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2020年5月

2020/05/31

■節子への挽歌4625:誕生日のお祝いメッセージ

節子

昨日は誕生日でしたが、フェイスブックでいろんな人が「誕生日おめでとう」メッセージを送ってきてくれました。
昨年は、これに異を唱えたので、昨年よりは少なかったと思いますが、個人宛メールや公開の書き込みなど60人以上の人からのメッセージです。
なかにはどうも決まった長い定型文のようなものもありますし、シンプルな「お誕生日おめでとうございます」というのもあります。

よかれと思って書いたのかもしれませんが、私が批判していることや写真を供えたものさえあります。たとえば、一昨日、コロナ対策で頑張っている医療関係者への謝意を示すためと言って、政府は東京上空に自衛隊のブルーインパルスを飛ばせましたが、その写真を添えてお誕生日おめでとうと書いてきた人もいます。
私のフェイスブックを読んでいるのか、と言いたい気もしますが、儀礼的にただ制度に乗っているだけの生き方をしている人でしょう。気持ちを逆なでしていることなど全く気にせずに、ただかいてきているので、別にその人に悪意があるわけではないでしょう。
こういう人が多いので、哀しくなります。

しかし、そうしたことを踏まえてメッセージしてくる人もいます。

フェイスブックなどの形式的になりがちな誕生祝いは通常していないのですが、佐藤さんには、心からお祝い申し上げたい気持ちです。

そして、その後に具体的なメッセージを書き込んでくれています。
なかにはこういうメッセージもあるので、うれしくなります。

昨年は、たしかメッセージに返信しなかった気がしますが、それも大人げないので、よほどの定型パターンでなければ、今年は返信をさせてもらいました。

しかし、人はなぜ誕生日におめでとうというのか。
それは実はとても簡単なことで、話しかけるきっかけになるからでしょう。
ある友人はこう書いてきました。

佐藤さん、お誕生日、おめでとうございます。多くの人は、何らかのきっかけがないと、言葉をかけにくいので、幾つになっても誕生日があると、そのチャンスとなります。佐藤さんに声かけたい人にも、今日はよい日です。笑顔が増えますように!

そうか、誕生日はその人のためにあるのではなく、他者のためにあるのだ。
そう気づかせてもらいました。

これを聞いたら、節子はきっと笑って言うでしょう。
修にとっては、その時が誕生日だったり、〇〇記念日だったりするから、付き合いきれなかった、と。
私は、誕生日があって贈り物をしたり会食したりするのではなく、贈り物をしたくなったり会食したくなった日が、私には誕生日だったり、〇〇記念日だったりしたのです。

そういう関係の伴侶がいないのが、とても寂しいです。

 

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■節子への挽歌4624:寝室の模様替え

節子

昨日、寝室を模様替えしました。
節子がいなくなってからも、寝室にベッドを2つ置いたままでした。

昨日、その空いたままのベッドを搬出しました。
部屋の中央にあったベッドも、窓際の端におくようにしました。
寝室はこんなに広かったのだと、改めて思いましたが、昨日からそこで寝ることにしました。
雰囲気が一変しました。
少しずつですが、節子が住んでいた家も変わっていくでしょう。

ところで、昨夜、深夜3時ころに目が覚めてしまいました。
いつもとは違う「寝苦しさ」を感じたのです。
いままでは西向きに寝ていたのですが、南向きにしたのと、ベッドを壁にくっつけるようにしたのが影響したのかもしれません。
目が覚めてしまったので、昨日から読み出して、枕元に置いてあった、磯野真穂さんの「医療者が語る答えなき世界」を読んでしまいました。
そこにこんな文章が出てきたのです。

私たちは住んでいる場所や、それまで使ってきたモノ、そこで過ごしてきた時間に様々な意味を付与し、その意味とともに暮らす生き物でもある。亡くなった両親の実家を取り壊す時、それが単なるモノと場所の消滅以上の意味を持ち、私たちに複雑な感情を抱かせるのは、その空間に両親とともに生きてきた時間が流れているからである。

あまりにタイミングの良さに、ちょっと心が震えてしまいました。
そして結局、残りをすべて読み終えてしまいました。

部屋の模様替えは、人生の海図を変えること、なのかもしれません。
この本のことは改めて書きたいと思いますが、タイミングが良すぎます。

 

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2020/05/30

■節子への挽歌4623:とうとう79歳になってしまいました

節子

とうとう79歳になってしまいました。
まさかの長寿。困ったものです。
なかなか次に進めません。

しかし、自分の歳を認識することは実に難しい。
主観的な年齢感覚と客観的な年齢感覚は、たぶん大きく違っているのでしょう。
つまり、高齢者の多くは、世間から受け止められている状況とは違った生き方をしているのかもしれません。
あるいは、身体的年齢と心理的年齢はずれてしまうことがあるということでしょうか。

いずれにしろ今日で世間的には79歳。
誕生日には意味がないのではないかと思うようになってからだいぶたちますが、今年は素直に誕生日を自覚しようと思います。

79歳初日の朝は、とてもすがすがしい朝です。
空もうっすらと雲がたなびいていて、とてもやさしい朝です。
しかし、やはり鳥が少ないのが気になります。
いつもはもっとさえずっているのですが。

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2020/05/29

■節子への挽歌4622:来年は80歳です

節子

先日、朝日新聞の別刷「Be」に、「手賀沼の近く芸術家が集う白樺派が行き交ったハケの道」が大きく紹介されました。
わが家から歩いて5分くらいのところです。
節子の闘病時代には、毎朝、ここに散歩に行っていました。
そのせいで、節子がいなくなってからはしばらくは行くことができませんでした。
最近は時々行きます。

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この記事を読んでメールをくれた人がいますが、昨日も大学時代の友人がメールをくれました。
節子の訃報を聞いて、もう一人の友人と一緒にわが家まで献花に来てくれた大藤さんです。

