にしていきたいと思います。
本当の「安全」は、自由の空気の上にこそあると思うからです。

だから私は、今日も吹き荒れている、パチンコ屋さんいじめには恐怖を感じます。
次はだれが狙い撃ちされるのでしょうか。

 

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■湯島サロン「新型コロナウイルスとどう付き合うか」のご案

新型コロナウイルスの影響でテーマサロンをしばらく休んでいましたが、再開することにしました。感染症の拡散には十分注意して、ですが。

再開第1回目は、まさにコロナウイルスとの付き合い方をテーマにします。
これまでも何回かサロンをしてくださった細菌学研究者の益田さんに、ウイルスに関する基礎知識をお話ししていただき、そのあと、Q&Aスタイルでのサロンです。

私はまったくの素人ですが、この2か月、テレビの報道などを毎日録画してかなり見てきました。しかし、理解できないというよりも、おかしな話が多すぎて、どうもすっきりしません。ウイルスや免疫に関する本も少し読みましたが、あんまり理解できません。

益田さんとやり取りしていたら、「濃厚接触と濃厚感染の違い」とか「誰もこのウイルスが本来の居場所を失った生物であることを理解してない」というような指摘をいただいたうえに、直接会って話そうかと言ってもらいました。
せっかくであれば、私だけでお話を聞くのではなく、私のように疑問をお持ちの方も多いでしょうから、益田さんにお願いして、「外出自粛の中のサロン」を開催することにしました。
ちなみに私も、最近の「接触」と「感染」を混同しがちな風潮には大きな危惧を感じています。

ただ湯島の部屋は狭いため、定員を8人に限定させてもらいますので、事前申し込み制です。定員になったら、ご容赦ください。
それとマスクは必ず着用してください。
申し込まれても、当日、体調など気になることがあったら気兼ねなく欠席してください。
コーヒーかお茶は用意しますが、ご心配の方は各自ご持参ください。

よろしくお願いいたします。

〇日時:2020年5月2日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「新型コロナウイルスとどう付き合うか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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■節子への挽歌4576:自分の小賢しさへの反省

節子

最近、午前中はコロナウイルス関係のテレビ番組を2時間ほど、見るようになってしまいました。
いずれも録画してみているので、例えば1時間番組も半分くらいの時間でみています。
定番はテレビ朝日のモーニングショーとBS-TBSの報道1930です。
いずれも参加している人の意見を聞くのが中心です。

こういうスタイルを始めてから2か月近くがたちますが、残念なのは議論がほとんど進展していないことです。
2か月前に、もしいま合意されつつあること(当時からモーニングショーでは提案されていました)を実践に移していたら、事態は全く変わっていたでしょう。
しかもその内容は、知識がなくても素直に考えれば当然行き着くことのように思います。
しかしいまだ持って、それにあらがっている力が働いているのが、驚きです。

日本という国家制度は、もはや一部の利権者たちのものに成り下がってしまったとしか思えません。
節子がいたら怒るでしょう。
生活感覚で考えれば、ほとんどの場合、方針は間違いません。
今回のウイルス騒ぎも、そうだと思っています。

生半可の知識が一番危険ですが、残念ながら、私もまた生半可の知識にすぐ頼ってしまいます。
それを気づかせてくれる人が、いまはいないのが残念です。

しかし、そういう番組を見ていると、人の生き方が見えてきます。
意見の違いはともかく、誠実に生きている人と器用に生きている人との違いは見えてしまいます。
言い訳で生きている人と実存的に生きている人の違いも見えてくる。
言葉で生きている人と命を生きている人も、です。

実は最近では、話の内容はもう繰り返し聞いているので、あまり新鮮味はないのですが、そういう人の生き方に関心が向いてきてしまいました。
信頼できる人というのは、最初の10分でわかるものだということにも気づきました。
残念なことは、そういう信頼できる人はそう多くないということです。
それにそういう人の言動を見ていて、私自身が全くそういう人ではないことに気づかされて、ちょっと寂しい思いをしています。
それなりに誠実にまじめに生きようと思っていますが、それはなかなか難しいことです。
自らの弱さと小賢しさ、不誠実さと卑劣さに、落ち込みそうになります。

それでいま、テレビの録画を見ながら、そのひとりの方をFBで探してメッセージを送ったら、驚くことにすぐ返信が来ました。
誠実さとは、そういうことなのだと改めて感心しました。
見習わなければいけません。

 

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2020/04/27

■コロナ危機を活かす〔4〕「仕事の価値を問い直す」

今回も「自由か安全か」の切り口から、思い切り寄り道です。

「自由」は、この数百年の、いわゆる近代において、私たちが望んでいた基本理念だと言っていいでしょう。
神への隷属から王への隷属という長い歴史の中で、「自由」が普遍性を持ち始めた。しかし、自由はいいことだけではありません。

サルトルは、「人間は自由へと呪われている」といいました。
人間は、自ら、自由に決断できる。しかし、その結果を自らで受け止めなければならない。そのため、一度、手に入れた「自由」から逃げる人も少なくありません。いわゆる「奴隷の幸福」を選択するのです。
命令に従って強制的に働かされる奴隷は、自分の頭で何をするべきか考える必要はないし、その行動の結果の責任もとらなくていいので、そこに安心を見つけ、幸せを感じる人は少なくないのです。
日本でも、明治以来の教育の成果で、自由を目指す人は少なく、「お上」に従うことをよしとする風潮は今なお強く残っています。

コロナウイルス騒ぎが、そのことを示しています。
「お上」に従わない人たちは、世間の冷たい目にさらされてしまっています。
そして、日本国中、事実も知らされないままの「目隠し」自粛ムードです。

しかし、「自粛」したからと言って、感染の「安全」が保証されるわけではありません。
ここまで市中感染や家庭内感染が広がっている状況では、どこにいても、クルーザー現象は起こりえます。
外出自粛とは「空間への閉じ籠り」でもあります。となれば、「換気」の悪い「三密」の発生につながっていく。

ちなみに、大切な「換気」は空気だけではありません。
しかし、不思議なことに誰もそれを問題にしない。「三密」論を信奉している人たちの住居は広く間取りにも恵まれ、家族関係にもめぐまれているのかもしれません。
しかし、そうではない住居空間に住んでいる人も少なくありません。

こうしたことの背後にあるのは、安全を維持するためにはみんなが勝手に行動する自由を制約するのがいいという認識があるように思います。
そこには政府の「国民観」と同時に、いまの社会を支えている社会原理が見え隠れしています。

昨日の朝日新聞に藤原辰史さんがこんなことを書いていました。

現在ニューヨーク市保健局が毎日更新する感染地図は、テレワーク可能な人の職場が集中するマンハッタンの感染率が激減する一方で、在宅勤務不可能な人びとが多く住む地区の感染率が増加していることを示している。これが意味するのは、在宅勤務が可能な仕事は、「弱者」の低賃金労働に支えられることによってしか成立しないという厳粛な事実だ。今の政治が医療現場や生活現場にピントを合わせられないのは、世の仕組みを見据える眼差(まなざ)しが欠如しているからである。

おそらく日本の経済社会も、同じような構造になってきています、
経済の現場は汗して働く低賃金の非正規労働者に支えられているのです。
テレワークしている正規社員の仕事の大半はなくてもたぶん経済は維持できるでしょうが、現場の人出がなくなれば、経済は回らなくなる。
ここに、「価値ある仕事」とは何なのかが示唆されています。

仕事の価値も含めて、私たちの社会(生活環境)を維持していくために不可欠な役割を果たしている人はいったい誰なのか、コロナはそれを見えるようにしてくれました。
ドイツのメルケル首相はこう国民に呼びかけました。

ここで、普段滅多に感謝されることのない方たちにもお礼を言わせてください。
このような状況下で日々スーパーのレジに座っている方、商品棚を補充している方は、現在ある中でも最も困難な仕事のひとつを担っています。同じ国に住む皆様のために尽力し、言葉通りの意味でお店の営業を維持してくださりありがとうございます。

仕事の価値を改めて考え直したい。
そして現場で頑張っている作業の報酬対価がとてもその価値に見合っていない現在の状況に、疑問を持ちたい、と私は思います。

思い切り寄り道してしまいましたが、コロナ禍が「仕事の価値を問い直す」契機になれば、社会は間違いなくよくなるはずです。

 

 

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■節子への挽歌4575:人の死は突然やってきます

節子

人の死は突然やってきます。
私にも、突然亡くなった若い友人が何人かいます。

スエーデンでのヒッピー暮らしから帰国しビジネスマンになったMさんは、私が会社を辞めた時に、私を表参道の喫茶店に連れて行って、うちの会社に来るか、喫茶店をやるか、どうしますか、と問いかけてきました。
もう2度と会社に属するつもりはなかったのですが、彼との付き合いは続きました。
しかしどんどんビジネスマンになり、経営者の一員になったのですが、突然の訃報が届きました。

Kさんは、もっと若く、大企業の広報で活躍する傍ら、都知事になった作家の社会活動を手伝っていたり、趣味の作曲などをしていて、もかくハードな毎日でしたが、時間の合間をぬって湯島にもよく来ていました。
ところが、そんなある日、突然の訃報が届きました。
朝、なくなっていたのを同居していた両親が発見したのです。
まだ30代前半でした。

私がまだ会社に勤めていたころ、突然会社にあるプロジェクトを売り込みに来て、とても気があってビジネスとは別に付き合いが始まった天災的なマーケッターだったAさんは、私が会社を辞めた時に黄色のチューリップを50本届けてくれました。
またゆっくりと会いたいと思っていたら、訃報が突然届きました。

3人とも健康そのものでした。
まさかの訃報でした。

ほかにも、突然の訃報をもらった人が何人かいます。
いささか不審な突然の死もあります。

そういえば2月に急逝したKさんも、あまりにも突然の訃報でした。
もしかしたら、コロナウイルスのせいかもしれません。
最近、そんな気が強くしてきました。

そして思うのですが、死は決して防ぎようがない。
ウイルスは目指した人を逃がしはしない。
カミユの「ペスト」を最初に読んで以来、ずっと心にひっかかっていたことは、なぜ医師のリウーはペストにかからずに生き残ったのか、ということです。
人の死は定まっている。
そういう思いがずっとあります。

なぜか今日は、こんなことを思い出して、突然言ってしまった友人たちの顔を思い出しています。

空が暗くなり、風が吹いてきました。
雨になりそうです。

 

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■節子への挽歌4574:最近の朝食

節子

庭の藤やテッセンが咲き出していますが、今年の庭はあんまり元気がありません。
まあその原因は、私があんまり手入れをしていなかったからですが。
花の手入れは、思い付きではだめで、時間をかけて付き合わないといけません。
私にはどうもそれが苦手です。

今日はあまり天気が良くありませんが、下のハケの道を散歩している人は今日も多いです。
人はやはり外に出たくなるのでしょう。
歩くことで体力は維持できますが、私は時に歩数計がゼロの日があります。
困ったものですが。

コロナに感染しても大丈夫のように、食事には気をつけだしています。
もともと私は「グルメ」ではありませんし、そもそも食べるという行為にあまり価値を見出していません。
しかし、朝食にはそれなりに気をつけるようにしています。
節子の時代よりも豊かになっているかもしれません。

まずはコップに半分くらい、市販のジュースを飲むことから始まります。
最近はアセロラジュースが定番です。
つづいてコーヒーをマグカップにたっぷり一杯。
以前はいろいろとトライもしましたが、最近はスーパーで購入しているUCCの安いコーヒー粉を使っています。

主食はトーストですが、一時はニンニク入りのオリーブ油でしたが、最近はまた単なるマーガリンに戻ってしまいました。
娘に頼んでたくさん作ってもらったら、飽きてしまい放っておいたらカビが出てきて、廃棄する羽目になったのです。
以来、娘は作ってくれなくなりました。
マーガリンをかなりたっぷりと塗って、そこにペッパーソーセージを2枚、その上にレタスをたっぷり重ねます。

コーヒーとは別に青汁入りのバナナジュースをユカが作るのでそれをコップ1杯もらいます。
加えて、最近は牛乳とヨーグルトを合わせたラッシーも作りますので、朝食は飲み物でおなかがいっぱいです。
朝の果物はわが家では節子以来、必須なのですが、最近はリンゴが柑橘類です。時にキウイがあります。

シャウエッシェンのソーセージやハムエッグかゆでたまごが加わることもありますが、まあそれは2日に1回くらいです。
また小さなパック詰めの海藻類も時々、スーパーで買ってきて、加わります。
しかし最近は週1回の買い物になってしまったのでいつもあるわけではありません。

まあこんなわけで、朝食はそれなりに頑張っています。
これが、たぶん私がウイルスにもめげずに頑張っている理由の一つです。

基本的には節子がいなくなってからは、朝食は各自が作ることになっています。
時々、私が5時ころ起きて朝食をすることもあるのですが、その場合は、7時にまた青汁ジュースを飲みに2度目の朝食です。
もう一杯、コーヒーも飲みながら。

パンはスーパーで購入するフジパンの本仕込ですが、時々、ユカがサンジェルマンのパンを買ってきてくれます。
これが実においしくて、本当は毎日食べたいのですが、フジパンよりもかなり高いそうで、月に1~2回しか食べられません。
わが家には製パン器もあるので、自分で作ることも考えたこともありますが、私もユカも調理は苦手なので、いまは誰も作ろうなどとは思いません。

昼食と夜食は娘のユカの担当ですが、最近、ちょっとちゃんと作ってくれるので、ついつい食べ過ぎてしまいます。
そのためにこの2か月で34キロ太ってしまいました。

しかし太ったのは、もしかした食事ではなく、間食のせいかもしれません。
自宅にいると、何となく何かを食べたくなってしまいます。
困ったものです。

 

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■西浦さんのグラフに私がおかしいと思った点

西浦さんのグラフに、私がおかしいと思った点は2つです。

まず、「接触8割減」になると1か月ほどで、新規感染者がゼロになるということです。
次に、そのあとのことが何も示唆されていないことです。

つまり、政策検討の材料にはなっても、政策の根拠や説明にはならないと思います。
数理モデルは、これまでも往々にして、政策の正当化のために利用されてきました。
その典型例だと思ったのです。

しかもそれは、安倍政権の脅迫的自粛政策に加担し国民を委縮させました。
この図を毎日見せられて、みんな「外出自粛合唱」を始めました。
サーファーやパチンコ愛好者は、社会の敵にされてしまった。
そしていつの間にか、感染予防が接触予防となり、人々の間にソーシャルディスタンス、つまり不信感を生むことになった。
私はそう考えています。

