■節子への挽歌4562:仏性
節子
節子も知っている私の小学校時代の同級生から少し前に届いたメールに、こんなことが書かれていました。
私は、修が花や鳥などの話をする時、その他の場面、人との関係などに、平等界や平等心に由来する激的な仏性みたいなものを感じるのと、劇的に人間そのものであるところに(激しい物言いだなあ)ーーそして昔から考えがぶれていないことを知って(**さんに懐かしい「ぽんゆう」をもらいました。修の言うことが全くぶれていないことをあらためて知った!)安心と信頼を感じます。時には乱気流もあって、そこがまたスリルがあって結構楽しい。
人によっては、掌で遊ばせてもらっているような和み解放感をもらっているかもしれません。絶対感の上で。
いささか、というか、極めてほめすぎだと思いますが、まあそれはそれとして、続けてこう書いているのです。
修の仏性について少しお伝えしたいことがあります。修の仏性には節子さんの仏性が側に具わっているからこそと、最近思うようになりました。
節子さんには2度しかお会いしたことがありません。大津でと湯島でと。そして湯島でのお姿が強く心に焼きついています。寡黙でいらしたのに。
不思議なことですが、今も時々湯島でのお姿を幻視(空想だと思いますか?)することがあります。さらに私自身が不思議なことと思うのですが、普通の格好をしていらっしゃるのに百済観音のお姿で立っていらっしゃるのです。
以上なのですが、ますます私が書くべき内容ではないのですが、一点だけ、私もそう思うところがあるのです。
節子の仏性が、いまの私に影響しているのではないかと、私も最近思うようになってきたのです。
節子は浄土真宗の家で育ったので、私よりは信仰心は強く、その面では私は節子に影響を受けたことは事実ですが、といっても、節子にとりわけ仏性があったわけではありません。
そもそも仏教では、山川草木悉皆仏性といわれるように、すべてに仏性があるわけですが、最近私が思うようになったのは、「仏性」とは事物だけにではなく、「関係」の中に顕在化し育つのではないかということです。
節子を見送った後、数年、私は闇の中を彷徨していた気がしますが、そこから抜け出した今、節子との関係で仏性を感ずることがあるのです。
あるいは、仏性としての節子との関係を実感し、それが私の行動にも影響しているのではないかと思うことがあるのです。
とはいえ、そもそも「仏性」とは何だと問われても、言葉には答えられません。
一言でいえば、すべてが仲間と思えるということでしょうか。
すべての存在の中にある何かとつながれると思えることと言い換えてもいい。
最近のコロナウイルス騒ぎにも、不安をほとんど感じないのは、ウイルスにも仲間感を持ってしまうからかもしれません。
いつも心の平安を維持できているわけではありませんが、大きな意味ではいつも平安でいられるのは、節子のおかげかもしれません。
節子には、私よりも早く逝ってしまったことへの恨みを言いたい気もしますが、それ以上に平安を与えてくれたことに感謝しなければいけません。
ありがとう。
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