大藤さんは私よりも年上です。
学生時代に大阪の彼の家に遊びに行ったことがあります。
節子と結婚した直後、大津で6畳一間の仮住まいをしていた時に、みんなでわが家に来たこともあります。

もう10年以上、会っていません。
私と同じく、孫がなかなかできなかったのですが、2年ほど前に孫が生まれたそうで、いまは毎週送ってくれる動画を見ているそうです。
彼のうれしそうな顔が眼に浮かびます。

まもなく80歳だそうですが、私も来年は80歳。
まさか80歳まで現世にいるとは思ってもいませんでした。
どこかで何かを間違えてしまったような気がします。

 

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■節子への挽歌4621:立派な新玉葱

節子

昨日またちょっといいことがありました。
熊本出身の吉本さんが、地元の玉葱農家が給食がなくなったため玉葱が売れずに廃棄しなくてはいけないという話を聞いて、農家支援のために購入して私にまで送ってきてくれたのです。

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とても大きな玉葱で、育て主の農家の人にとってはとても廃棄する気にはなれないだろうなと思いました。
私は畑で時に小さな野菜が取れますが、どんなに小さくても廃棄する気にはなれません。
まあ収穫を忘れて、ダメにすることが多いので、偉そうなことは言えないのですが。

早速、近くに住む兄のところにおすそ分けで届けました。
老夫婦の兄たちも、コロナでなかなか外出もままならないようです。

夕食にスライスした玉葱をどっさりと食べました。
一時、毎日食べていた高血圧対策の酢玉葱は最近はもう忘れ去られています。
困ったものです。

やはり新玉の甘さは酢玉葱とは違って美味しいです。

最近また畑に行けていません。
その元気がどうも出てきません。

それにしても、最近、なぜかいろんなものが届きます。
私が滅入っているのが何となく伝わっているのでしょうか。
そんなことはないでしょう。
もしかしたらみんな、誰かに何かを贈りたいという気持ちが高まっているのかもしれません。
残念ながら私には今のところ、あんまりその気は起こってこないのですが。

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2020/05/28

■節子への挽歌4620:コロナにも変えられなかったこと

節子

コロナ騒ぎに振り回されることなく、注意しながらも生活はできるだけ変えないようにしていたつもりですが、結果的には大きく変わってしまった気がします。
その変化の方向は、たぶん「いい方向」なのだろうと思いますが、これまでの毒された生活観のせいか、どうも充実感がありません。

時間の流れは間違いなくゆったりしてきていますが、豊かにはならずに空疎になっているような気もします。昨日は、15分かけて一杯のコーヒーを淹れましたが、ただ単に時間をかけただけのような気もします。
大切なのは「心の状況」であって、時間はその従属概念でしかないようです。

この数日、心に引っかかっている問題は、いずれも冷静に考えれば大した問題ではありません。しかし、そういう「ささいなこと」も、心の状況次第では大きな重荷になってきます。どうも気が晴れない。

人が「自死」を決したり、「殺人」を行ったりするときには、たぶん「ささいなこと」が大きな力を発揮してしまうのでしょう。
昨日も、多数の死者を出した京都アニメーションの放火殺人事件が話題になっていましたが、あの加害者にしても、最初はちょっとした「ささいなこと」から、始まったのでしょう。

人生はまさに「バタフライ効果」の連続なのです。
それはまた色即是空の世界でもあります。

今朝もその「ささいなこと」が気を晴らさせてくれません。
こういう朝が、もう13年つづいている。
コロナも、それを変えてはくれなかった。

困ったものです。

 

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2020/05/27

■節子への挽歌4619:思わぬ人から「煎り上手・生豆セット」が届きました

節子

思ってもいなかった荷物が届きました。
コーヒー豆焙煎器と生豆です。
送ってくれたのは地元の知人の海津さんですが、最近の外出自粛状況を気遣ってくれたようです。

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荷物が届く前に、メールが届きました。

前から思っていたのですが、佐藤さんは手挽きのコーヒーミルを持っていらしたので、「煎り上手・生豆セット」をお贈りしたいと考えていました。

そういえば、以前、彼女の事務所に行ったときに、彼女が煎ってくれてことを思い出しました。たしか海津さんたちが開発したような話を聞いていましたが、商品化されていたのです。
ネットで調べたら、市販されていて、コーヒー通の人には人気のようです。
それに高価なのでちょっとビビりました。
気楽に受け取っていい額をちょっと超えています。

セットは、自宅にあるガス・コンロで生豆を煎ることができる個人仕様のものです。
有機農法の生豆も2袋ついています。
事前にもらったメールの最後に「雨にもコロナにもマケズ、頑張りましょう」と書いてありました。

早速、煎ってみました。4~5分で簡単に煎りあがりました。
それを挽いて、コーヒーを淹れました。
今回は少し深煎りにしてみましたが、煎り具合は好みで変えられます。

生豆は完全有機で、グアテマラと東ティモールが入っていました。
思ったよりも香りが少なかったのですが、いろいろと工夫したら、いろんな楽しみ方がありそうです。
アルカリ性の極上のコーヒーが楽しめるとパンフレットには書いてあります。

最近はだんだん怠惰になり、粉を使って、コーヒーメーカーで簡単に淹れるようになっています。つい先日、エスプレッソマシーンも廃棄してしまったところです。
さて明日からどうしましょうか。
悩むところですが、しばらくはこれでコーヒーを楽しもうと思います。
これでまたコーヒーの消費量が増えるかもしれません。

 

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■節子への挽歌4618:分かち合う生き方

節子

昨日、敦賀にいる甥から消毒液が届きました。
次女の連れ合いが飲食店をやっているので、消毒液が必要だろうとたまたま手に入れたものをおすそ分けしてくれたようです。わが家に送られてきましたが、わが家はいまはあるので、次女にすべて渡しました。