西浦さんの数理モデルを否定しているわけではなく、そこにもっともらしい数字を当てはめ、ウイルス禍は一過性であるという印象を与える政策に格好の道具を与えたことに、学者としての良識を疑ったということです。
もっとも、あのグラフによって、自粛姿勢が強まり感染が収まったではないかといわれるかもしれませんが、それは否定はしません。しかし、それによって失ったものを考えてほしいです。

新規感染がゼロになるということはあり得ませんし、既存感染者の中にウイルスは残っていますから、このグラフは実は次々と重なっていくはずです。
実験室でのウイルス拡散の1シーンに関しては、これは成り立つでしょう。実験室のモデルを、きちんとした説明もせずに現実世界に安直に当てはめないでほしいと思います。
実際には、このグラフが何枚も重なって。現実を構成してくはずです。
それをベースに政策は考えられているはずですが、それは一切見えてこない。

ほかにも疑惑はたくさんあります。
感染者の8割はウイルスを感染しないなどということがどうしてわかるのか。
検査者数を示しもしないで、感染者数を発表することの意味は何なのか。
PCR検査能力は議論されても、実際の検査数は話題にしないのはなぜなのか。
要するに、みんな西浦さんと同じように、数字の遊びをしているだけではないか。
そういう気がしてならないのです。

今回のウイルス対策は、最初から事実を把握しようという姿勢があまり感じられませんでしたが、いまもって事実を把握しようという動きが出てこない。
なぜマスクがまだ不足なのか、医療用具がなぜ不足なのか。
致死率はどのくらいなのか、個人としての感染予防と感染後をどうしたらいいのか。
恐怖は広がっていますが、むしろそのために、個人として身を守る術をそれぞれが考える風潮が出てこないでいるような気さえしてしまいます。

いささか言いすぎていることは、重々承知していますが、この数か月に少なくないコラテラルダメッジが生まれているような恐ろしさを感じています。

 

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2020/04/26

■西浦モデルへの疑問

先日、フェイスブックに、コロナ鎮静化と接触率のグラフに関して、あれほどひどい「まがい物」はないのではないかというようなことを書きました。
言い過ぎではないかと叱られました。

しかし、政府も東京都知事も、これをよりどころにして、「外出自粛」を呼びかけていて、日本国中、「外出自粛」風潮に覆われています。あのグラフに日本国中が振り回されているように思えます。
それほどの影響を与えている西浦グラフは、ちょっと素直に考えたら、いかにおかしいものであるか気づくはずです。私には、あれは「詐欺師のモデル」としか思えません。

西浦さんの属するチームの取り組む「クラスター発想」も、私にはひどいものだと思い、コロナが話題になりだしたころから疑問を呈してきましたが、いまもってまだ、クラスター追跡などをやっているのは、私はコロナをはやらせたいのかと疑いたく思うほどです。

それにしてもまだ西浦モデルがテレビで活躍しています。
医療関係者にはまともな批判をしている人はいないのかと思って、先ほどネットで調べてみました。
そうしたらいろいろと情報発信している人がいる事がわかりました。

一番説得力があったのは、藤井聡さんの次のユーチューブです。
https://www.youtube.com/watch?v=Vu3EbKx_uU4

ぜひみなさんにも見ていただきたいです。

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■節子への挽歌4573:スカスカの生活

節子

今日は完全在宅でした.
テレワークではないですが、ほぼパソコンに向かっていました。

改めて思ったのは、コロナウイルスのおかげで、みんなの生活スタイルは大きく変わっていくだろうということです。
時間感覚も大きく変わるでしょう。
少なくとも私の場合は、2か月ほど前から、時間密度がスカスカになってしまい、緊張感がなくなってきてしまいました。
これになれるには、かなり大変そうです。

時間がたっぷりあると先送り志向が強まるというのが、これまでの私の傾向でしたが、まさに今そういう状況になってきています。
困ったものです。

節子が元気だったころにもし、こんな状況が生まれたら、きっと豊かな時間を過ごせたでしょう。
あの頃は、いつも時間に追われていたような気もします。
少なくとも私はそうで、節子はいつも、私のことをワーカーホリックと思っていたでしょう。ともかく、仕事が好きでしたから。少しでも時間ができれば、パソコンの前に座っていました。

しかし、いまはたっぷり時間があっても、パソコンの前には長くはいられません。
今日はめずらしくかなりの時間をパソコンの前で過ごしましたが、それはやることがなかったからであって、何かお目当てがあったわけではありません。

いろんな人が、動画や情報サイトを紹介してくれますが、そうしたものには正直、あまり食指は動きません。
一般的に流れている情報は、あまりに退屈ですし、それを知って何かが変わるわけでもありません。

しかし、今日はちょっと共感できる小論に出合い、読ませてもらいました。
時評編に書いた、藤原辰史さんの「パンデミックを生きる指針」です。
とても共感できる内容でしたので、FBやメーリングリストで紹介させてもらいました。
そうしたらこれもまた意外な人からメールが届いたりしました。
みんなやはり時間を持て余しているのかもしれません。

スカスカの時間の生活も、時にはいいようです。

 

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■コロナ危機を活かす〔3〕「これまでの行動を問い直す契機」

「自由か安全か」をもう少し考えてみます。
これは対置される概念ではありませんが、その根底に岐路につながるものを感じます。
それに私たちの日常につながっていてわかりやすい。

ちょっと寄り道します。
いま多くの人は外出自粛に従っていますが、それは「安全」を大事にしているかです。
「安全」は、感染に伴う安全だけではなく、社会の目から自らを守る「安全」でもあります。
営業自粛しないお店への非難やマスクをしていない人への冷たい視線。
湘南海岸でサーフィンをしている人への多くの人の目も、私には冷たく感じますが、同調圧力に抗うのは、だれでもできればやりたくないでしょう。

それにしても、これまでは観光客を盛んに誘致していた人が、「来ないでくれ」という神経が私にはまったく理解できません。「呼びかけよう」があるでしょうに。
しかし、これまでの過剰な誘致観光に強い違和感をもっていたので、これを機会に「観光」とは何かをきちんと考える動きが出てほしいと思っています。
状況が戻ればまた相手が誰であろうとお金を落としてくれるのであれば、見境なく誘致する姿勢に戻るでしょうか。
確信は持てませんが、もしかしたら金銭主義を見直す動きが出るかもしれません。
「観光」の意味が変わっていく可能性はあるでしょう。
いや変わっていく契機になるかもしれない、そう期待しています。

しかし、こういう期待は、「観光」だけではありません。
自らの生き方に関しても、いろいろと考え直すことがたくさんあるでしょう。
いまは、たとえば、「外出自粛」というような形で、外部からの指示で、あるいは社会的同調圧力で、生活を変えている人が多いでしょうが、その体験が一部の人に「生き方は変えられる」ことを気づかせてくれるかもしれません。
たとえ一部の人でも、生き方を変えれば、社会は変わっていくかもしれません。

ところで、「自粛」というのは、「自由」に制約を与えるということです。
しかし、よく考えてみると、実は「自粛」は「自由の回復」なのかもしれません。
つまり、これまでの生活そのものが、自由の抑制の上に成り立っていた。
これほどまでにすんなりと、外出自粛が浸透し、通勤電車がすいてきたのは、実は、「自由の回復」だったと考えれば納得できます。

つまり、安全の名目で、みんな「与えられた自由」を手に入れたのかもしれません。
そう考えると、「自由が安全か」は全く違った示唆を与えてくれることになる。
そして、それこそが、私たちの生き方を変える契機になるかもしれないと思えてきます。

この続きは明日にします。

 

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■皆さんにも是非読んでほしくて紹介させてもらいます

今朝の朝日新聞で、藤原辰史さん(農業史・環境史)の寄稿を読み、そこから藤原さんが書いた「パンデミックを生きる指針」という論考のPDFを読ませてもらいました。
とても考えさせられる論考です。
公開されていますので、ご紹介します。

https://4342919d-57cf-4411-9568-147a94fa1b0f.usrfiles.com/ugd/434291_59362cd22dfb4b998a9da1bf76c09c5a.pdf

たとえば、こんなメッセージにとても共感しました。

世界現代史は一度だって看護師などのケアの従事者に借りを返したことはない。
本当に怖いのはウイルスではなく、ウイルスに怯える人間だ。
人びとが、ただでさえ蔓延していた潔癖主義に取り憑かれ、人間にとって有用な細菌やウイルスまで絶滅の危機、それによる体内微生物相の弱体化、そして免疫系統への悪影響に晒されるかもしれない。
組織内、家庭内での暴力や理不尽な命令に対し、組織や家庭から逃れたり異議申し立てをしたりすることをいっさい自粛しないこと、なにより、自粛させないこと。
危機は、生活がいつも危機にある人びとにとっては日常である、というあたり前の事実を私たちは忘れがちである。

そして、私が一番、共感したのは次の一文です。

試されるのは、いかに、人間価値の値切りと切り捨てに抗うかである。

 

 

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■節子への挽歌4572:湯島サロンでお茶を点ててくださいました

節子

時評編に書きましたが、昨日、湯島でサロンをやりました。
この時期に電車に乗るのは危険だという人もいますが、逆に電車は空いていますので、危険性はそうありません。
できるだけ何にも触らないように注意していれば、そう危険性はないように思います。

2週間ぶりの湯島でしたが、洗面所の電気がつけっぱなしでした。
前回、きちんと確認したかったためですが、水が出っぱなしだったり、エアコンがついていたりしたこともありますが、いろんな人が使うので、注意しないといけません。
前月は、使用水道料が例月の5倍以上だという注意書きが投かんされていました。みんなで使うということの難しさかもしれません。

植物はみんな元気でした。
郵便受けは満杯でしたが、あふれてはいませんでした。

サロンには5人の参加者がありました。
その中の2人は、コロナ騒ぎで元気になったという人でした。
ひとりはいろんな相談に乗る活動をしている人ですが、相談事が増えてきて、自分のやるべきことが増えてきたのが理由のようです。
もう一人は、本人自身、いろんな難題によってメンタルダウンしてしまい、少し前までは湯島にはとても来られない状況だったそうです。
コロナ騒ぎでもっと大きな問題に囲まれ出して、そんな自分が抱えている問題が相対化できたおかげで、元気になったのではないかと推測しましたが、これまで何回か来ていた湯島サロンで、これほどアクティブな彼を見たのは初めてです。
私には、2人の様子はうれしいことです。

ところで今回は、最近サロンの情報売れになってきたIさんがお茶のお点前を持って参加してくれました。
そして入ってくるなり、お茶を点ててくださり、みんなにふるまってくれました。
お茶請けの和菓子までも。
抹茶の緑と香りを味あわせたかったというのです。

遠くからわざわざ電車でやってきてくださる勇気もさることながら、そのお心遣いに感謝しました。
やはりいざとなったら強いのは女性です。

 

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■土曜サロン(20200425)の報告

昨日の土曜サロンは5人の人が参加しました。

参加者のおひとりがお抹茶をたててくれました。
こういう時期こそ、抹茶の緑と香りを楽しみながら、心をなごますのがいいと、わざわざお茶のお点前を持参してくれたのです。
しかもお茶請けの和菓子までも。
とてもおいしかったです。

話題はやはりいまのコロナ話とそれへの政府や社会の対応が中心でした。
コロナ後の社会の話もだいぶ出ました。
いまこそ上杉鷹山ではないかという話がありました。

マスクの話も出ましたが、アメ横ではマスクは出回っているそうです。
ただ、中国からのマスクは仕入れは高騰しているそうです。

「不要不急」の仕事の話も出ましたし、「働き方改革」に関する話も出ました。
ただし、世間で話されている事とはかなり、いやまったく違った内容かもしれません。

 コロナ騒ぎで、課題が出てきて、元気になったという話も出ました。
コロナにおびえ、コロナが通り過ぎるのを待つだけではなく、自分で考え行動する人が少しずつ出てきていることを、ちょっとだけ実感できました。
そういう人が6人でもいるだけで、元気が出ます。

みんないろいろなことを考えているのでしょうが、やはり話し合う場が広がるといいと改めて思いました。
お茶会サロンもなかなかいいものだと思いました。

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2020/04/25

■コロナ危機を活かす〔2〕「自由か安全かの岐路」

今回は2つ目の岐路、「自由か安全か」を少し考えてみます。
これは、私たちが「政治」に何を期待するかにもかかわっています。
「小さな政府か大きな政府か」とか「自由主義か民主主義か」という問題です。
しかし、まずは個人に視点を置いて、考えてみたいと思います。

今日、私は湯島のオフィスに出かけます。
コロナ感染の危険性があるので、娘は反対しています。
もし私が感染したら、高血圧で高齢なので危険ですし、娘は肺に関する基礎疾患を持っていますので、これまた危険です。
私が感染したら娘にも感染し、さらに社会的にも感染拡大に加担することになります。

みんなのために外出自粛が社会的にも求められていますので、問題は「私だけの安全」ではありません。
社会の安全があってこその、個人の安全です。
私だけが「自由」に決められることではありません。
それでも私は今日、湯島に行きます、というか、行けます。
別にわが身を拘束されているわけではないからです。
しかし、その私の「自由な行動」が、他者を傷つけ、他者の自由を奪う恐れはゼロではありません。

自らの自由のために他者の自由を踏みにじったら、どうなるでしょうか。
その自由は、おそらく維持するためにさまざまな負担を強いてくるでしょう。
そして結局、自らの自由を実質的には不自由なものにしていきます。
長い目で自由を得たいのであれば、他者の自由も認めなくてはいけません。

こうして、自由もまた安全と同じように、自分を超えて、社会の問題につながっています。社会に自由があってこその、個人の自由です。
社会契約の考え方も、自らの自由を確保するために社会による規制を認めるというパラダイムです。
ベンサムは「最大多数の最大幸福」といいましたが、それは「最大多数の最大自由」なのかもしれません。

「自由か安全か」は、個人の話ではなく、社会のありようの話なのです。
いい方を変えると、個人(生活)を起点で考える社会か、社会(秩序)を起点で考える社会か、ということになります。
私は、若いころからずっと前者を前提にした生き方をしていますし、それに向けての活動をしてきました。
個人一人ひとりの自由と安全があってこそ、自由で安全な社会が成り立つと考えていたからです。

しかし、残念ながら時代はそういう方向にはなかなか動きませんでした。
多くの人は、「自由」よりも「安全」を求めているような気がしていました。
そして、今回のコロナ危機。

コロナによって、いま、「安全」を優先させて、「自由」を抑制する方向に大きく傾いているように見えます。
しかし、その一方で、「社会(秩序)」のために「個人(生活)」を犠牲にする状況も可視化されだし、それへの問い直しの動きも出ています。
過重な負担の中で働かざるを得ない医療関係者、あるいは保証もされないままに営業休止に追い込まれる事業者、さらには感染防止の名目で家庭に閉じこめられ、ネットカフェからは追い出される居場所のない人たち。

