■コロナ危機を活かす〔6〕発想の起点は個人か社会か
コロナ危機で私が考える3つ目の岐路は、「同調か自律か」です。
今回はまるっきり横道なので、お暇の方だけ、どうぞ。
「同調か自律か」は、私が長年、行動の基準にしていることとつながっています。
その基準は、発想の起点を個人に置くか、全体(組織・社会)に置くか、です。
ちょっと読みにくいのですが、20年近く前にホームページに書いた文章があります。
「メッセージ6:発想の起点を変えてみましょう〔2002/04/06〕」
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m6
これまでの日本では、発想の起点は全体(組織・社会)にありました。
まず全体があり、個人はそれに合わせる存在でした。
つまり、個人は全体に合わせる受動的な無表情な存在でした。
学校教育は、子供たちを社会に合わせるための場でした。
そのため学校は子供の能力を伸ばすというよりも、規律に従う訓練と社会に適合するための知識を得る場になり、豊かな感性や意志を持っている子どもたちは不登校になりがちです。そこでは学ぶことの楽しさを味わえず、勉強は苦行になります。
会社に入ったら、会社の常識に合わせないといけません。おかしいと思ってもがまんをするのが会社員の常識であり、そのためメンタルダウンしてしまうことも少なくありません。働くことが楽しくなくなり、これまた苦行になってしまう。
福祉も制度に合わせて考えられますので、個々人の事情はあまり考慮されません。福祉施設では障害者や高齢者の豊かな人間性は認められず、上から目線で「世話されること」になります。そこには、豊かなケアし合う喜びはありません。
高度経済成長期においては、みんな猛烈社員として働きました。
個人の生活よりも、会社の業績、国家の経済成長が目標でした。
会社の業績が上がれば給料も上昇する。パイが大きくなれば、取り分も増えていく。
全体を豊かにすれば、個人も豊かになる。
高度経済成長のおかげで、非常にわかりやすい形で、多くの人がその恩恵に浴しました。
そのおかげで、ボードリヤールが指摘したように、「ウサギ小屋」と言われる住居に住みながら、満員電車に詰め込まれて会社に行って、24時間がんばって、経済を成長させてきたのです。
そして、私たちの生活も「豊か」になってきました。
しかし、「豊か」になれば、「もっと」豊かになりたい、「別の」豊かさを求めたい、と思うのが、人の定めです。
2つの岐路がありましたが、日本だけではなく、世界は「もっと」路線を選びました。
1970年代から80年代にかけての話です。
私は最後の最後で、そうした社会に同調する生き方から離脱しました。
しかし、なかなかうまくいかずに、そうした社会のおこぼれにあずかりながら、なんとか辻褄を合わせながら生きていました。
そんな時に「コロナ危機」。
歴史の岐路の見直しの可能性が生まれてきた、と思いたくなっています。
「もっと路線」は、挫折はしないでしょうが、「別の路線」の魅力が高まるかもしれません。
そんな気がしてきています。
完全な横道でした。すみません。
「同調か自律か」について、次回から書き出します。
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