マスクやトイレットペーパーもそうですが、基本的にはモノは十分にある時代です。
問題は「配分」で、その結果、手に入らない人が出てしまうわけです。
モノ不足パニックは、すべて私欲の結果だと思っていますので、何かが足りないような状況であればこそ、我慢できるものは我慢すれば、結局は必要な時には誰かから回ってくる、と確信しています。

そう言えば、昨日、友人が、地元の学校給食用の玉ねぎ農家の玉ねぎが廃棄されようとしているので少し買うことにした、と言って、私におすそ分けすると連絡がありました。
そういう申し出は一切遠慮しないので、「ありがとうございます」と伝えておきました。
モノ余りパニックも、人のつながりで解消できるはずなのです。
みんなが「分かち合う」社会になれば、格差などなくなるかもしれません。

しかし、そういいながら、私にはかなりの私欲があることも事実です。
時々、われながらいやになることもあるほどです。
というか、私欲にあふれた生活の結果がいまの私の生活環境をつくっているともいえます。

この15年ほどは、お金とできるだけ切り離した生活をしていますが、それが成り立つのもそれまでの収入のおかげです。
幸いにその貯金はそろそろ底を突いてきましたが、貯金がなくなっても今の生活スタイルを維持できるかどうか、ちょっと楽しみです。
いくつかのお金が必要な難問も現れ出していますので、私の信念が守れるかどうか、微妙ではありますが、まあこういうことは今回が初めてもありません。

さてさてどうなっていきますことやら。

 

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2020/05/26

■節子への挽歌4617:孫からの誕生日プレゼント

節子

今日は孫家族が来ると言うので、リフォームの相談かなと思っていました。
年内に同居を考えていますが、まだきちんと相談ができていないのです。

ところが、手洗いを終えた孫(わが家に来たらまずは手洗いをします)がとんできて、私に何かを手渡してくれました。
何だと思ったら、手作り人形でした。
よく見たら、そこに「おさむさん 79 にこ」と書いてありました。
そうか、誕生日のプレゼントなのだと気づきました。
私は誕生日とか〇〇記念日というのに、あまり興味がないのです。

娘たちもケーキを持ってきてくれました。
ケーキを前に、孫が“Happy Birthday to you …”と歌いだしました。
ところが、私の名前を言うべきところで、うっかり自分の名前、“…for nico”と言ってしまい、慌てて歌いなおしてくれました。

手作り人形は、トイレットペーパーの芯でつくったものです。
昨年は孫が描いた絵でしたので、だいぶ進化しました。
早速、節子に供えました。

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昨日は最悪の日でしたが、今日はちょっといい日でした。
人生は、良い日もあれば悪い日もあります。

 

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■節子への挽歌4616:ドア嫌い

節子

昨日は散々な日で、夜にもまた“惨事”がありました。
娘はトイレに入ると鍵をする習慣が昔からあります。
ところが昨夜、そのトイレのカギが壊れ出られなくなったのです。
普通なら外からも開けられる鍵なのですが、外からやっても開かない。

いろいろと試みましたが、どうしようもない。
かなりがんばったのですが、これはもう壊すしかないということになり、ドアをこわしました。
出来れば壊したくなかったので、30分近く奮闘してしまいました。

悪いことは重なるものです。
娘にとっても、私にとっても、昨日は最悪の1日でした。

そんなわけで、今日はトイレのドアがないままです。
もっとも私は、トイレのドアを閉めないのでいつも娘に注意されています。

閉めないのはトイレだけではありません。
寝室もドアを閉めずに寝ています。
よほど寒い時には閉めますが、閉めることはほぼありません。
私は閉鎖空間が好きではないのです。
というか、空間を遮るドアそのものが嫌いなのです。

昨日は最悪の日でしたので、今日はきっと良いことがあるでしょう。
しかし、どう考えても、今日もあまり良いことはありそうもありません。
悪い話は、いくらでも思いつくのですが。

困ったものです。

 

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■人は「いいとこどり」はできません

延び延びになっていた、孫の幼稚園(4月に入園)が始まるそうですが、当面は「分散登園」だそうです。
通園バスではマスクをして会話は禁止、給食時もアクリル板で仕切られるそうです。
幼稚園という初めての集団生活のはじまりのスタイルは、子どもに大きな影響を与えるでしょうが、いささか心配です。
コロナ感染よりも、むしろ私にはそちらのほうが気になります。
人が生きている以上、病気に感染することは正常なことです。それは「支え合い」の一つのスタイルです。

昨日も書きましたが、そして以前から書いていますが、人と距離を取るとか、直接のタッチは避けるとか、マスクに加えてフェースシートをかぶるとか、私にはなじめません。
そういう環境や「生活様式」のなかで育った人間はどうなるのか心配です。
人工的に育成された動植物のような、弱さを感じてしまいます。感染症にもかかりやすくなるでしょう。

先月、古代インダス文明のモヘンジョダロに関する森本哲郎さんの話を書きました。
清潔に整備されたモヘンジョダロは、戦争の痕跡もないまま、突然滅んでしまった。
それは、清潔な都市を完成させるために、邪魔な人間が自ら退場したのではないかと森本さん(正確にはその本に登場する人)は言うのです。
コロナ対策でいつも思い出すのがこの話です。
コロナ感染をなくすためには、人間がいなくなればいいのです。

在宅のテレビ会議で済むのなら、たぶんその仕事は人間でなくてもやれるはずです。
人間は本来、たくさんの病原菌を含む生命体の塊であり、非論理的で感情的な、いろんなものの感染源的な存在です。
人と付き合うといろんなトラブルに巻き込まれますし、身体的な病気や精神的な病までうつされることもある。しかし、それが人間ではないかと思います。