「社会のため」が「社会を壊す」ということは、かつてバブル経済がはじけた時によく言われた言葉です。
今回のコロナ危機もまた、そうしたことを可視化し、そうした動きの中から、これまで隠されていたさまざまな「自由」と「安全」の問題が顕在化されてきていますので、それが社会を変えるばねになるかもしれない、そう考えていました。

しかし、「自由か安全か」の岐路はそう簡単ではありません。
そこに、個人か社会かを重ねると、道は4つに分かれてしまうからです。
しかし、たとえば、スペイン戦争で生命を賭して立ち上がったレジスタンス、チェルノブイリ原発事故の処理のために自らの生命を差し出して解決にあたった炭鉱夫たちの事例を思えば、岐路はやはり2つなのかもしれません。
自己の自由と安全は、社会の自由と安全に重なっているからです。

宮沢賢治も、社会すべてが幸せにならないと個人の幸せはないと言いました。
そう考えると、道を分けるの「自由か安全か」ではないのかもしれません。
もう少しきちんと考えないといけません。

実はこれを書き出すときには、最近の風潮である「安全のために自由を抑制する風潮」が安全を失わせていくというようなことを書く予定でしたが、書いているうちに迷いが出てきてしまい、当初とは違う展開になってしまいました。
もう少し整理してから公開すべきかもしれませんが、迷いのプロセスも書いておくことにしました。

いずれにしろ、もう少し考えてみたいと思います。
時間はたっぷりとありますので。

 

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■節子への挽歌4571:手づくりラッシー

節子

今朝の朝食からメニューがひとつ増えました。
手づくりラッシーです。

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学校給食がなくなったので、牛乳が余って困っていることを知りました。
そこでユカに頼んで、最近は牛乳を余分に買ってきてもらうことにしていますが、どうも牛乳は苦手です。
そうしたら、ユカがラッシーにしたらどうかと教えてくれました。
ちかくのネパールカレーのお店で、カレーを食べるときには私はいつもマンゴラッシーを一緒に頼むのをユカは知っているのです。
まさかラッシーをそんなに簡単に作れるとは思ってもいませんでした。

作り方はヨーグルトと牛乳を混ぜて、そこにレモン果汁を加え、砂糖を入れればいいそうです。
幸いに材料はすべてそろっていました。
ついでに残っていたメロンシロップを加えたら、おいしい仕上がりになりました。
ヨーグルトを使わなくてもできるよとユカが教えてくれたので、早速、今朝からメニューに入れたのです。
これで少しは酪農家のお役に立てるでしょう。

コロナ対策で、最近は食事には気を使っています。
きちんと寝て、食べて、休む。
これが私のコロナ対策です。

ところで、このことをフェイスブックに書いたら、「牛乳を搾り取られる乳牛への酪農家の虐待への思いがない」というような非難を受けたのです。
それが前の「佐藤さんは変わった」というコメントにつながっているのです。
公開で思いを発すると、いろんな非難や攻撃を受けますが、異論はともかく、攻撃には悲しくなります。
これが昨夜からのちょっと気が滅入っている原因ですが、攻撃や非難をする人のほうが、実際にはつらいのです。
それはわかっているのですが、ちょっと寂しくなります。

ちなみに、同じフェイスブック記事に、「本当に佐藤さんは優しいですね。感心します」というコメントも書き込まれました。
いずれのコメントも、書き込んだ人の状況を知っているだけに、言葉の奥にある意味が伝わってきて、複雑な気分です。

思いを開いていくことは、時につかれますが、基本的には元気をもらうことが多いのです。
しかし、そうした社会も、もしかしたら壊れてしまうのではないかと、最近ちょっと心配ですが。

 

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■節子への挽歌4570:食卓でのパソコン

節子

穏やかな朝です。
朝起きると、まずはパソコンに向かい、届いているメールやFBのコメントへの返信などに取り組むのですが、今日はリビングに降りてきて、一人で早々と朝食を食べてしまいました。
いつもは7時ころにユカと一緒にしているのですが。

そのまま、しばらくボーっと外を眺めていました。
静かです。

リビングからは、手賀沼湖畔沿いの自動車道路が見えるのですが、自動車よりも、犬の散歩やジョギングなどのほうが目に入ります。
自転車も多いです。

そういえば、節子と、朝、一緒に自転車で水の館まで通っていたことがありました。
あれは闘病中だったのでしょうか。
なにしろ過去の記憶の時間軸が混乱しているので、どちらだったかわかりません。

今朝、フェイスブックに私が変わってしまったというコメントが書き込まれていました。
そこに、私がかつて、この挽歌に書いた、いささか過激な言葉がいくつか引用されていました。
そして、あの頃の佐藤さんはどこに行ったのかと詰問されてしまいました。
それを読んで、今朝はパソコンを続ける気がなえてしまい、リビングに降りてきたのですが、食事を終えて、ぼんやりと外を見ているうちに、無上にむなしくなってきました。
そして気持ちを吐き出したくなりました。

最近、友人に直してもらったノートパソコンをリビングで使っているのですが、それを食卓にもってきて、いま食卓でこれを打っています。
そういえば、節子はノートパソコンをダイニングにおいて、時々、不器用に打っていましたね。
それ用の小さなテーブルまで作って。
そのテーブルも今はありません。

ユカが下りてきそうです。
食卓でパソコンをやっていると叱られるでしょう。
とりあえず、少し気分が軽くなりました。

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■節子への挽歌4569:ストレス・パンデミック

節子

コロナウイルスの影響で、外出や行動への制約が増えてきているうえに、連日、感染症の恐怖情報が流れているので、社会にストレスがたまってきているようです。
その影響は、私にさえ、まわってきています。
こういう時こそ、誰かと会って、ストレスを吐き出すのがいいのですが、いまはそれができない状況ですから、それこそストレス・パンデミックが起こってもおかしくありません。

感染回避のために自宅に閉じこもると、今度は家庭内DVや家族崩壊の危機が生まれ、感染防止のために休業すれば、家計を維持できずに破産の危機が生まれる。
すべてのことがつながっている人生においては、問題の解決はなかなか難しい。

コロナ危機で、メンタル的に元気になった人もいれば、ますます病んでいく人もいる。
まさにさまざまな人生が、コロナ危機によって、明らかになってきています。
そうした周辺の人の動きが、私にも降りかかってきて、私自身、精神的な疲れもすこしたまりだしている気がします。
これを機に、社会との関係を変えようかという思いがどこかから頭を持ち上げそうで心配です。

私にあてた「遺書」を書いたという人がいます。
私には送られていきていませんが、メールでその旨教えてもらいました。
どうしたらいいか、皆目、見当もつきませんが、ストレスはいろんな言動を起こさせます。

今朝は、また、私への決別のメールが届きました。
私が変わってしまった、と厳しく責められたうえに、です。
私を責められるほどに、その人が元気になってきたとも受け止められますが、そうであればいいのですが、その反対かもしれません。

ストレスに弱い人もいれば、ストレスに強い人もいる。
コロナ危機は,そうしたことを非情にも露わにしてしまいます。
人の哀しさに出合うのは、滅入ることが多くて、哀しいです。

今日は久しぶりに湯島に行きます。
ひどい状況になっていなければいいのですが。

 

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2020/04/24

■節子への挽歌4568:兄夫婦の顔を見に行きました

節子

今日は思い立って、お墓に行きました。
さすがにお参りの人は皆無でした。
先日の菊の花がまだがんばって咲いていました。

お墓に立ち寄ったのは、兄夫婦の家にちょっと顔を見に行ったからです。
新型コロナで、いつ、会えなくなるかもしれません。
まあそんなこともあって、顔だけを見に行ったわけです。

最近は外出も控えているようですが、万一のこともありますので。
幸いにいまのところは2人とも異常なしです。
家に入るのもちょっと気が引けたので、マスク越しの奇妙な会話でしたが。

岡江さんの急逝は他人事ではありません。
いつ同じようなことが私にも起こるかもしれません。
一応、そのための準備だけはしておこうと思ったわけです。

感染症は、人の別れを残酷なものにします。
死に際にも直接接触できないのでは、立ち直れなくしてしまうかもしれません。
なにか方法があるはずですが、私が当事者になったら、たぶん禁を犯したくなるでしょう。

いつ別れが来るかもしれないという緊張感を持って、健康の人と付き合うのは初めてです。
それも含めて、いろいろなことを考えるいい機会になっています。

 

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2020/04/23

■節子への挽歌4567:63歳の岡江さんのコロナ死

節子

敦賀にいる節子の姉からタケノコが届きました。
いつも送ってくれるのですが、姉夫婦も高齢で、タケノコ堀りも大変なはずですが、私がタケノコ好きなので頑張ってくれているのでしょう。
今年はタケノコの当たり年で、最近はほぼ毎日、何らかの形でユカがタケノコを料理してくれています。
おかげで食が進み、さらに体重が増えています。
困ったものです。

コロナでタレントの岡江さんが亡くなりました。
63歳、節子と同じ年です。
抗がん治療中だったため、免疫力が低下していたと言われていますが、それにしてもあっけない話で、これでまたコロナに対する恐怖感は広がるでしょう。

人はみんな、なかなか「死」を実感できないものですが、岡江さんの死は多くの人に「死」を実感させてくれるでしょう。
毎日、死者の数ばかりが報道されますが、それではだれも死を実感できません。
個人の死だけが、死を実感させてくれるのです。

こうやって、死が次第に身近なものになってきています。
私の場合は、最も身近だった節子の死を体験しているので、死の実感は持てるのですが、恐怖感はありません。
なぜなら死の向こう側に節子がいますから、死によって節子に会えるというイメージを持てるからです。
しかし多くの人は、死の実感は不安や恐怖につながるのかもしれません。

死のイメージは人によって全く違うのでしょう。
しかし、感染症によって死んでしまうのは最後に見とれないし、見送れないようなので、残酷です。
感染症で死ぬのだけは避けたいなと、最近思ってしまうようになりました。

岡江さんの伴侶と娘さんの悲しさと辛さがわかる気がします。

 

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■コロナ危機が可視化してくれた3つの岐路

今回の新型コロナウイルスのパンデミック(コロナ危機)は一過性の危機ではなく、これによって、社会は大きく変わっていくだろうと言われています。
何がどう変わるかに関しても、さまざまな指摘が行われていますが、私なりに少し考えてみたいと思います。

コロナ危機は私たちにとってのいくつかの「岐路」を可視化してくれているような気がしますが、いまここで、どの道を選ぶかで、これからの社会の方向が決まっていくはずです。
それは、決して他人事ではないばかりか、自らの人生にもつながってきますし、ひとりの行動が社会を変えていくことにつながっていくかもしれません。
ただ単に「コロナ危機」を乗り越えた、で終わるのではなく、この「危機」を契機にして、未来を良いものに変えていくことができれば、いまの苦労も報われます。

ではどういう岐路に立っているのか。

第1の岐路は、「取り合いか分かち合いか」です。
これまでの経済や社会の基調は「取り合い」でした。
政治は利益の配分でしたし、経済は利益の取り合いでした。
今回のコロナ騒ぎでも、まさにそうした動きがさまざまなところに見えています。

しかし、その一方で、支え合う政治や分かち合う経済の動きも広がっています。
たとえば、経済でいえば、市場を中心としたマネタリーエコノミー(資本主義経済)は依然、支配的ではありますが、生活(コモンズ)を中心としたソーシャルエコノミーへの動きも静かに広がりだしています。これまでの経済観に囚われているとそうした動きはなかなか見えてきませんが、コロナ危機は、そうした動きを可視化し、加速しているように思います。
経済の枠組みそのものが大きく変わりだしてきているのです。

第2の岐路は、「自由か安全か」です。
リベラル・デモクラシーの矛盾が顕在化し、民主主義か自由主義かという選択においては、少なくとも欧米や日本では、自由主義へと重心が向いていました。
そのため「民主主義の危機」が叫ばれてきています。

しかし、それと合わせて、「リスク社会」化を背景に、「自由か安全か」が大きな問題になってきています。
民主主義か自由主義か、と、自由か安全かは、深くつながっています。
コロナ危機状況の中で、日本では、多くの人が、自由よりも安全を選択していますが、その安全が将来的には不安全を内包していることにはあまり意識が向いていません。
また、民主主義や自由にどう影響を与えるかも、あまり考えられているとは思えません。

この問題は、さらに、「同調か自律か」という第3の岐路につながっています。
民主主義を「個人の尊重」ととらえれば、その基本には「自分で考える」個人という主体的な存在が不可欠ですが、少なくとも最近の日本においては、「自分で考える」ことは生きにくさにつながってきています。
組織の中で「自分の考え」にこだわっていると、うまくいかず、最悪の場合は死に追いやられます。

そこまでいかなくとも、自分を殺して組織のために行動することが多くの人の生きる基準になってしまっています。
組織の力と個人の力ではいまや勝負にならない関係になってしまっています。

そのために、自分で考えることが人間である条件だと思っている私には、いまや日本から人間がどんどん消えてきていると思っていますが、もしかしたらコロナ危機がそれを反転させてくれるかもしれないと根拠もなしに思い出しています。
なぜなら、結局、自分でしっかりと考えていかないと安全は守れないことにみんな気づくのではないかと思うからです。
コラテラル・ダメッジがはびこる組織では、個人の安全は本来は守られないのです。

ほかにもいろいろな岐路があります。
小さな国家か大きな国家か、あるいはグローバリゼーションのスタイル。
ソーシャルディスタンスに象徴される、人間の関係性に関する岐路。
いろいろあります。

新型コロナウイルスが恐ろしいのではありません。
それにどう対処するかが大切なのです。
対処の仕様では恐ろしい状況を生み出しますが、私たちの未来にとって、幸いをもたらしてくれるかもしれません。
恐ろしがってばかりいるのでは、未来は開けてきません。

このシリーズはブログで少し書き続けようと思います。
5月にはこれをテーマにサロンもやりたいと思っています。

 

 

 

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■節子への挽歌4566:我が家を改造することにしました

節子

今日は朝から陽光が燦燦と降り注ぐ、好天気です。
太陽の光によって、人の気持ちは大きく変わります。
世間は相変わらず新型コロナにおびえている感じですが、この陽光を浴びたら、コロナウイルスも収まるのではないかとつい思ってしまいます。

庭のフジが咲き出しました。
数年前の台風で藤棚もろとも無残に倒れたのですが、そこから少しずつ復活してきました。
ただ肝心の幹が途中から折れてしまったので、うまく育てられずに、小さな枝が途中から伸び放題で、藤棚を形成できずにいます。
きちんと手入れすれば、もしかしたらもう復活していたのかもしれませんが、この数年はそういう気が起きてきませんでした。

