■コロナ危機を活かす〔7〕3つ目の岐路「同調か自律か」
ポストコロナ社会をイメージしながら、コロナ危機をどう活かすかを考えるはずが、どんどん横道に入り込んでしまっていました。
閑話休題。
3つ目の岐路、「同調か自律か」に話を戻します。
前回の話につなげていえば、発想の起点が全体(社会)の場合には「同調」が思考の基本になります。それに対して、発想の起点が個人、つまり自分にあれば、まずは自分ならどうするかを考える、つまり「自律」が思考の基本になります。
同調の場合は、「考える」のではなく「与えられる」「探り合う」と言ってもいいかもしれません。「与えられる」「探り合う」と「考える」は全く違います。
私には「思考」の有無が、「同調」と「自律」の違いのように思われます。「思考停止社会」か「思考稼働社会」かといってもいい。いずれにしろ、社会の質は全く違います。「同調」が基本の社会か、「自律」が基本の社会かでは、社会は全く違っていくでしょう。
現在、コロナ危機という、自らの生命にもつながる状況への対策に関しても、多くの人は「同調」行動に身を任せているように思います。「外出自粛」「対人接触回避」がコロナ危機対策の中心です。しばらく我慢して家に引きこもっていれば、コロナ危機は通り過ぎていく、というわけです。
しかも、その理由を考えることも、問うこともせずに、「専門家」や「お上」任せ。万一それが間違っていたとしても、「みんなで渡れば怖くない」というわけです。
「外出自粛」と言われれば、みんな外出を自粛し、世界を見ないようになってしまう。私には信じがたい話ですが、それで感染防止ができるとみんな思っている。
もしかしたら、それで当面の危機は乗り越えられるかもしれません。しかし、それによって、社会の未来は決まってくる。危機への対策はだれかに任せてしまい、自分では考えない。危機でさえそうであれば、日常の行動は当然に自分では考えずに、周囲に身を任せて、責任も取らずに、お上に従うか、(現在の野党や安倍政権批判者のように)お上に責任をなすりつけるかして、貧しく生きるしかありません。
運よく死を免れたとして(多くの人は免れるでしょう)、コロナ危機がかなり長期的に続くとすれば、これまでの経済の枠組みで生きてきている人は苦境に置かれるようになるでしょう。経済的な困窮が、別の意味での死をもたらすかもしれません。人の意味は全く変わってしまい、人は社会のための道具的な存在になってしまう。
しかしもし、「同調」よりも「自律」を選ぶならば、世界は一変するでしょう。
コロナ関係の情報を自分でしっかり考えるようにすれば、感染予防の対策は変わってくるかもしれません。外出自粛したとしても、その意味を問い直すことで、能動的な予防策や危機を克服する方策も考えつくはずです。
この危機をチャンスにすることさえ、できるかもしれません。
少なくとも、自分の思考で、生き方を変えることはできるでしょう。
所与のものとしてではない、みんなで創りあげていく社会もイメージできるでしょう。
社会は、人間にとっての道具的な存在に戻されるでしょう。
民主主義を「個人の尊重」ととらえれば、その基本には「自分で考える」自律的な個人という主体的な存在が不可欠ですが、最近の日本は、「自分で考える」ことは生きにくさにつながってきています。組織の中で「自分の考え」にこだわっていると、うまくいかず、最悪の場合は死に追いやられる。そんな社会になってきていた状況を、コロナ危機は変えてくれるかもしれないのです。
幸いに、行動が制約されて、時間はたっぷりある人も多いでしょう。
忘れていた「思考」を取り戻し、どちらの未来を選ぶか考えたい。
そして、小さくてもいいので、一歩を踏み出したい。
そう思います。
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