死はできれば避けたいですが、死があってこその生です。
死にたくなければ生まれなければいい。
感染したくなければ、生活をやめればいい。

昨日紹介した本の著者の一条さんは、「死は不幸ではない」と言います。
もし死が不幸ならば、死を避けられない生もまた不幸ではないかというのです。

人は「いいとこどり」はできません。
死や感染も含めて、豊かな人生を生きたいと思います。

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■生きる元気を与えてくれる本の紹介

一条真也さんの「死を乗り越える」シリーズの第3弾が出版されました。
現代書林から出版された『死を乗り越える名言ガイド』(1400円)です。
読書、映画に続き、今回は名言です。副題は「言葉は人生を変えうる力をもっている」。
一条さんが多彩な活動の中で出合った、人生を変える力を持つ言葉を100集めて、それぞれに一条さんの思いを添えた名言集です。

新型コロナウイルスで、世界中に「死の不安」が蔓延している現在、「死の不安」を乗り越える言葉を集めた本書を上梓することに、一条さんは大きな使命を感じていると書かれていますが、まさに時宜を得た出版で、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。
100のメッセージからいろんなことが示唆されますが、きっと自分にとって心にすとんと落ちる言葉が見つかるはずです。そして、生きる元気が得られるでしょう。
また100の言葉を通読すると、長年、死と生の現場に関わってきている一条さんの深いメッセージも伝わってきます。

一条さんの死生観にかかわる著作はこれまでも綿sのホームページでたくさん紹介させてもらってきていますが、一条さんの死生観を貫く3つの信念が、本書の最後にまとめられています。
その3つとは、「死は不幸ではない」「死ぬ覚悟と生きる覚悟」「死は最大の平等」です。
そうした信念に基づいて選ばれた100の名言には、それぞれに「人生を変える力」が秘められています。この時期にこそ、じっくりと噛みしめて、そこから力を引き出してほしいと思います。

ちなみに、同じ「死を乗り越える」シリーズの次の2冊も同じ現代書林から出版されています。よかったら併せてお読みください。
『死を乗り越える読書ガイド』
『死を乗り越える映画ガイド』

 

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2020/05/25

■何かが大きく間違っているような気がします

新型コロナ感染症に関わる正確なデータはなぜかまだ公開されていません。
センセーショナルな情報は、映像も含めてたくさん出ていますが、実態がまだ見えてきません。実態が隠されているので、「不安感」どころか「恐ろしさ」さえ感じている人も少なくないでしょう。それで陰謀論がいま社会にあふれ出てきているようです。

マスク不足も含めて、すべては「人為的に意図された実体のない虚像」だと私は思っていますので、私自身には不安はありません。
しかし、実際に新型コロナ感染症にどのくらいの人がかかったのか、実際の死亡率はどうなのか、毎年のインフルエンザとの違いはどうなのか、等は知りたいと思っています。

テレビで、異論を唱えていた人たちも、最近はほぼみんな大きな流れに飲み込まれつつあるような気がして、テレビ録画してチェックしていたのをやめました。
もはや信頼できるのは、自分の直観力と実際の体験だけです。

しかし、外出にマスクは必携になってしまいましたので、外出意欲が失われてきています。
それに他者との接触を回避する姿勢にはどうもなじめません。自分を感染源と考えたり、他者を感染源と考えたりすることが、どういう結果をもたらしていくか、心配です。
何かが大きく間違っているように思えてなりません。

 

 

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■節子への挽歌4615:重荷につぶされそうです

節子

新型コロナウイルスの感染防止のために行われた緊急事態宣言は解除されるようです。
私は昨日は湯島に行っていたのですが、娘から、我孫子は人がたくさん出ていたと聞きました。近くの公園はもとより、スーパーも駐車場が満杯で車を止めるのが大変だったそうです。行動自粛は長くは続けられません。

今日はちょっと気の重い話がつづいて起きました。
こういう時に一人では結構つらいものがありますが、まあそう甘えてもいられません。
いずれも結論が出たわけではないのですが、いまは気が弱くなっているせいか、へこんでしまいます。ここに書くわけにもいかずに、思わせぶりな書き方になってしまいますが。

考えようによっては、大した問題ではないのかもしれません。
とりわけひとつは経済的に解決できる問題です。
でもなぜか気がとても重いのです。私の生き方に関わっているからかもしれません。

私はこれまでみんなの「善意」に支えられて生きてきた気がします。
少なくとも「お金」に支えられる生き方ではありませんでした。
地位もお金もないのに、なぜかみんな私を善意で支えてくれていました。いや、いまもなお、です。
その「善意」に甘えすぎてきたのではないか、いや、いまもなお、甘えすぎているのではないかと、最近少し思うようになってきたのです。
私は、人はみな「善意」を持っていると確信しています。
その善意を信じていれば、裏切られることはないという確信があります。
実際には、その確信は裏切られたり、大きな被害を受けたりすることもあるのですが、それもまた肯定的に捉えようという生き方をしてきました。

もちろん、時に傷つけられることもある。その時、いつも、一緒に受け止めて元気づけてくれたのが節子でした。元気づけたと言っても、何かをしてくれたわけではありません。私の重荷やつらさをシェアしてくれたのです。
人は、どんな不幸もシェアしてくれる人がいれば大丈夫だと私は思っています。実際には、夫婦で命を断ったという人もいますから、そんなことはないのかもしれませんが、たぶんその最後の瞬間もまた、2人は幸せだったと考えれば、大丈夫だったのかもしれません。実際につい最近もそうした事例にも出会いました。

しかし、善意に支えられて長年生きてきたせいか、時に耐えようがないほど気が滅入ることがあるのです。
ちょっとしたつまらないことだとは思ってはいるのですが、どうしようもなく憂鬱になってします。