玄関のバラも一輪、咲き出しました。
ウイルス騒ぎを横目に、春は間違いなくやってきています。

ところで、次女家族と同居しようかと考えだしています。
そのためには家を改造する必要があります。
2家族でシェアするための広さは数字の上ではあるのですが、何しろ同居などを想定しないで設計した家ですので、改造が難しいようです。
なにしろ家族4人が好き勝手なことを言って、作り上げた家なので、専門家から見ると無駄な空間がとても多いのです。
私も節子も、その無駄な空間が好きだったのですが、いざリフォームするとなって見直してみると、実に無駄なのです。

これは家の問題だけではありません。
私たちの人生すべてが無駄の多いものだったと、いま思うと気づきます。
もちろん、それを良しとして生きてきたわけですが、娘たちはその被害を被っているのでしょう。
したがって娘たちからの信頼は残念ながら得られていません。

1階と2階とでシェアすることにしましたが、私と独身の長女は2階に住むことにしました。
歳とともに階段が大変になるのではないかとも思いましたが、まあその時はまたその時だということになりました。
相変わらずわが家族は、現在主義的です。

2階にも浴室やキチンを作ることになると、犠牲になるのは私の書庫スペースです。
今でも狭くて別のところに送り込んでいるのですが、その場所も維持するのが難しくなってきているので、どうにかしなければいけません。
それも含めて、今年はちょっと面倒なことが多そうです。

まあしかし、その先、私の人生がどのくらいあるかもわかっていません。
頑張って新しい家の改造をしたところで、私の人生が終わる可能性もないわけではありません。
いまのところ、身体的には大丈夫そうで、多分コロナ騒ぎも乗り越えると思いますが、身体のどこかに、今生はもういいかなという気分があるのです。
そもそもこんなに長く生き続けるとは思ってもいませんでしたし。
貯金も底を突き出し、このままだと湯島も維持できなくなりそうです。
家のリフォーム費用はどう工面すべきか、これまた難問です。

家のリフォームは手続き的にも面倒そうです。
済んだままのリフォームを考えていますので、ますます面倒です。

考えてみれば、そうした面倒なことはすべて節子に任せてきた人生でした。
今回も節子が戻ってきて、采配を振るってくれるといいのですが、まあ無理でしょうね。

人生をうまく送るのは、それなりに大変です。
その大変さを、最近、痛感するようになってきました。
夜、目が覚めると時にちょっと不安になることもあります。
歳をとったなと思い知らされることが多くなりました。

 

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2020/04/22

■節子への挽歌4565:蔵原さんへの追悼文を書き上げました

蔵原さんへの追悼文を何とか書き上げました。
呼びかけてくれた岡和田さんに送りました。

追悼文を書くということの意味がわかりました。
追悼文を考え、書く間、その人と世界を共有するということなのです。
たぶん世界を分かち合う期間を通して、その人との交流を思い出し、これからの交流を生みだすことなのです。
思っていた以上に、彼と関係があったことに気づきました。
これから誰かを送った時には、追悼文を書こうと思います。

改めて気づいたのは、蔵原さんの邪気のなさでした。
しかも実に明るい。
私にはとてもなれないキャラクターですが、改めてもう少しきちんと付き合っておくべきだったとも思いました。
いろんな発見がありました。

私に追悼文を書くように誘ったのは共通の友人の岡和田さんです。
まだ若い岡和田さんが、追悼文集の起案者だと思いますが、改めて岡和田さんに関心を持ちました。
彼は人を追悼する意味を知っているのです。

蔵原さんへの追悼文への最後の部分を引用しておきます。
後でまた思い出せるように。

もしかしたら、あなたもまた突然、湯島にやってくるかもしれません。
珈琲はモカじゃないと飲みませんなどと言われると困るので、湯島ではこれからはモカは常備しておくことにしようと思います。
もっともピュアなモカは高くて私には負担が重いので、ブレンドにさせてもらいますが。

また会えるのを楽しみにしています。
邪気のない、あなたが好きでした。

 

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■節子への挽歌4564:「問題をかたづけるというのは死ぬことだ」

節子

今日も、午後1時間ほど、畑に行ったほかは在宅でした。
しかもテレビの前で、ずっとテレビをかけながらほとんどパソコンに向かっていました。
そのおかげで、ブログの時評編を3つも書いてしまいました。
フェイスブックにも紹介したためか、久しぶりに今日のブログへのアクセスは500を超えました。
最近あんまりアクセスはなく、200弱のことが多いのですが。

目が疲れるので、時々、気分転換に本を読みました。
フェイスブックに書いたことへのコメントで思い出した「豊かさへの旅」という森本哲郎さんの本です。
もう半世紀前の本ですが、私の記憶に残っている本の一冊です。

読み直して、半世紀前のことを思い出しました。
当時はまだ会社に勤めていましたが、この本を私の職場のメンバーに読ませたくて、書店を回ってこの本をメンバー分買い集めようとしたのですが、当時は品切れで入手できなかったことを覚えています。
そういえば、その時の組織名(CI事務局)も私が勝手に命名した組織でした。
今から考えると、かなり組織を逸脱していました。

時評編にも書いたのですが、その本に「人間てのは、問題そのものなんだから問題をかたづけるというのは死ぬこと」という文章があるのに気づきました。
たしかにそうです。

問題が何もなく平安な人生がいいと思っていた時もありますが、今はむしろ問題があることが人生を豊かにすると考えるようになりました。
ちょっと負け惜しみ的な要素もあるのですが、半分以上は本音です。

しかし最近はやや問題が多すぎます。
まあ新型コロナウイルス問題は私には些末な話です。
世間は新型コロナウイルス一辺倒ですが、森本さんが危惧していた日本になってしまったのかもしれません。
もっと自由に、自分の人生を生きるようになれば、社会はもっと豊かになっていくでしょう。
そしてもっとさまざまな問題にもみんなが気づくようになれば、社会はもっと楽しくなっていくでしょう。

節子がいたら、新型ウイルスにどう対処したか、ちょっと興味があります。
少なくともマスクは作ったでしょう。

 

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■半世紀ぶりに森本哲郎さんの「豊かさへの旅」を読みました

先に書いた、トラクターによるチューリップの刈り取りの記事へのコメントで、思い出して、「豊かさへの旅」を書庫から見つけてざっと読み直しました。

今の都市計画にも引けを取らないといわれるインダス文明の中心都市モヘンジョ・ダロがなぜ滅びたかは謎とされています。z
モヘンジョ・ダロは4500年ほど前の都市ですが、区画整備され、下水道はもちろん、ダストシュートも水洗便所もあったことが遺跡からわかっています。
合理的で清潔な都市を目指して都市整備を進めていたのに、ある時、突然、住人がいなくなって廃墟になったのです。

ちなみにこの都市は、メソポタミア諸国との通商によって豊かさを実現した平和国家で、軍隊をもっていなかったようで、戦争でほろんだわけではないようです。
環境破壊や感染病などの疫病で滅んだわけでもなさそうです。

ではどうして滅びたのか。
森本哲郎さんが著書「豊かさへの旅」(1972年)で書いている説はとても納得できます。

清潔で合理的な都市を目指していた住民たちは、上下水道やごみ処理システムを整備して、どんどんと美しい都市をつくり上げてきました。
無駄なものや汚いものはどんどん片付けられて、美しい都市になってきました。
ところが、なかなか清潔で合理的な理想都市が実現できない。
なぜだろうかとみんな考えたがわからない。
しかしある時、その理由にはっと気づいた。
清潔でなく合理的でもない人間が住んでいる限り、理想都市は完成しない、と。
そこで住民たちは、自らをまとめて片付けたのではないかというのです。

実にいいでしょう。

まあこうしたことは最近私たちも時々やっています。
まだ人間には行きついていませんが、豚や鶏の殺処分は何回も経験しています。
最初、その報道を知った時には、背筋が寒くなり、いつ私が対象になるのだろうかと怯えましたが、最近は慣れてきてしまいました。
そのせいか、現在のコロナ騒ぎもあんまり怯えていないのです。

私がこの本を読んだのはもういまから半世紀ほど前です。
このくだりに共感して、会社の忘年会での寸劇の出し物にしたのではっきりと覚えているのです。

ところで、インドにはまだ栄えている都市があります。
ベナレスです。
実に汚い都市だと、当時、森本さんは書いています。
そして、きれいで合理的なモヘンジョ・ダロは滅び、不潔で混乱しているベナレスは残っている、と書いたうえで、日本の行く末を心配しています。
当時日本はモヘンジョ・ダロ路線に入りだしていたからです。

ところで今日、読み直して、こんなことを森本さんが書いていることに気づきました。
「人間てのは、問題そのものなんだから問題をかたづけるというのは死ぬこと」だ。
これは、最近の私の信条の一つですが、そのルーツは森本さんのこの本にあったようです。

この本は含蓄のあるいい本です。
気安く読める本ですので、もし入手出来たらお読みください。
ポストコロナ時代の生き方へのヒントも得られるかもしれません。

 

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■暴論ですが、私のコロナ感染症の現状認識です

最近ようやく新型コロナウイルスの感染率が問題になりだしています。
感染率は検査者に対する感染者の比率ですが、感染者数は発表されても検査者数は発表されていません。PCR検査数は発表されていますが、あれは延べ人数ですから、検査者数ではないでしょう。
実際のデータは相変わらずやぶの中であり、そもそも実際に調査されてもいないようです。

しかしすでにあるデータでも、きちんと解析したらかなりのことは判明できるはずですから、多分どこかでやられていると思いますが、それに関する情報は見えてきません。
しかしおそらく誰かがしっかりと見ていて、だからこそ外出自粛要請が出されているのでしょう。

私の素人感覚では、おそらく市中感染率は2割を超えていると思っています。
集団感染といわれる6割には達していないでしょうが、都市では路上での変死者や家庭での孤独死にまで陽性反応が出たりしているようですので、都心ではむしろ6割に近づいているかもしれないと思っています。

家庭感染もかなり話題になってきていますが、これも市中感染がかなり進んでいることの証左です。
逆に言えば、市中感染率が高くなれば、当然、家庭にもウイルスは侵入してきますから、当然、家庭感染率はほぼ市中感染率と同じくなります。
もしそうであれば、家庭での外出自粛は、クルーズ船に閉じこめた話をと同じく、感染を加速させる施策とさえ思えてしまいます。
ですから私は、外出自粛はマイナス面しかないように思います。

もちろんだからと言って、外出して人混みをつくれというわけではなく、人混みに行けばいいという話ではありません。
事実に基づかずに、右往左往した現在の議論の広がりには、まさにパンデミック状況を感じます。

死者数もかなり操作的ですから、議論のベースにはなりにくいと思っています。
少なくとも発表数字の10倍以上の死者は出ていると思いますが、それにしてもインフルエンザや肺炎での死者に比べても決して多い数字ではありません。

素直に考えると、すでに東京や大阪などでの大都市においては、新型コロナウイルスはかなり広がっている。そしてウイルスから自らを守ることは不可能に近い。しかし、重症化率や致死率は決して高くない。
私はそう思っています。

ではどうするのかと問われれば、感染してもそれに何とか耐えられるように心身を元気にしておくことです。そして、もしかしたら死んでしまうと覚悟して生きることしかないと私は思っています。

しかし、生きている以上、別に新型コロナだけではなく、そうしたリスクは常にあります。
というか生きるということはそういうことだと思っていますので、なぜ世間がこんなにコロナ騒ぎをするのかが理解できません。
それに、もっと大変な問題はたくさんある。
私の周りにもコロナよりも深刻な心配事を抱えている人も実際にいます。
まさに今もちょうど、友人から、肺がん(ステージⅣ)で闘病中の友人をお見舞いに行く予定だとメールが届きました。
私でもたぶん行くでしょう。

いささか不謹慎に聞こえるかもしれませんが、コロナ問題のおかげで元気が出てきた人も少なくないとメールをある人からもらいました。
その人自身がちょっとメンタルダウンし、今年の年初にはかなり危うい状況にあったのですが、いまはコロナ対策に目を向けることで自らの役割を見出して、元気になったのです。
さらに不謹慎になりますが、外出自粛風潮のおかげで、引きこもりで肩身に狭い思いをしていた人たちの気持ちが少し楽になったという話も聞こえてきます。

世間には、なかなか見えてこないさまざまな問題がたくさんあります。
そうした問題への視野が、広がってほしいと思っていますが、むしろますます世間の視野は狭窄化されているようで残念です。
時間ができた人が多いでしょうから、できればぜひ、いまの社会にあふれてきている様々な問題への関心を広げてほしいです。

政府を非難するよりも、そのほうがきっと社会には役立ちます。

 

 

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■チューリップにお詫びしました

新聞で知ったのですが、千葉県の佐倉ふるさと広場で見事に咲いていた80万本のチューリップが、見物客で人が集まり、新型コロナウイルス感染の拡大拠点になる恐れから、すべて刈り取られたそうです。
その記事を読んで、人間も新型ウイルスと同じだなと、改めて思いました。

我が家の近くの柏市にも、あけぼの山農業公園というのがあって、そこもちょうど1週間前にチューリップが満開になりました。
昨日、娘家族が、もしかして佐倉と同じように刈り取られてしまうのではないかといって、見に行きました。
残念ながらまさに昨日の午前中に、ここもトラクターで無残にも刈り取られたそうで、数時間の差で、チューリップには会えなかったそうです。

確かに見物客で人が密集したら感染が広がる恐れはありますが、だと言って、トラクターでチューリップを刈り取るというような粗暴な行為が許されていいとは思いません。
チューリップからたくさんの免疫力をもらえる仕組みをつくれたはずです。
それをトラクターで刈り取るとは、生命への思いが全く感じられない。
自然の報復を受けても、仕方がありません。
そういう生命への扱い方が、まさに今のパンデミックを起こしていると思っている私には、とても悲しい話です。

我が家の庭にも、植え替えを忘れていたチューリップが3本咲きました。
その1本を仏壇に供えていますが、それだけでも心が癒され、元気が出ます。
満開の美しく優しいたくさんのチューリップから、どれだけの人が元気をもらえたでしょうか。
生命は、ほかの生命にも元気を与えてくれるのです。

たしかに、大勢の人が集まりすぎたら、危険だったかもしれませんが、それはチューリップの問題ではありません。
問題を間違ってはいけません。
チューリップは、集まった人たちに生命力を与えてくれたはずです。
それを、チューリップのせいにして抹殺してしまうとは!
なぜチューリップを活かす仕組みを考えなかったのか。

実はこれは、ウイルスを悪者にして、問題をすり替えているいまの社会と全く同じです。
それではパンデミックは収まらないでしょう。
そもそもウイルスだけが病をもたらすわけではありません。

外出自粛とか人との距離を保つとかいう方策には、私はどうも違和感があります。
それは、生命の本性に反していると思うからです。
問題は排除すればいいという発想にも違和感があります。