いまちょっとたくさんの重荷を背負いすぎてしまっているのかもしれません。
一つひとつは対して重くはないのですが、足腰がともかく弱くなっています。
それに、実は個人の存在を超えた、とんでもなく大きな重荷がだんだん見えてきたことも、その一因かもしれません。

困ったものです。

 

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■湯島サロン「世界新型コロナ工作終息論考〜仮に陰謀ならどう終わるのか?」報告

テーマサロン再開1回目の「世界新型コロナ工作終息論考」は定員を決めていたはずなのに、結果的には定員を超えるサロンになりました。世代も20代から70代と幅広かったのに驚きました。みんな本当に陰謀論が好きですね。

中嶋さんは、まず3月のサロンで話してくれた予測を復習、感染症は4月にピークを迎え、5月には収束という予測は、見事に的中していました。自然現象は予測困難ですが、人為的な陰謀は論理的に予測できる、ということで「陰謀説」を立証?してしまった。

今回はそうした中嶋さんの予測の裏付けとなる陰謀史観や陰謀論的世界観へと話は広がり、ロスチャイルド家やディープステイトはもちろんですが、ケネディ暗殺や日本人・ユダヤ人同祖論、さらに横田空域や日米合同委員会、STAP細胞にまで話題は広がりました。なにしろ「陰謀論」は際限なく広げられるのが特徴です。

参加者もそうした話には「ノリ」がよくて、なかなか新型コロナ工作の終息の話に行かなかったのですが、中嶋さんは、最後に、新型コロナ事件を次のように明確に総括してくれました。

今回の新型コロナウイルス事件は、「世界金融支配体制」「ディープステイト(DS)」「イルミナティ」「300人委員会」などと呼ばれている、世界を裏から支配しコントロールしている闇の勢力が、200年も前から画策している「世界革命行動計画」実現のために、対抗する敵対勢力の駆逐と計画実現の前提の人口削減と大衆管理(人類家畜化計画)推進のために仕掛けた計画的で残虐非道なパンデミックオペレーションなのです。

ちなみに、上記の「闇の勢力」DSに対抗しているのも、また「もう一つの闇の勢力」(アンチDS)とも言えそうです。その代表がトランプやプーチン、習金平。残念ながら日本を率いている安倍さんは、あまりに端役なのか、名前も出てきませんでした。つまり、2つの闇の勢力に媚を売りながら、右往左往しているのです。コロナ対策がしっかりしていないのも当然のことなのです。

しかし、そうした2つの「闇の勢力」の争いのためのものであれば、私たちはその余波を受けているだけの話です。家畜化が進められている私たち大衆の運命はどちらに転んでも、あんまり変わらないのかもしれません。ちょっと憂鬱になりますね。

闇の勢力に抗って、脱家畜化に挑戦するシナリオもないわけではありません。
闇の勢力の力の源泉は「通貨発行権」ですから、そのカギは「通貨」です。
そこで、地域通貨や公共貨幣という挑戦も行われているという話も出ましたが、コロナ対策でお金を給付する話がでると、闇の勢力の「施し」に恭順してしまうのが、大衆です。困ったものです。
抗うのであれば、「覚悟」を持たなければいけません。

現代社会は複雑化していて、個人には見えないことがほとんどです。事実が見えないと、人は不安に襲われる。それが陰謀を信じたくなる理由だと言われます。辻褄が合うような物語を創造・想像し、安心したくなる。その際、目立つ存在に目が行くのは当然の結果で、資産家やユダヤ人が主役になってくるわけです。凡庸な安倍さんは主役にはなりません。

また、陰謀論には、「あらゆるものはつながっていて、意味がある」と「すべてはいまを説明するためのもの」という2つの原則があると言われます。
そのおかげで、陰謀論から見ると社会のさまざまな問題を話題にできるのです。今回も、いろんなことが話題になりましたが、陰謀論にはそうした効用もあります。

それに、陰謀論に従えば、どんなことも「誰かのせい」にできますから、話し合いは平和に進められるのです。「闇の勢力」である大きな敵に対しては、立場を超えてみんな、仲間になれるのです。

最後に、ではこの新型コロナ騒ぎに私たちはどう対処したらいいのかと質問しました。
中嶋さんは、「愛と良心が響き合う世界をつくること」だというのです。つまり、価値観を変えること。お金のために生きるのではなく、愛と良心を大切にすることだいうのです。
考えようによっては、それに気づかせてくれる、もっと大きな陰謀(自然の摂理)が働いているのかもしれないと思いました。
その方向に世界が動き出すように生きたいと思います。

というわけで、今回の陰謀論サロンも平和に終わりましたが、コロナ騒ぎに関しても、意図された陰謀なので、解決策はすでにあるはずですから、そう心配することもないというのが、もう一つの結論だったような気がします。
ただ誤解してはいけないのは、感染症よりも恐ろしいことが、その向こうにあるかもしれないということなのです。

ちなみに、2つの闇の勢力の争いの決着に関しては、今秋のアメリカ大統領選で少し状況がわかるかもしれません。トランプ再選か再選阻止かによって、コロナ感染症のパンデミック状況も変わりうるということのようです。

かなり不正確な報告ですが、「陰謀論」はなかなか難しく、報告も難しい。間違った報告になっているかもしれませんが、中嶋さんには責任はありません。念のため。

Nakajim202005

 

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2020/05/24

■節子への挽歌4614:支え支えられて生きていく

節子

敦賀にいる節子のお姉さんからお米と野菜が届きました。
野菜はいま高いそうなので助かります。
まあこういう感じで、私の生活は支えられているのでしょう。
感謝しなければいけません。

もしお金などというものがなくなり、お互いに分かち合うような人のつながりが社会を構成するようになったら、世界はどんなに住みやすくなることでしょう。

幼馴染の友人がいまちょっと闘病生活に入っていますが、彼を見舞った人の友人から、彼が、「修が、経済の豊かさより心の豊かさを求めた方が良いと言っていて、変なことを言うと思っていたけど、修の言うことは正しい。これからはそんな方向に世の中が変わっていくんじゃないかな」、と言っていたそうです。

彼は最近、私に会うたびにうなぎをご馳走してくれます。
自分は胃の一部がないので、そんなに食べられないのですが、お店に行くと私が普段はとても食べられないだろう一番高いのを注文したがります。困ったものですが、そうやって私を支えてくれているわけです。

彼は靴屋をいまでもやっているのですが、最近は感じのいい人には原価割れで売ってしまうようなので、いささか心配ですが、まあ彼が言うような方向に社会が変わっていってほしいです。

昨日は土曜サロンでしたが、予想以上に人が集まりました。
みんな人とのつながりを求めている。
しかし、人とのつながりを生みだし維持していくのは、それなりにわずらわしいことでもあります。そのわずらわしさを受け入れるかどうかがポイントです。

生活を支えられるということは、その相手の生活を支えるということでもあります。
「ケア」ということが、双方向的な関係概念であると同じように、「支える」もまた双方向的な関係概念です。

支え支えられて生きていく。
コロナ騒ぎがそういう社会に向かわせてくれるのかどうか、まだわかりませんが、もしそうなればコロナのパンデミックも起こらないでしょう。
パンデミックは、コロナウイルスが起こすのではなく、人間が起こすものだと、やはり私はいまでも思っています。

 

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2020/05/23

■節子への挽歌4613:何かのために頑張り続けても、いきなり失うのが人生

節子

節子は暴力が出てくる映画は嫌いでした。
結婚したころは、京都でよく映画にも行きましたが、いつも私好みの西部劇とサスペンスものでした。
節子が退屈しながら付き合ってくれていたことに気づいたのは少したってからで、それからは、その種の映画はほとんど行かなくなってしまいました。

大学時代は、一時期、映画評論家になりたいと思ったほど映画館にはよく通いました。
西部劇はジョン・フォード作品よりも、ジョン・スタージェス作品が好きでした。
ジョン・スタージェスには決闘三部作というのがあって、そのひとつ「OK牧場の決闘」は繰り返し映画館に行きましたが、3作品で好きになれなかったのが、「ガンヒルの決闘」です。この作品はたぶん2~3回しか観ていないでしょう。

ところが昨日、BSでこの映画をやっていました。
それで観てしまったのですが、印象がだいぶ違いました。
まあ一言で言えば、面白かったのです。

こんな会話が出てきます。
久しぶりに会った親友に向かって、牧場主として成功したベルデンが言います。

「何かのために頑張り続けても、いきなり失う。それが人生」。

ベルデンは妻を失ったのです。
そして久しぶりにやって来た保安官のモーガンも、妻を亡くして、その犯人を捜しにベルデンのところにやってきたのですが、その犯人がベルデンの息子だったのです。
実に暗い話です。
たぶんそれだから私はこの映画が好きになれなかったのです。
ラストシーンも、実にさびしいのです。

しかし、久しぶりに観て、妻を亡くした2人の男たちの気持ちがわかったような気がしました。
しかも暗さが感じられない。
もしかしたら、ベルデンはわざと親友に殺されたことがわかりました。

この映画の主役を演じたカーク・ダグラスには「ガン・ファイター」という西部劇がありますが、そこではカーク・ダグラスが最後にわざと撃たれて死ぬのです。そのシーンを思い出しました。この映画も、私の好みではありません。

「何かのために頑張り続けても、いきなり失う。それが人生」。
この言葉の意味が、たぶん前に観たときにはピンとこなかったのです。
いまは実によくわかる。

いきなり失うのが人生。
とても考えさせられる言葉です。

 

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■節子への挽歌4612:「困ったものだ」

節子

玄関のバラが満開ですが、庭の花は植え替え時期を間違ったために大事にしていた牡丹や芍薬やイチジクが枯れてしまいました。
まだ肝炎にではないので希望はありますが、どうも今回は無理そうです。
ユカが大事にしていた花まで枯らしてしまいました。
人生はうまくいきません。

こういう時に、私は「困ったものだ」という言葉を使うのだそうです。
自分ではあまり意識していなかったのですが、「困ったものだ」は私の口癖のようです。

昨日もフェイスブックで、ある人がそれを意識して、私へのメッセージに「最近あれもこれもと欲張りになってきました。どうしてでしょうか?困ったものです」と書いたら、すぐに別の人が、「困ったものです=教授は修先生😄です。(爆笑)」と書き込みました。
どうも「困ったものだ」は、私の口癖として受け取られているようです。

人にはみんなそれぞれの口癖があります。
それがその人の記憶につながっていく。
そう思って、最近、逝ってしまった友人のことを思い出すと、確かにそれぞれになんとなく口癖があります。

「俺にはまったくわかんねえ」とサロンの流れを変えてくれた太田さんや「これはいい言葉だ」と自画自賛するようなかたちでメッセージを強調していた蔵原さん。それ俺にそう話す時に顔の表情も含めて思い出されます。

ところで節子の口癖は何だったのでしょうか。
思い出せそうで思い出せない。
いろんな表情の節子を思い出せるのですが、なぜか節子の言葉が聞こえてこない。
本当に、困ったものです。

後で娘たちに訊いてみようと思います。

 

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2020/05/22

■湯島サロン「益田先生の『看子の日記』を話し合う」のご案内

細菌学者の益田さんには2回にわたり、「ウイルスとの付き合い方」のサロンを開催してもらいました。定員の関係で、参加できなかった方がまだいるので、3回目を考えたのですが、2回目の参加者の話を聞いていて、ウイルスや感染症関係の情報はかなり広まっていることを感じました。
そこで、3回目は趣向を変えて、少し広い視点での益田さんとの対話サロンを企画することにしました。