自然界において歓迎されていないのは、私たち人間かもしれません。
そのことを、新型コロナウイルスが気づかせてくれようとしているとは思いませんが、私たちが気づこうと思えば気づけることに気づかなければいけません。

いずれにしろ、刈り取られたたくさんのチューリップのために、今朝、我が家の仏壇に備わられている1本のチューリップに謝りました。
さぞかし無念だったことでしょう。

 

 

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2020/04/21

■節子への挽歌4563:コロナウイルスのおかげで退屈な日々が続いています

節子

新型ウイルスの感染拡大で、自宅からあまり外出しないようにという要請が政府から出されています。
学校も休校、会社やお店も休業するところも多く、自宅で過ごす人が多くなっているのですが、そのために家庭内での問題も増えていて、コロナ離婚という言葉さえ生まれてきているようです。

私もこの3週間、湯島に行くのをほとんどやめて、ほぼ、毎日在宅です。
むしろこういう時こそ、出かけるのが私の習癖なのですが、もしかしたら私自身が感染しているかもしれませんし、また感染してしまったら娘たちにうつしてしまうかもしれないので、それなりに自重しているのです。

しかし、1週目はよかったのですが、2週目になるとどうも退屈になってきて、外出したくなり、3週目に入ると、逆に何もしたくなるというようになってきてしまいました。
本も読む気が起きなくなり、テレビも見る気がなくなってきています。
畑でもやろうかと思ったのですが、これは天気次第です。
それに先日ちょっとやってみたら、身体がどうもついていかないのです。
今日も昼間ちょっと庭の草取りをしたのですが、息切れがしてしまって長続きできません。
もしかしたら、これはコロナウイルス感染症のせいかもしれないと思うほどの疲れ方です。

それにしてもこんなに長い時間、こういうのんびりした日を過ごすことになるとは思ってもいませんでした。
もし節子がいたら、いろいろとやれることがあるのでしょうが、一人だと本当にやる気が出てきません。
毎日が実に退屈です。
節子と一緒の時に、こんなゆったりした時間があったらどんなによかったでしょう。

伴侶がいるかいないかで、こんなにも時間の価値が変わってくるとは思ってもいませんでした。
時間とは本当に不思議なものです。

 

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■節子への挽歌4562:仏性

節子
節子も知っている私の小学校時代の同級生から少し前に届いたメールに、こんなことが書かれていました。

私は、修が花や鳥などの話をする時、その他の場面、人との関係などに、平等界や平等心に由来する激的な仏性みたいなものを感じるのと、劇的に人間そのものであるところに(激しい物言いだなあ)ーーそして昔から考えがぶれていないことを知って(**さんに懐かしい「ぽんゆう」をもらいました。修の言うことが全くぶれていないことをあらためて知った!)安心と信頼を感じます。時には乱気流もあって、そこがまたスリルがあって結構楽しい。
人によっては、掌で遊ばせてもらっているような和み解放感をもらっているかもしれません。絶対感の上で。

いささか、というか、極めてほめすぎだと思いますが、まあそれはそれとして、続けてこう書いているのです。

修の仏性について少しお伝えしたいことがあります。修の仏性には節子さんの仏性が側に具わっているからこそと、最近思うようになりました。
節子さんには2度しかお会いしたことがありません。大津でと湯島でと。そして湯島でのお姿が強く心に焼きついています。寡黙でいらしたのに。
不思議なことですが、今も時々湯島でのお姿を幻視(空想だと思いますか?)することがあります。さらに私自身が不思議なことと思うのですが、普通の格好をしていらっしゃるのに百済観音のお姿で立っていらっしゃるのです。

以上なのですが、ますます私が書くべき内容ではないのですが、一点だけ、私もそう思うところがあるのです。
節子の仏性が、いまの私に影響しているのではないかと、私も最近思うようになってきたのです。

節子は浄土真宗の家で育ったので、私よりは信仰心は強く、その面では私は節子に影響を受けたことは事実ですが、といっても、節子にとりわけ仏性があったわけではありません。
そもそも仏教では、山川草木悉皆仏性といわれるように、すべてに仏性があるわけですが、最近私が思うようになったのは、「仏性」とは事物だけにではなく、「関係」の中に顕在化し育つのではないかということです。

節子を見送った後、数年、私は闇の中を彷徨していた気がしますが、そこから抜け出した今、節子との関係で仏性を感ずることがあるのです。
あるいは、仏性としての節子との関係を実感し、それが私の行動にも影響しているのではないかと思うことがあるのです。

とはいえ、そもそも「仏性」とは何だと問われても、言葉には答えられません。
一言でいえば、すべてが仲間と思えるということでしょうか。
すべての存在の中にある何かとつながれると思えることと言い換えてもいい。

最近のコロナウイルス騒ぎにも、不安をほとんど感じないのは、ウイルスにも仲間感を持ってしまうからかもしれません。
いつも心の平安を維持できているわけではありませんが、大きな意味ではいつも平安でいられるのは、節子のおかげかもしれません。

節子には、私よりも早く逝ってしまったことへの恨みを言いたい気もしますが、それ以上に平安を与えてくれたことに感謝しなければいけません。
ありがとう。

 

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■節子への挽歌4561:喉の調子があまりよくありません

節子

インドで活動をされている亀井師からメールが来ました。
日本ではどうしてスーパーでの人混みを解消しようとしないのか、ということが書かれていました。
新型ウイルス感染防止に関して、です。

亀井さんは、特に危険視されている高齢者のことを心配されているようです。
亀井さんは、時々、日本の状況を教えてくださいと書いてきました。
今はインドの人たちのための活動に取り組まれていますが、日本の様子も気になるのでしょう。
我が家は今は娘が週に1回、食料品などの買い物に行っていますが、相変わらず混んでいるようで、レジの並びもなかなか距離は取れていないようです。

私自身は今の日本はもうコロナウイルスの市中感染はかなり広がっていて、死者数は発表値の10倍以上ではないかと思っています。
いずれにしろ、発表数字はほとんど意味がないものと受け止めています。

私の周辺にも感染者はかなりいると思いますし、そもそもウイルスから自由になれるとは思っていません。
クラスター対策とか外出自粛要請などという取り組みで予防できるはずがない。
それよりも、できるならば、穏やかな感染をし、ウイルスとの平和な関係を作りたいと思っています。したがって、適度の外出、適度の接触が、私のスタイルです。
といっても、その「適度さ」は、世間一般と比べれば、頻度は小さいと思いますが。

万一、私のところにやってきたウイルスが性悪で私を滅したいと思ったとしたら、それは運が悪かっただけの話です。
もちろん、毎日、朝昼晩と体温を測っていますし、温かな飲み物を飲むようにしています。身体を温めるために、入浴時間もいつもの倍をかけていますし、十分の睡眠にも心がけています。

しかし、私自身、最近どうも喉の調子がよくありません。
意識的には不安感はないのですが、毎日、コロナ情報に触れているうちに、コロナ不安が喉の炎症になって表れているのかもしれません。
しかしこの喉の調子が悪いのは、2月初めに京都旅行をして以来なのです。
私も感染していて、もしかしたらまだその後遺症が残っているかもしれません。
困ったものです。

新型コロナウイルスにどう対処するかは、人によって実にさまざまです。
日曜日に、地元の中高生も含めてのZOOMミーティングをやったのですが、中学生の一人がコロナが怖くて家から出ないでいると言っていました。
これは意外でした。

また昨日、ある会社の高齢の社長と社員と別々に電話で話したのですが、社員は、社長が感染したら大変だと思って気遣っているのに、社長は自分は感染しないと確信していて、それがちょっと両者の関係をぎくしゃくしてしまっているようでした。

どうも若い世代の人のほうが、コラ不安が高いようです。
しかし、外食が怖くてできないという人もいれば、飲食店が大変なので、テイクアウトに協力して毎日テイクアウトだと言っている人もいます。
相変わらず毎日、カフェに通う人もいれば、外でのコーヒーは一切やめたという人もいます。
まさに人それぞれですが、予防していれば大丈夫というわけでもないでしょう。
何しろ相手はウイルスなのですから。

しかし、ウイルスと付き合いのは疲れます。
かなりウイルス疲れがたまってきました。

 

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2020/04/20

■節子への挽歌4560:「友になる前に逝ってしまった友に」

節子

昨夜、3時に目が覚めてしまいました。
寝る前に挽歌に書いた友人の追悼文の書き出しが思いつきました。
「友になる前に逝ってしまった友に」です。

友だち付き合いがあったわけではないので、書く内容が思いつかなかったのですが、このタイトルであれば、何となく書けそうです。
しかし、このタイトルを思いついた途端に、今度はこれまで送ってしまった友人たちの顔が浮かんできました。
不思議なもので、見送った人の顔ははっきりと思いだせるものです。
友になっていようと、なっていまいと。

もしかしたら、人とは死別してからこそ友になれるのかもしれません。
考えてみると、死者はみんな早く逝きすぎます。
もう少し時間があれば、もっと良い友になっただろうと思うことはしばしあります。
友としてやり残したことの多さに後悔することもある。
いろんな人に関して、そんなことを思っていたら、ますます眠れなくなりました。

そして、早く逝くからこそ、追悼文なのだと気が付きました。
私もみんなに追悼されるように、遅れずに逝けるといいのですが。
そんなことを考え出したら、ようやくいつのまにか眠っていました。

夢の中で追悼文が書けたような気がしましたが、目が覚めたら、やはりなかなか書けません。
困ったものです。

 

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2020/04/19

■節子への挽歌4559:追悼文が書けません

節子

節子がいなくなってから、湯島に来るようになった人がたくさんいます。
その一人である蔵原さんが、突然亡くなりました。
昨年末から今年にかけて湯島で2回もサロンをしてもらい、4月にもう一度、やってもらう予定だったのですが、突然の訃報でした。
私よりも2周りは若い異才でした。
彼と知り合って、まだそう長くはないのですが、なぜか心がつながった感じです。
彼の突然の死は、私には衝撃的でした。

そう言えば、挽歌を書けなかった時期に、もう一人、サロンの常連がなくなりました。
そのことは書いたのかどうかさえ記憶がないのですが、27日に太田篤さんがなくなりました。
昨秋、癌が見つかり、手術も出来ない程進行していたのです。
彼は、抗がん治療を一切せずに、毅然として死を受け入れました。
もしまだ書いていないようであれば、またきちんと書きますが、2月から3月にかけて、複数の友人の死に会いました。

節子の死は、私にとっては自らの死とかなり重なっていましたが、友人たちの死も、たぶんなにがしかの重なりを持っているのでしょう。
そのせいか、自分の死がとても身近に感じるとともに、なんとなく生きていること自体の現実感が希薄になっていたような気がします。
この2か月の私の生活は、ちょっとおかしくなっていたかもしれません。

それにハッと気づいたのは、1週間ほど前にテレビで見た夜桜の映像でした。
突然に涙が出てきました。
不思議な感覚で覆われたのですが、その時に節子を隣に感じたのです。
いや冥界にいるような気がしたのです。

話がおかしくなってしまいましたが、蔵原さんの追悼文を誘われました。
そんなに付き合いがあったわけではないのですが、なぜか共通の友人が私を誘ってくれたのです。
締め切り日が近づいたので、書こうと思うのですが、そのたびにあの夜桜の映像が眼に浮かんでしまい、書けません。
夜桜の向こうに、蔵原さんまで見えるようになってしまったのです。

最近ちょっと私の精神状態がおかしいのかもしれません。
コロナウイルスが全く心配でないのも、そのせいかもしれません。

どうしたら現世に戻って来られるでしょうか。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌4558:デクノボーを忘れてはいけません

節子

新型コロナウイルス感染症のパンデミック的広がりで社会は壊れそうになっています。
感染防止のために外出自粛が社会的圧力となって、みんなの生活を変えだしています。
恐ろしいほどの同調機運が広がっています。

私自身がこの感染症の広がりを実感したのは、2月初めの京都旅行でしたが、以来、できれば早い時期に軽い感染をしておきたいと考えていました。
主観的には、もしかしたらそれに成功しているかもしれませんが、確証はありません。
ですから、この2週間は湯島にもほとんど行かずに、人と会う機会も最小化しています。
そういう生活になると、何となく気が萎えてしまい、挽歌を書くのもそうですが、本も読む気がなくなってしまってきました。
さらにいえば、生きる事へのモチベーションも低下してしまい、まさにこの1週間は、正真正銘の無為な生活に堕してしまっています。

感染症のほうは、私が思っていたのとほぼ同じ展開になってきていますが、違っていたのは、ウイルスの人命への悪さが思っていた以上に強いことです。
たとえば、体力のある人が、急変して死に至ることも報告されています。
ウイルスともなかよく共生したいと思っている私にとっては、万一運悪く命を落とすことになっても、それはそれで仕方がないと思ってはいますが、娘や孫を考えるとそう勝手な行動には出られないという気になってきてしまっています。
それで数日前から、私にとってはいささか過剰防衛的になってきています。
ところがそれが私にはやはりよくないようです。
なにか気が晴れません。

私の思いは、世間的な風潮とはやはり大きな違いがあって、その風潮に合わせることにやはり割り切れないものがあるのです。
どうも自分でも、気持ちの悪い生き方になっているのです。

しかし、正真正銘の無為の生き方からは脱しなければいけません。
このままだと精神的にもおかしくなりかねません。
今週はまた湯島に行き出そうと思います。

もし困っている人がいたら、行かなくてはいけません。
宮沢賢治の目指した「デクノボー」のように生きることを忘れてはいけません。

 

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■節子への挽歌4557:牡丹が枯れていませんでした

節子

少しずれましたが、今日から書き出します。
まずは今日の話から。

今日は暖かな好天気でした。
それで午前中、庭の整理を始めました。
野草が伸び放題で、植木鉢も手入れ不足で、ひどい状況になっているのです。

ところが、初めて30分もしたら、腰が痛くなり、息切れまでしだしました。
最近、在宅ばかりだったので、完全に身体能力が落ちています。
30分で手入れはやめて、庭の椅子に座って日光浴をして、今日は終わりにしました。

昨年も痛感しましたが、庭の花木の手入れは誠意をこめてやらないといけません。
花木がしっかりと思考しながら生きていることがよくわかります。

今回、うれしかったことが一つありました。
枯れたとばかり思っていた牡丹が復活してきていたことです。
これは、たしか節子が、茨城の美野里町の花木園か足利のフラワーパークのいずれかで買ってきたものです。
昨年、ちょっと手入れ不足で枯らしてしまったとばかり思っていたのですが、元気に伸びだしています。
まあまだ確証は持てませんが、たぶん牡丹でしょう。
今度こそ枯れさせずに花を咲かせようと思います。

 