益田さんは、主に看護医療関係者向きに『看子の日記』という短編小説を書いています。今回は、それを事前に読んできていただき、参加者の疑問や感想を軸に、自由な談話形式でのサロンにしたいと思います。
『看子の日記』には、いろいろなテーマや論点がちりばめられているので、話し合う話題には事欠きません。
ご関心のある方は、事前に『看子の日記』をデータで送りますので、それをお読みいただき、参加するかどうかを決めていただければと思います。

ウイルスや感染症に限定することなく、医学とか生物学領域に話題を広げ、少し広い視点から最近のコロナ危機や私たちの生き方を考え直せればと思います。
益田さんは、自由な談話形式での話し合いを希望されていますので、柔軟にお考えいただき、新型コロナ関連の話題も自由に出していただいてもいいかと思います。

看護医療関係者に限らず、さまざまな立場の方のご参加をお待ちしています。

〇日時:2020年6月14日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「益田先生の『看子の日記』を話し合う」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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■一人称自動詞で考え行動したい

新型コロナウイルスの流行が新聞などで話題になりだしたのは1月の後半頃からでした。2月上旬に京都旅行を申し込んでいたのですが、それをキャンセルしようかどうか迷ったので、はっきりと覚えています。
私がコロナ関連情報をテレビで毎日チェックするようになったのは、その頃からです。当時は、しかし、これほど日本でも問題になるとは思っていませんでした。それで旅行は直前まで迷いましたが、出かけました。

その時に、ホテルで読んだ京都新聞の記事が出てきました。
中国からの旅行客は激減して、嵐山も金閣寺も空いていました。
当時から観光地ではかなりの注意が行われていましたし、マスク不足も問題になっていました。にもかかわらず、その後、対策はなかなか進みませんでした。

あれから4か月近くたっているのです。
今週から、テレビのコロナ関連の報道はもう見るのをやめました。全くと言っていいほど繰り返しで内容がありません。

2月上旬の京都旅行中、京漬物を買うため、娘に付き合って錦市場に寄りました。
寺社仏閣と違って、そこは中国人観光客も含めてとても混んでいました。
いささかのリスクを感じて、娘に頼んで、漬物屋さんに寄るだけにして、そこを離れましたが、漬物屋さんもすでに客は少なくなっていると言っていました。そのときも客は私たちだけでした。

実は旅行から帰ってきてから体調がちょっと悪くなりました。
1日だけ熱も37度を超えましたが、すぐさがりました。しかし、念のために1週間ほど自宅待機しました。その後、少しでも体調に違和感があるときには外出を控えました。
そうした状況から抜け出した頃から、世間では外出自粛が叫ばれ出しました。

そんな体験から私は市中感染者は1~2割いるのではないかと1か月ほど前にFBに書いてしまったのですが、どうもそれは過大評価だったようです。しかしもしそうなら、これからがいささか心配です。

外出自粛とか新しい生活様式とか言われていますが、そんなことに全く関心はありません。そういう呼びかけをしている人たちの多くは、自分ではそうしていないでしょう。その一例が黒川検事長の麻雀であり、国会議員や官僚たちの行動です。

一方、真剣に自分を生きなければ生きていけない、個人事業者や若者たちは、感染せずに生活できるような生き方を考えて行動しているように思います。飲食店のテイクアウトはその一例です。
パチンコ店もいろいろと苦労して工夫しているのに、一斉に休業を要請し、それを受けないと世間を味方にして圧力をかけるのは私には納得できません。安心して営業もしくは休業できる仕組みを一緒に考えるのが行政ではないかと思います。

誰かに「自粛」や「行動変容」を呼びかけるだけではなく、自分で出来ることを、それぞれが考えることが求められています。個人営業主やパチンコ店経営者も考えているのですから、議員も官僚も、目的実現のために自分でできることを考えてほしいものです。

いまこそ、一人称自動詞で考えることが必要ではないかと思います。
「一人称自動詞で考える」は、私の信条ですが、湯島のサロンのルールでもあります。

この4日間、部屋の大掃除をしているのですが、3か月半前の京都新聞が出てきたので、読み返してみました。そして、あまり変わっていない、この4か月は何だったのだろうかと改めて驚きました。
 この先の4か月はそうならないでほしいものです。

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2020/05/21

■節子への挽歌4611:コロナ禍のおかげ

節子

自宅にいる時間が多くなり、人に会う機会がなくなるとどうしても生活が退屈になります。
最初はテレビを見たり読書をしたりしていましたが、2週間も続くと、いずれも退屈でしかありません。
テレビは今でもコロナ関係の番組は録画して見ていますが、同じことの繰り返しです。
本はなかなか読む気になりません。
書類整理で見つけた懐かしい本も、読み直そうと読みだしても、やはり退屈です。
いかの人間の置かれた状況が意味を持っているかがよくわかります。

人とはあまり会いませんが、連絡はいろいろとあります。
良い話もあれば悪い話もある。
コロナが流行ろうと終息しようと、人に起こることは同じです。
コロナだけが「事件」ではありまません。

最近感ずるのは、このコロナを良いことに、みんな自分の生き方を考え直しているような気がします。
ある友人はテレワークを併用しての週2日勤務だったのが先週は通常勤務に戻ったそうですが、疲れてヘロヘロになったそうです。「よく以前は、ずっと週5日勤務してたなあ」と思うと言ってきました。そんなふうに思っている人は、今、けっこういるみたいですとも書いてありました。

これは働き方だけではないでしょう。
学び方も遊び方も、付き合い方も、これまでとは違った体験によって、これからいろんな変化が出てくるでしょう。それに伴い、仕事のスタイルも変わっていくかもしれません。
本当は「不要」だった活動はなくてもいいことに気づく人もいるでしょう。