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2020/04/17

■ウイルスともなかよくやれないものでしょうか

新型ウイルスがますます「悪者」になってきています。

昨日、ふと中村桂子さんの生命誌マンダラのことを思い出しました。
1年ほど前だと思いますが、Eテレの「こころの時代」でマンダラを取り上げていました。
その最終回に、中村桂子さんが登場し、生命誌マンダラについて話していたのを思い出しました。

中村さんは、「自然の中の人間」という立脚点から、「生命誌」ということを提唱し、活動されてきていますが、生命の歴史を視覚化した生命誌マンダラをつくっています。
そこにはもちろんウイルスも然りと描かれています。

ウイルスは、生物の進化に大きな役割を果たしてきました。
1週間ほど前の朝日新聞にもそのことがイラストでわかりやすく書かれていました。
中村さんは人類にとってもウイルスが親子をつなぐ重要な役割をはたしていることを、たしかその番組で語っていました。
ウイルスも私たちの仲間なのです。

Img139

新型コロナウイルスが、あまりにもひどく扱われていることに、ずっと違和感を持っています。
彼らは、ただ単にまだ人との付き合い方がわかっていないのではないか。
物事を、「差別」とか「いじめ」とか「居場所」とかという視点で考えてしまうようになってしまっている私には、どうも気持ちが悪いまま、今日まで来ています。
戦争と同じだなどという発言には、気分が悪くなります。
「戦争」などという言葉をそう簡単に使ってほしくありません。
そういう言葉を使っていると、自己洗脳におかされてしまい、事実が見えなくなってしまいます。

ところで、ウイルスと人間についてこれまでも語ってきている人はいます。
そのひとりが、栗本慎一郎さんですが、その著書に「パンツを捨てるサル」があります。
その本で、栗本さんは、レトロウイルスと進化、人類史について語っていますが、いまは絶版になっていて、古書も高いのでそう簡単には手に入りません。
私も持っていますが、転居予定先に送ってしまっているので、手元にはありません。
ちなみに、「パンツ」とは「おかね」のことです。

柴崎明さんはいまこそ、この本を再読する価値があるのではないかと思い立って、読み上げる動画を少しずつ配信しています。
https://www.youtube.com/watch?v=TcPul17jjrY&feature=youtu.be
できれば、彼にサロンで話してもらうのがいいのですが、この状況だとサロンも開きにくいので、関心のある方は彼のユーチューブで毎日聞いてください。
聴きやすさは保証しませんが。
なにしろ柴崎さんですから。

 

 

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2020/04/15

■節子への挽歌4556:久しぶりの朝の手賀沼公園

節子

また、挽歌が書けなくなってしまっていました。
困ったものですが、仕方ありません。

時評編はなんとか時々書いていますが、実際にはフェイスブックに書いたことを転載しているだけです。
いろんな意味でまた私の中では時間が止まってしまった気がします。

今朝、思い立って、近くの手賀沼公園に一人で散歩に行きました。
時評編に写真と一緒に、そのことを少し書きました。
そこに一行だけ、節子のことを書きました。

節子が死に直面し、私が奇跡を願っていた時も、世界は無情にもそんなことなど気にすることもないように進んでいました。
最近、そのことを思い出して、また私の時間が止まってしまっていたのです。

節子の闘病中には、毎朝、一緒に手賀沼公園に散歩に行っていました。
その時に座っていたベンチに座って、しばらく釣り人たちの様子を見ていました。
あの頃と全く同じ風景です。
だれも魚を釣り上げないの、毎朝、こうやって釣りにやってくる。
人はみな、シジフォスの神話を生きているのかもしれません。

 今日からまた挽歌を書こうと思います。

Teganuma2004152

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■朝の空気が気持ちよかったです

今日は暖かな気持ちのいい春日和です。
新型コロナウイルスが世界を覆っているのが嘘みたいです。
久しぶりに少し歩いてみようと思い、近くの手賀沼公園に行きました。

Teganuma2004152 Teganuma2004155 Teganuma2004153

早い時間のせいか、まだ人も多くはありません。
ドラッグストアのマスクの売り出しも、最近は販売中止のお店もあって、並んでいる人もいません。
しかし、そんな知恵さえ働かなくなるほどに、みんなおかしくなっていたのです。

ウイルス騒ぎのおかげで、社会は少し良くなるかと期待していましたが、どうも今度は逆方向に動き出してしまったようです。
「外出禁止風潮」「人との接触を避けようブーム」。
まるで人間はウイルス以上に汚染された存在になってしまったようです。
誰かに感染させるかもしれませんと言われていることは、すでにあなたは感染しているかもしれませんと言われているわけですが、そういわれると動きが取れなくなってしまうわけです。
こういう状況が、かつて日本を戦争に向かわせたのでしょう。
困ったものです。

しかし感染した人の症状が急変して、死に至ってしまうこともあるという報道が、なまなましく伝えられると、私もいささか気の迷いが起きてしまいます。
テレビ映像のほとんどは一部を切り取って増幅させたものだと思いながらも、そういう事実があることも否定できないので、万一、自分がキャリアになって他者を死に至らしめたらと思うと、ここは「無責任」に自宅に引きこもろうかと思いたくもなります。

しかし、その一方で、ウイルス感染症とは別の理由で病院に通っている人も私の周辺にはいます。
その人たちにとっては、もちろんウイルス感染症も心配ですが、自らの病気も心配です。
私も身近にそういう人が複数いますので、ウイルス騒ぎよりもそちらに関心があります。
新型ウイルス感染症の致死率は決して高くはないと思いますし、死者数もとても少ないですが、みんなの目が新型ウイルスにだけ向けられるのが不思議です。
そうした問題を抱えている人が少ないのでしょうか。

がんの妻を見送った時のことが思い出されます。
みんなの「しあわせ」が、ちょっとうらやましい気もします。
しかし、ウイルス騒動の陰で、どれだけの「死者」が出ているのでしょうか。

手賀沼公園のベンチで座って、そんなことを考えてきました。
帰り道ではかなりの人と出会いましたが、ほとんどの人がマスクをしていたのが、私には異様でした。
こんないい空気をどうして満喫しないのでしょうか。
そんなことをやっていると病気になりますよと言いたい気分でした。

ちなみに今日は、誰にも話しかけずに、無言のまま帰宅しました。
娘に今回は手洗いはいいだろうと言ったら、ドアノブにも触っているのだから 手洗いは必要だと言われて、ちょっとがっくりしました。
わが家もかなり汚染されているようです。

いや世界中が汚染されてしまった。
ウイルスが浄化してくれるかもしれません。

 

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2020/04/13

■「ペスト」を読んでちょっと考えさせられました

今日は終日、在宅だったので、カミユの「ペスト」を読みました。

本文に入る前に、ダニエル・デフォーの次の言葉が引用されています。
ここにカミユの意図がうかがえます。

ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。

「ある種の監禁状態」とは、カミユが若いころにアルジェリアで強く感じていたことかもしれません。

私の記憶には、医師のリウーがあまりに強く残っていたのですが、今回はリウーと一緒にペスト対策に取り組んだ、タルーの言葉が心に突き刺さりました。
タルーは自らに関して、こう語っています。

「僕はこの町や今度の疫病に出くわすずっと前から、既にペストに苦しめられていたんだ。というのは、まあ、つまり、僕も、世間みんなとおんなじようだということなんだがね。しかし世間には、そういうことを知らない連中もあれば、そういう状態のなかで心地よく感じている連中もあるし、また、そういうことを知って、できれば、それから抜け出したいと思っている者もある。僕は、いつも抜け出したいと思ったのだった」。

タルーが言う「体験してきているペスト」とは、病気のペストが蔓延している時に顕在化される社会の状況を指しています。
タルーは、そうしたことに気づいてから、「世間でよくいう政治運動」に取り組むようになったと語っています。
そして、つづけてこう言います。

「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ」

「ペスト」というところに新型コロナウイルスを置いてみると、今まさに私たちが体験していることとつながってくるかもしれません。

新聞記者のランベールの行動変容もまた、考えさせられるものがあります。
当初、彼は恋人に会うために閉鎖された町から抜け出そうとしますが、それが可能になった時に、町に残ってペストから人々を守る活動に参加します。
そのいきさつのところに、前回、読んだ時(私は20代でした)の赤線が引いてありましたが、今回はそこではなく、次の言葉に目が行きました。
「ペスト以前にだっておんなじぐらい危険はあったんですからな、往来の激しい四辻を渡る時なんか」とランベールは言うのです。

もう一人、パヌルー神父の言葉も示唆に富んでいます。
ペストのなかに離れ島はないことを、しつかり心に言い聞かせておかねばならぬ。

ペスト騒ぎが一段落して、平安な日常が見えてきたときに、リウー医師はこう書いています。

彼等は今では知っているのだ - 人が常に欲し、そして時々手に入れることができるものがあるとすれば、それはすなわち人間の愛情であることを。

私たちが、「愛」を忘れたときに、パンデミックはやってくるのかもしれません。

 

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■外出自粛だけでは安心できません

今日は雨の上に、寒さもまた戻ってきた感じです。

2週間以上、外出を控えている生活が続いているせいか、体重が3キロ増えてしまいました。
自宅では、できるだけあたたかな飲み物を繰り返し飲むようにしているのですが、その時に甘いお菓子などもついつい食べてしまうのも影響しているでしょう。
昨年来、食事をできるだけ減らそうとしていたのですが、コロナウイルスをうまく受け入れられるように、体力をつけるために2月後半からむしろしっかりと食べるようにしているのも一因かもしれません。
しかし、体重が増えるのと体力がつくのとは、同じではないような気もします。

感染者の発表数が増えていますが、説明されているように、この数字は2週間ほど前のものですから、一喜一憂する必要はありません。
わかっているのは、すでに市中感染がほぼ蔓延しているということでしょう。
ウイルスは、クラスターと言われる空間にだけいるわけではありません。
そういう認識をしっかりと持たせないような報道が多かったのが残念ですが、そう考えれば、生活を見直さざるを得ません。
外出自粛だけで解決するわけでもありません。
いくら自宅に引きこもっていても、郵便物や新聞、あるいは空気に乗ってウイルスが来ないとも限りません。
いやそれよりも、日用品や食材の購入を通して、生きている以上、私たちは外部と隔離などできるはずはありません。

それに急な生活変容で、ストレスが高まったり、不安が高まったりしたら、それこそ大変です。
人に会わないと元気が出てこない人もいますし、自宅からでないと健康障害を起こす人もいるでしょう。
新型コロナウイルスだけが、人を殺めるわけではありません。
毎日、人は死んだり病になったりしていますが、新型ウイルスによるものは、そのほんの一部です。
自殺者よりも、従来の肺炎よりも、交通事故者よりも、まだ少ない。

そうした全体への知識ももたなればいけません。
休業に追いやられた飲食店の人が追いやられないようにしなければいけません。
安定して寝起きする場所もない若者たちのことを真剣に考えなければいけません。
マスクがないなどというのは、私には些末な話です。
いかようにも自分で解決できる話です。
問題の設定を間違えてはいけません。

大切なのは、ウイルスが万一やってきても、それとうまく付き合える心身を維持しておきたいというのが、私の考えです。
心身という言葉には、精神的な安心感や信頼感も含まれています。
政府への信頼感があれば、飲食店なども休業できるでしょう。
私には、言葉だけの政府は信頼できません。
いま必要なのは、無責任な言葉に踊らされるのではなく、自らの心身の健康を高めて、自らの生活を見直すことだと思っています。

スーパーはいつもより混んでいて、相変わらず通勤電車は混んでいて、子どもたちで公園も混んでいる。
さらに見えませんが、家庭の中にまたいろんな矛盾が隠され出しているというような話も耳に入ってきます。
大切なのは、「自粛」とか「閉鎖」だけではなく、もっと積極的な行動ではないかと思います。

ウイルスがせっかく気づかせてくれたことを無駄にはしたくありません。

 

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2020/04/11

■事実を知らずに動かなければいけないのが不安です

東京都の発表感染者数がまた増加しました。
予想に反して、少なかったです。
私はそろそろ1000人を超えるだろうと思っているので、むしろ発表数増加の動きが遅いのが気になります。

それにしても、人為的とさえ思われる虚構の数字に基づいて、行動を律しなければいけないのは不安です。
テレビなどで議論している人たちも虚しいでしょう。
専門家会議の人たちは、本当に議論できると思っているのでしょうか。
その不誠実さには、ますます「専門家」への不信感が強まります。
そして、そうした情報に基づいて、右往左往せざるを得ない私たちの弱さを痛感します。

緊急事態宣言には、まったく「緊急」感がなく、内容も矛盾だらけで、真剣味が感じられません。
他者への要請や依頼だけで、自らの一人称自動詞での具体的な行動宣言はほぼ皆無です。
すぐに動くのが、各世帯へのマスク2枚という愚挙。
まさか本当にやるとは思っていませんでしたが、動き出したようで、情けない限りです。
もっと急いでやることがあるでしょうに。
こんな時期に、輸送システムをこんなことで使ってほしくありません。

1か月ほど前に、2週間以内に日本という国は壊れだすと言っている人がいると、友人がメールで教えてくれましたが、もう日本という国は壊れつつあるのかもしれません。
小泉さんは自民党を壊すだけでとどまりましたが、安倍さんは日本を壊してしまったのかもしれません。
壊れたものは、元には戻らない。

それでも、「あなたの行動が未来を決める」とか「あなただけのことではありません」などと言われると、外出するのが後ろめたい気分になります。
さて、今日はどうしようか、悩んでしまいます。
毎週土曜日は、湯島でオープンサロンなのです。
サロンを必要としている人もいますし、相談があるという人からサロンはやるのかという問い合わせもありました。

ちなみに、新型ウイルスによる感染症の広がりに関しては、何回か書いているように、私はかなり長期間つづく話だと思っています。
ですから、ウイルスとうまく付き合いながら、一緒に考えていきたいと思っています。
信頼できない政府や行政の長の指示も参考にしながらも、自分で考え、これからも柔軟に行動していく予定です。
事実を知らずに動かなければいけないのが不安ですが。

 

 

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2020/04/10

■アベノマスク受け取り拒否

友人から下記メールが届きました。

アベノマスクが反対を押し切って全戸配布になるようです。
その費用、東京新聞によると(4月10日)466億円
布マスクなら私はすぐ作れるので返却することにしました。
家のポストに配達不要と張り紙を出すかポストに投函するかします。
布マスクなどすぐ作れます。お知らせくだされば制作してお送りします。
どうぞご遠慮なく。

私も自宅の郵便受けに「配達不要」の張り紙をすることにしました。

ところで、466億円は直接の費用です。
かかわる職員の人件費などを加えるとたぶんもっと多額になります。
それ以上に、大切な配送インフラに負担をかけるので、もっと大切な活動の邪魔をしますから、極めて問題は大きいです。
関係業者やそれに寄生している議員関係者には大きな利益をもたらしているかもしれませんが。
私は実質的な損失には1000億円以上だと思います。
さらにもし私のところに届いたら廃棄しますので、地球環境にもマイナスです。

ちなみに私の周りでは、受け取って困っている福祉施設などに寄付したらどうかという人が多いです。
私も最初、そう思ったのですが、やはりここは受け取り拒否をして、自分の意思をしっかりと表明しておくことが大切だと思います。

さらに言えば、最近のマスク不足で、自分たちでマスクを作って不足している人に提供していこうという動きが強まっています。
そういう「支え合い」の動きを邪魔しかねないことも私が考えを変えた理由の一つです。

Img_20200410_162844  

 

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■経済の健康と人の健康

日本ペンクラブは、7日に「緊急事態だからこそ、自由を」という声明を発表しました。
http://japanpen.or.jp/statement0407/?fbclid=IwAR1kfxnOmpld95Qw5o3bmb27Wu4xXNSQeGeA2Tv7AgJZBPCy5GihCor17zIそこには、「私たちの目の前にあるのは、命か自由かの選択ではない」と書かれています。
まだ読まれていない方は、ぜひお読みください。

ところで、新型ウイルス対策に関して、いつも感じていることは、「経済か人命か」という問いです。
現在の日本政府の基本姿勢は、経済を守ろうとしているように見えます。
それこそが人を守ることになると考えているのでしょう。
経済が破綻したら、人も危険になるという発想は、一昔前までには「常識」だったかもしれません。

しかし、果たしてそうでしょうか。
私は「経済を守るためにこそ、人の健康を」と思っています。

ちょっと古い本ですが、公衆衛生学の研究者であるデヴィッド・スタックラーさんとサイジェス・バスさんが書いた「The Body Economic」という本があります。
2013年に出版され、日本では翌年の2014年に「経済政策で人は死ぬか?」というタイトルで翻訳出版されています。
私が読んだのは、翻訳なのですが、原著の書名には「Why Austerity Kills」という恐ろしい副題がついています。

ふたりは、大恐慌やソ連の崩壊、金融危機などの世界的事例に関しての調査解析を踏まえて、公衆衛生の大切さを訴えていますが、そのひとつのメッセージは、「人の健康こそが経済の健康につながる」ということです。
経済が人の生活を守るのではなく、人が経済を支えているということです。
国際通貨基金(IMF)の経済復興策が、いかに経済を壊してきたかが、同書ではデータで示されています。

米国医師会会長だったウィリアム・ウェルナは、「健康への投資を安易に怠ると、国民の健康が全般的に悪化するだけではなく、いずれは高いつけとなって返ってきます。公衆衛生サービスヘの投資の見返りは経済的・社会的福祉水準の向上ですが、それが必ずや投資額を上回るものになることは、すでに明らかだと言っていいでしょう」と言っているそうです。

日本の医師不足に関しては、私は20年以上前に本田宏さんから教えてもらいました。
湯島のサロンでも話をしてもらったことがありますが、本田さんはその問題にずっと取り組んでいます。もし本田さんのメッセージに政府や医師会が耳を貸していたら、現在のような状況にはなっていなかったかもしれません。

新型ウイルス対策としては、休業補償や生活保障の資金的裏付けや財政の心配よりも、いまはまず、人命の損傷をどう最小化するか、を優先して考えるべきだはないかと思います。
そのためにも、休業補償や生活不安解消策として、すぐにでもすべての人たちに、バズーカ砲的なばらまき政策を展開したらと思います。
いらない人は返せばいい。
マスクの配送が始まるようですが、これもいらない人は返したり寄付したりするでしょうから、お金もそうしたらいいでしょう。
国会議員や官僚、あるいは大企業の正社員は返すでしょう。

私の娘の伴侶も、小さなレストランをやっていますが、収入がなくなる不安はともかく、感染を広げないために昨日からお店を閉じています。
何が一番大切かの基準さえぶれなければ、判断はできるはずです。
都知事が悪いとか、法的にどうだとか、そんなことよりも、現場で真剣に生きている人たちの健康を守るために、政治は大きな決断をしてほしいものです。
それは別に「緊急事態宣言」などしなくてもできるはずだと思いますが。

政治にとって大切なのは、優先順序です。

 

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2020/04/09

■奪い合いか支え合いかのどちらを選ぶか

新型コロナウイルス騒ぎで、いろいろなことが可視化されてきていますが、そこに真反対の動きが見てとれます。

たとえば、マスク騒ぎ。一方で買占めに走ったり、高く売ったりする人がいる反面、なけなしのマスクを困っている人に提供したり、工夫して手作りマスクを作ってみんなに提供したりする人もいます。
ショックドクトリン的におかしなことをする人もいますが、災害ユートピア的な人のつながりも生まれてきています。

ソーシャルディスタンスとか外出禁止とか、会う人を減らせとか、という風潮が広がっていると同時に、こういう時だからこそお互いのことを気遣って電話をしたり、注意して会いに行ったりすることも行われています。
私のところにも、思ってもいない人から電話が来たりメールが来たりしています。
それも海外の、もしかしたら日本よりも大変ではないかと思われるところからもです。

政府の政策を否定するつもりは全くないのですが、経済的な救済策が、注意しないと「奪い合い関係」を生み出すのではないかと心配です。
みんなが一体になってというのであれば、小賢しい条件や手続きは逆効果になりかねません。支援策が人間関係をこわし、復興を妨げたであろう3.11の時を思い出さなければいけません。
奪い合いにつながらなければいいのですが。

政府による経済的な支援ももちろん大切ですが、「支え合い」による支援も大切です。
それにそれなら誰にでもできることはあります。
人はお金だけで生きているわけではありません。

昨日の朝日新聞の「インタビュー」で、社会学者の大澤真幸さんが、「ポジティブな道とネガティブな道、どちらに進むかという岐路に私たちは立っています」「破局へのリアリティーが高まり、絶望的と思える時にこそ、思い切ったことができる。この苦境を好機に変えなくては、と強く思います」と話していますが、私も心底、そう思います。

奪い合いを基軸にする最近の市場中心のマネタリーエコノミー(資本主義経済)から支え合いを基軸にする生活を中心としたコモンズエコノミーへと軸足を移す大きな契機になればと思っています。
そうしたことを考えるサロンを、できるだけ早く始めたいと思っています。

 

 

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2020/04/08

マスク不足が起こしたちょっといい話

病院に通っている友人から電話がありました。
相談の電話だったのですが、ついでにいろいろと話をしてくれました。
昨日から病院の体制が大きく変わったそうです。
病院の入り口で体温まで計られたそうです。

彼は3日ほど前にも病院に行ったそうですが、あいにくマスクを忘れてしまいました。
待ち時間が長いので、途中で心配になって、受付にマスクを自宅に取りに行ってくると話したら、それを耳にした患者さんが、カバンからマスクを取り出して、プレゼントしてくれたそうです。
病院から帰って、その人に何かお礼がしたくなって、昨日また病院に行ったのだそうですが(もちろんそれだけではないそうですが)、病院の様子が全く違っていたのだそうです。

マスクがないとこういう話も生まれるのです。
悪いことばかりではありません。
その患者さんにはまだ出会えていないようですが。

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■サロンのこと

新型ウイルス騒ぎで湯島のサロンがほぼなくなりました。
サロンに来てくださっている方や関心を持っていただいている方から、実際に集まるサロンが難しければ、ZOOMなどを活用したらどうかという提案がかなり届いています。
それを見て、私がやっているサロンの主旨が、やはり伝わっていないのだと、肩から力が抜けてしまっています。
これを契機に、湯島のサロンをやめようかと思いましたが、昨日、普段は参加できない遠隔地の方から、サロンを継続してほしいという電話をもらいました。
その人にとっては、ほとんど参加はできないが湯島のサロンという場があることが意味があるそうなのです。
それで気を取り直して、継続することにしました。
それに、私の主旨が届かないのは私の説明不足なのだろうと思い、改めて思いを書くことにしました。

私が湯島でサロンをやっているのは、生身の人間の出会いの場をつくるためです。
そして、さまざまな意見に触れて、自分の考えを相対化し、そのうえで自分の言葉で考え話す生き方を広げたいからです。
時々、サロンのことを勉強会とかワークショップとか、セミナーとかと表現する人がいますが、そうではなくサロンなのです。

知識を得ることが目的ではないのです。
最近は、講座型サロンとか勉強会的サロンもありますので、誤解を与えているかもしれませんが、湯島では「知識」や「情報」よりも、その人の「思い」や「考え」を大事にしています。
違う考えや生き方の人たちとの出会いから、ゆるやかな「コモンズ・コミュニティ」が生まれればと思っています。
さらに、参加した人にとっても「生き方」を問い直す機会になれば、主宰者の私はとてもうれしいです。

もう一つ重視していることは、人間がシステムの端末になりだしているとしか思えない最近の流れに抗いたいと思っています。
うまく説明できないのですが、だからむしろZOOMなどには否定的なのです。
ソーシャルディスタンスなど置くことのない、ましてや機械を通してでない、人と人との触れ合いを大切にしたいのです。

参加できない人のためにとも言われますが、別に毎回参加する必要はなく、まあ参加できる時に参加するくらいの付き合いが大切だと思っています。
それに参加しなくても、なんとなくつながっているという関係があれば、それで十分だと思っていますので、かなり主観的な報告を送らせてもらっているのです。」
ZOOMなどを活用したサロンも意味があると思いますが、それは私が目指している湯島のサロンとは似て非なるものですから、もしやるとしたらまったく別のシステムとして考えたいと思っています。

親切にいろいろと提案してくださる人には感謝しますが、そういうわけで、私自身がZOOMなどを使ったサロンをやる可能性はゼロです。
もしどなたか、湯島とつながる形で、ネットサロンをやろうという方がいたら、協力させてもらいますが、そんなわけで、いただいた提案には対応できませんので、ご容赦ください。

しばらくテーマサロンは開催できそうもありませんので、私の思いを話させてもらうサロンを始めようかと思っています。
またご案内させてもらいます。

 

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2020/04/07

■茶色の朝サロン「種苗法を考える」報告

報告が遅れてしまいましたが、3月のBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)は、霜里農場の金子友子さんにお願いして、主なテーマに「種苗法」を取り上げました。
その関係もあって、たくさんの参加者がありました。
食への関心はやはり高いようです。

種子法や種苗法の動きが、日本の農業を通して、私たちの食に大きな影響を与えていくことは明らかですが、何となくそれはわかっていても、正直、どういう影響があるのか、そしてそれに対してどう対処したらいいかは、なかなかわかりません。

友子さんは、農への長い取り組みと種苗法に関する取り組み活動を踏まえて、生活感覚で概要をわかりやすく説明してくれました。
その内容は、時間がたってしまったので思い出せないのですが、まあ極めて荒っぽく言えば、私たちの生命の基盤である食が、海外の大企業の管理下に置かれかねないということ、そして日本の農業の根っこが壊されかねないという話です。
多くの種子の特許を独占する海外の巨大多国籍企業にコメを含む日本の主要作物の種苗を握られてしまい、私たちの食そのものが握られてしまう怖れもある

私が一番腹立たしいのは、種苗に「知的財産権」が適用されるということです。
しかも、遺伝子操作された生命(野菜など)にも特許を与えるということが30年ほど前にアメリカで認められ、それがいま世界標準になってきていますので、これまでの自然の恵みである生命の種子とは全く異質な種子になるかもしれません。
農家の人たちも、これまで行われていたように農家が種子を自家採種することができなくなり、種子会社から遺伝子操作で工業的につくられた種子を買わなければいけなくなりかねないという話です。
時間をかけてみんなで育て上げてきた知恵が、働きもしない資本家たちに悪用されて、またまた金儲けの道具にされてしまうのではないかという不安があります。

どうしたいいのか。
友子さんの回答は、この問題にもっとみんなが関心をもってほしい。そしてそういうテーマの講演会に参加してほしいということでした。
私も友子さんから口だけ動かしていないで何か行動しろと叱られました。
ネットでも関連情報はたくさん出ていますので、みなさんもぜひ関心を持って調べてください。
しかし昨今のコロナ騒ぎで、4月に予定されている種苗法の改正の国会審議もあまり議論もされずに成立してしまう恐れもありますが、食の問題は、考えようによっては、新型ウイルスよりも大きな問題です。
新型コロナウイルス以外にもたくさんの「脅威」はあります。
外出自粛が要請されているため時間ができた人はぜひネットなどで調べてもらえればうれしいです。

コロナ騒ぎが落ち着いたら、湯島でもサロンとは別に勉強会を開き、私にできることを考えてみたいと思います。
どなたか事務局を引き受けてくれませんか。

*サロン風景の写真は今時、ちょっと刺激的ですので、掲載を辞めました。

 

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2020/04/05

■私の脳が少しおかしくなってきたようです

全くの無駄話です。

最近、私に会った人は気づいているかもしれませんが、心身の老化がかなり進行しています。
思考と言動、とりわけ言葉がずれてきています。
それに気づいたのは1年ほど前ですが、最近さらにひどくなってきています。

ただし、思考の世界はむしろ急速に時空間的にも広がっていて、世界がかなり見えるようになっている気がします。
しかし、それを言語化できないばかりか、言葉自体が思考から切りはなされているような気がします。
つまり考えていることと話していることがずれているのです。

困ったものです。

しかしさらに最近、もう一つ困ったことが起き出しました。
時間が止まりだしたのです。
これも1年ほど前から何となく感じていたのですが、どうも時間秩序が壊れだしたのです。
それで図書館から「時間とはなんだろう」という松浦壮さんの本を借りてきて読みだしました。

ところがなんと、なんとそこについ最近読んだことが書かれているのです。
100×100のマス目に10個の荷物を置いて動かしていくという話です。
その記述をこの2~3日に本で読んだ記憶があるのです。
それでこの2~3日に読んだ本(5冊ですが)を確認してみましたが、どこにも出てきません。

しかも、記憶のなかでは、100×100のマス目のイラストもあったのですが、今日読んだ松浦さんの本にはイラストはありません。
さてさてどうなっているのでしょうか。

もしかしたら、これから読む本がもう記憶に移っているのかもしれません。
私の心身においては、時空間がおかしくなってきているのかもしれません。
ぼけ現象のひとつかもしれないのですが、100×100のマス目のイラストが頭から消えません。
もし、そうしたイラストが載っている本をご存知の方がいたら教えてください。

しばらく読書はやめた方がよさそうです。
やはり畑作業で心身を休めないといけません。

 

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■「不要不急の活動」

昨日、湯島でオープンサロンをしました。

家を出る直前まで娘からはやめたらと言われましたが、2時から湯島でコーヒーを飲んでいるのでという案内を出した以上は、誰も来なくても行っていようと思い、湯島に行きました。
他者から見たら、まさに「不要不急の活動」でしょう。

サロンには3人の人がやってきました。
たわいもない話(不要不急の話題)が多かったのですが、この騒ぎを契機に、仕事の意味や生き方の問い直しが起こるといいというような話もありました。
さらに最後に来た、IT関係の専門家の人から、IT関係の仕事こそ「不要不急」だという過激な発言がありました。

その人は、いまもIT関係の仕事をしていて、自他ともに認めるITのプロだと私は思っているのですが、まさかその人からそういう発言があるとは思ってもいませんでした。
その人の発言は、まさに我が意を得たりというものだったので、これまで書かなかったことを書くことにしました。

私の昨日のサロンは、私にとっては大切な活動です。
私の「不要不急」の基準は、たぶん世間とは真反対です。

昨今のほとんどの経済活動や政治活動は、私には「不要不急の活動」に見えます。
国民全員にマスクを配布する活動を考えれば、わかってもらえるかもしれません。
あれは実に現在の日本の政治と経済を象徴しています。
私には、現在の国会での活動もほぼすべて「不要不急」ですし、大企業の仕事のほとんども、いまこの時期には「不要不急」のように思えます。

経済活動が止まったらトイレットペーパーがなくなるではないかと言われそうですが、もちろん価値ある仕事もたくさんあります。しかし、そういう大切な仕事や働き手が、割を食わされているのが現在の経済活動のように思えます。

3か月くらい先に延ばしても困らない大企業の経済活動(例えば自動車生産)を一斉に止めれば、満員電車は解消されるでしょう。
ビジネス化した観光地を閉めれば、多くの人はもっと身近な観光地に気づくでしょう。
ブランド化した行列のできるレストランとは違った、近くの小さなレストランをみんなで育てていこうと思えるようになるかもしれません。
ライブハウスやスポーツジムは、私にはまったく理解できないので、コメントはできませんが。

 資金の流通も3か月止めても、困るのは金融経済での不労所得者だけでしょう。
それでも資金繰りがつかずに倒産することがないように、国庫からの支援で対応する必要はありますが、お金の流れを一時止めれば大きな問題は起きないでしょう。

いずれにしろ、3か月生産や活動を止めても、大丈夫の経済活動はたくさんあるでしょう。
その間に、社会から無駄な贅肉や悪さをする経済・政治活動が顕在化されるでしょう。

文化活動やスポーツ活動は、微妙ですが、むしろ巨大化(産業化)した今の文化活動やスポーツ活動を見直す機会になるでしょう。
私は昨今のような産業化した文化活動やスポーツ活動にはなじめません。
私の感覚ではあれは文化でもスポーツでもなく、単なる産業です。
スポーツ選手には申し訳ありませんが、彼らはなにかをはき違えているとしか思えません。
ここまで書くとまた叱られるでしょうが、彼らを非難しているのではありません。
パスカルではありませんが、生きるためにはパンだけではなく、バラも必要だとは思っていますが、バラは私たちの周りにはたくさんあります。

子どもの育て方や学校教育の在り方も再考されれば、うれしいです。

私が休日にしか外出しないのは、休日の外出が人との接触が管理できるからです。
昨日、サロンに参加した一人も、平日は出歩けないが今日は電車に乗れるから来たと言っていました。
外出自粛ではなく、感染可能性の高い場所の改善や封鎖を考えるのが先決です。
個人は、外出自粛ではなく、感染予防に取り組むべきです。

生活支援の給付金が話題になっていますが、月20万円では生活できないのではないかと言う人が多いのには驚きます。
私には着ぶくれている生活をしているのではないかと思えてなりません。
私もそういう生活をしていたことがあるので偉そうなことは言えませんが、住宅費さえ抑えられれば、10万円もいらないでしょう。
住宅が余っているのですから、住宅は無償で提供するようにすれば、生活費の感覚は変わるでしょう。

私が思うには、最近は人間の生活を維持していくためにはなくてもいいことが多すぎます。
経済活動が止まったらどうなるかと言われそうですが、いまは着ぶくれた経済活動になっていて、生活のためではなくお金のための経済活動になっているように思えてなりません。

人生にとって、何が大切か。
社会にとって、何が大切か。
ぜひ今回のウイルス騒ぎを契機に、考えたいことです。

お金のためから考えるのではなく、自らの人生を基準に考えたい。
お金を稼ぐために私たちは生まれてきたのではありません。
そして、自分にとって「不要不急の活動」とは一体何なのかを考えると、たぶん生き方は変わっていく。
社会も変わっていく。

そういう契機になればいいなと思っています。

 

 

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2020/04/02

■こんなにも社会はもろかったのか

こんなにも社会はもろいものかと驚く毎日です。

ドイツがナチス社会になり日本が戦争に向かった時も、こんな感じだったのでしょうか。
多くの人が、非常事態下に早くいきたいと言っているのは、本当に驚きです。
緊急事態宣言がなくても、やれることはたくさんあるはずですが、なぜかみんな誰かに命令してもらいようです。
自分たちで克服しようという思いが広がってほしいです。

新型ウイルス感染症に関して、テレビでいろんな人が「若い世代に危機意識がない」と嘆いています。
「危機意識」ってなんでしょうか。
いつも不思議に思うことです。
私も、危機感がないのではないかと思われているような気もします。
しかし、私は逆に世の中の多くの人に危機意識がないように思えてなりません。

新型ウイルスの感染が広がってきていると感じたのは2月ですが、以来、私の行動様式は変化しました。
できるだけ不特定多数の人の集まりにはいかないようにしていました。
ウイルスも生きていますから、閉じ込めることなどできるはずがありません。

テレビでクルーズ船の報道をきちんと見ていたら、船内に隔離できるはずがないことは誰にでもわかる話です。
むしろクルーズ船は、私にはウイルス培養器に感じました。

2月末に市中感染が広がりだしたというのは、テレビで在野の専門家は話していました。
政策立案の基礎になるべき調査もしない政府や厚労省を見ていて、彼らは新型ウイルスを危機などとは考えておらず、政争の具にしようとしているのではないかと不安になりました。
とすれば、自らで守るしかない。

私が選んだのは、繰り返し書いてきましたが、感染しても克服できるだけの体力と状況を維持しようということでした。
ウイルスから自分だけ逃れられるはずはありません。
2月から3月前半までは毎朝、体温を計りましたし、ちょっと体調が悪い時には外出せずに在宅で休養を取るようにしました。

過剰に考えたためもあって、2月から3月前半は、何となく体調不良が続きました。
サロン以外の外出はほとんどやめていました。
私にとっては、サロンが大切だったからです。

最近の感染者の急増の数値は、私にはまったく脅威ではありません。
実状はあんなものではなく、操作された数字だと思っているからです。
それに今の数字でさえも、ちょっと工夫すれば、実状がもう少しわかるようにできるはずです。

ちなみに今日の東京都の感染者数97人は、あまりに正直にそうした背景を示しているように思えてしまいます。
いささか勘繰りすぎかもしれませんが、2枚のマスクで国民が満足すると思っている人たちのやることですから、まああながち否定はできません。

この騒ぎの終息は、集団免疫の成立しかないと考えています。
それは意外と早いかもしれません。
~3か月で終息するかもしれませんが、世界的に見れば、そう短期的には解決しないでしょう。
グローバル化とは、そういうことですから。

仮に感染者数は落ち着いたとしても、この後遺症はそう簡単には回復しないでしょう。
社会が落ち着くには、2~3年はかかると思っています。
リーマンショックや3.11とは全く違うのではないかと思います。
そして、社会の枠組みが変わるかもしれません。

もしそうならば、いい方向に(政権にとってではなく国民にとって)変わることを祈ります。
最近の多くの人の反応を見ていると悲観的になってしまいますが。

 

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2020/04/01

■大切なのは今のような状況での生活設計をしっかりと考えることだと思います。

新型ウイルスは、すでに国内に蔓延していて、しかもかなり長期的にいまのような状況は続くだろうと思っています。

2月中ごろに抱いたその思いは今も変わりません。
クラスターでウイルスが留まるはずはありません。
それにそんなに短期間で終息するはずもありません。

ですからこの2週間が重要だというように、問題を矮小化する方法には違和感がありました。
休校するなら半年先まで考えて仕組みを検討すべきです。
医療崩壊が問題であれば、そうならないように制度改善に努めるべきです。

しかし、問題を時空間的に矮小化したために、対策もとても短視眼的なものになってしまっているように思います。
何やらマスク不足が緊急の課題のようにさえ見えてしまいます。
今日になって、全世帯にマスクを2枚届けるなどというばかげたことが発表される現状を見れば、政府がまじめに考えているとは到底思えません。
それだけのマスクがあるのであれば、国民にではなく、医療や福祉関係の施設に今すぐにでも配布すべきです。
政府が医療制度崩壊など考えていないことが感じられます。
そんなことをやっている時ではないでしょう。

新たに法律を立案するときでもない。
まずは現場でできること、やるべきことをやることが必要です。
そうしたことは、2月の末くらいからかなり現場から指摘されていますし、テレビでも現場で仕事をしている人たちから要請されていました。
私のようにテレビでしか状況を推測できない立場でも、しっかりとみていれば、だれが誠実に発言しているかはわかります。

それにいま毎日発表されている感染者数は、私にはまったく理解できません。
そもそもベースになる検査対象者数が発表されていませんから、感染率はまったくわかりません。
関係者がその気になればいくらでもつくり出せる数字です。
ただただ不安をあおっているだけのようにも思います。
統計はいかようにも物語を生みだせるのです。

大切なのは実際に何が起こっているかです。
不要不急の外出など、そもそもそんなにしている人はいないでしょう。
みんなそんなにいい加減に生きているわけではありません。

明日に延ばせることは明日にしろというのであればわかりますが、明日ならいいのかということになります。
その理由にはほとんど根拠はないように思います。

このウイルス騒ぎが1週間や2週間で収まるはずはないでしょう。
むしろ今の状況は問題を先延ばしし㎡複雑にしているようにも思えます。
何が一番大切なのかがきちんと考えられていないような気がします。
不安をあおるような状況は避けなければいけません。
それこそが、感染を広げ、混乱を起こしかねません。

みんないまの「自粛生活」を3か月もつづけるのでしょうか。
それに「自粛」もいいですが、いまの状況でもできることはたくさんあります。
そういう視点で考えないと長期的な生活設計はできません。

私は、自らの健康を守るとともに、生活をしっかりと維持していきたいと思っています。
それが一番大切なことだと思うからです。

昨今のグローバルした状況では、このウイルス感染症が1年以内に終息するとはとても思えません。
そういう視点で、私は生活しています。
決して一過性の災厄ではありません。
緊急事態ではあると思いますが、その先も考えて、自らの生き方をしっかりと考えたいと、私は思っています。

今月を乗り越えればいいわけでは決してありません。
生活はずっと続いていくのですから。

 

 

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■生きるためには死をもいとわない生き方

新型ウイルスの広がり状況を見ていて、ポール・メイソンが「ポスト・キャピタリズム」で書いていたことを思い出して、発想を少し飛ばしてみました。

メイソンは、資本主義世界がいま次の世界へと移りつつあることを示唆しているのですが、そこで「封建主義世界から資本主義世界」への移行について簡単に紹介しています。
メイソンは、封建主義とは「義務を基盤としたシステム」だといいます。小作人が、地主に自分たちが作った農作物の一部を義務として差し出す。地主の代わりに兵役に服することもある。地主は王に税金を支払う義務を負い、要求されれば軍隊に物資を支給する、…というわけです。
そうした世界に、金融を基盤とした新しいシステムが生まれてきた。そして、大きく転換していくのですが、その移行過程をこう書いています。

農業を基盤とした封建モデルは、最初に環境上の限界にぶち当たり、それから黒死病という甚大な外的ショックに直面した。その後、人口動態ショックが起こった。つまり、農地での働き手があまりにも少なくなり、賃金が上がり、封建制度の旧システムでは人々に義務を押し付けることが不可能になった。労働人口の不足により必要となったのが技術的な革新だ。

何やら現代とそっくりのような気がします。
とりわけ不気味なのが環境上の限界と黒死病(ペスト)です。

ちなみにヨーロッパの人口の4分の1の命を奪ったペストは、イタリアとスペインから始まりました。そのいずれも、社会の仕組みが劣化していたからだとも言われます。
これも現代の世界の状況との類似性を思ってしまいます。

さらに発想を飛ばすと、次の世界(未来)はまた「封建世界」かもしれないということです。
最近の日本はすでに「義務(従順)を基盤としたシステム」になってきています。
みんな王様に命令をお願いしている状況です。
自分を生きるよりも、生物的生命を生かせてもらうことをみんな目指しだしている。
生きるためには死をもいとわない生き方です。
これはAI世界につながります。

ここでの「生きるためには死をもいとわない生き方」には真逆な意味が含意されています。
そういう視点で考えれば、私が理解する意味とたぶん現代日本のほとんどの人たちが考える意味とは真逆だと思います。
だから私がサロンを続ける姿勢もわかってもらえないのでしょう。

私にはもうほとんどの日本の人たちは生きることをやめているのに、どうして新型ウイルスが怖いのかが理解できません。
こんな言い方をするとまた叱られそうですが。

ところで、メイソンは未来を展望してこう書いています。

次の50年に外的ショックが起こらなければ、私たちはゆっくりと物事を進めていける。穏やかな移行のプロセスでは、国家が規制を通じて変化の進行役として機能するだろう。しかし、甚大な外的ショックが起これば、中には集中して迅速かつ猛烈に進めなくてはならないときもある。

新型ウイルスは、もしかしたらこの「甚大な外的ショック」なのかもしれません。
ちなみにメイソンが例示していた「外的ショック」は地球温暖化と人口増加です。
第3の「外的ショック」かもしれない新型ウイルスは、あまりにも荒っぽいやり方なので、私は「戦う」のではなく「共存の道」を探るべきだと思っていましたが、どうもみんなはそう思っていないようです。
いまだに1年後にはオリンピックができるなどと思っているのが不思議です。
日本の若者世代よりも「危機感」がないとしか私には思えません。

新型ウイルスの問題は、時間的に数か月程度の問題でもなければ、空間的にクラスターで起こっている問題ではないように思います。
社会の基礎条件が変わろうとしているのではないかと私は思っています。
この2~3か月、生き方を変えれば危機を乗り越えられるような話ではないと思います。
乗り換えるためには、一人ひとりが生き方を考えるべきであり、感染者数の発表数が増えてきたからといって、外出を自粛するようなことでいいとは私には思えません。

すでに感染は社会に広がっているはずですから、そこでの生き方(日常)を自らで考えていくことが大切だと思っています。

 

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