私の感覚では、世の中の仕事の半分以上は、不要というよりも、ない方がいい仕事です。
行政の仕事で言えば、どの視点に立つかで変わってきますが、まあほとんどは不要でしょうし、学校の仕事に関しても、無駄なものが多いでしょう。
実際にはみんなそういうことに気づいていたと思いますが、それがなくてもいいのだと体験できたことは大きいでしょう。

最もコロナのために、新たに発生した「無駄な仕事」もたくさんありますので、全体としては良い方向に行くのか悪い方向に行くのかはわかりません。
しかし少なくとも、何かが変わっていく。

立場の違う人たちのせめぎ合いが始まるかもしれませんが、思考の起点が変わることは間違いない。
結果的に隷属からの脱出ができる人が、増えていくだろうと思います。

そして私もまた、いろんな変化を受けています。
そう考えれば、コロナの恩恵は少なくありません。

 

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2020/05/20

■10万円と選挙の投票券とどちらが大切でしょうか

10万円の国民給付がまだあまり実行されていないようです。

日本の行政は優秀だと思っていましたが、もうどうしようもないほど劣化していると思わざるを得ません。しかし、マスク配布などの無駄な作業に駆り出されたり、この給付金にしてもいろんな制約があったりするのでしょう。

テレビでは、行政の現場の人たちは一生懸命やっているという言葉がよく聞かれます。たしかに基礎自治体の職員は在宅勤務などできずに、コロナ不安の中を残業までして頑張っているのでしょう。しかしだからと言って、免責できるはずはありません。

時間はかなりあったのに、その間に早く配布するための仕組みを真剣に考えていなかっただけの話です。真剣に考えている小さな自治体は迅速に実現しています。平成の市町村合併に安直に加担した自治体は反省すべきでしょう。彼らは私には「自治」を放棄したとしか思えません。「自治」を忘れた行政職員は「思考すること」も忘れてしまったのでしょうか。

全国民に10万円支給する話を聞いた時、私は基本的に1週間もあればできだろうと考えました。国会議員の選挙の時に配布する投票券と同じ仕組みを使えば、簡単にできるはずです。もちろんカバーできない人はいるでしょうが、それくらいは頭を使ってほしいです。

選挙と違って、10万円というお金が動くのだから、投票券を届けるようにはいかないという人がいるかもしれません。政府も自治体の首長もそう思っている人がいるかもしれません。

しかし、10万円と投票券と、どちらが大切でしょうか。
投票券には10万円の価値もないと思っている人がいたら、その人はとんでもない勘違いをしています。しかし、日本人のほとんどは、そう思っているようです。
投票券(権)が売買されていたという時代もあったと聞きますが、最近は全く価値がなくなってしまったのでしょうか。
いまやマスクほどの価値さえなくなってしまったのでしょうか。
投票券の迅速な配布はできても、10万円の迅速な配布はできない。
その理由をもっと真剣に考えた方がいいと思います。

さらにそこから、政府と国民との信頼関係がないということも見えてきます。
休業協力金などがどう使われているか、きちんと精査してみれば、いろんなことがわかるはずです。

医療崩壊も怖いですが、行政崩壊も怖いです。
それ以上に、信頼関係がなくなってきているのが、恐ろしいです。

 

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■節子への挽歌4610:無駄の多い人生だした

節子

人生を切り替えることにしました。
というと、大げさですが、資料や書籍を切り離すことにしました。
やはり娘が言うように、いま手元にある資料や書籍は、私の人生には意味がありますが、これから読み直すことはないでしょう。

というわけで、まずは雑誌類や資料から廃棄することにしました。
しかし、どれを残すかどうか感上げていると結局は、いつものようにほとんど捨てられなくなりました。
それでジャンルごとに決めることにしました。
そうは言っても一挙には難しいので、とりあえずという感じです。

そう思って整理していくと、なんとまあ無駄な冊子や書籍が多いことか。
雑誌や資料は半分以上は全く読んでいません。
読んでいないのにどうして保管していたのか、といえば、そのテーマに関心があったからですが、しかしあんまり読んだ形跡がないのです。
書籍もそうです。

とりわけシリーズのものは、最初のころのは別にして後半のものはほぼ読んでいない。
そういう書籍や資料、雑誌が書庫を覆っているので、いつも肝心の書籍がなかなか見つからなかったのです。

ビデオテープもまた数十巻出てきました。
どうも収集癖があるのですが、DVDに切り替わった時に、それまでの数百巻は廃棄したはずなので、まだ残っていました。
そのうえ、DVDもたくさん出てきました。
アナログ時代のものですから、画質が粗くて今はもう見る気にもなりません。
今回、みんな破棄することにしましたが、録画する手間も大変だったはずです。
私の人生がいかに無駄が多かったのかがよくわかります。

資料整理をしていて、先に逝ってしまった友人から託された資料も出てきました。
2人とも亡くなるとは思わずに、それまでの記録をなぜか私に渡したのですが、いずれもその後、しばらくして(一人は直後に)亡くなってしまいました。
その後、私は託されたことをすっかり忘れていたのですが、その資料が出てきたのです。
託されたと言っても、具体的に何か頼まれてわけではなく、その活動を記憶しておいてほしいという程度なのですが、それさえも危うく忘れかけていました。
その資料はどうするか。
ちょっと迷ったのですが、迷っているときりがないので、今回は廃棄することにしました。

そんなわけで、今回はかなりの整理になりました。
明日から廃棄しだしますが、だいぶかかりそうです。
みんな処分できたら、第2ステップです。
あまり外に出てはいけないようなものは、家の中で焼却するか細かく裁断しなくてはいけません。
これから3か月くらいはかかりそうです。

その3か月は、たぶん自分の人生の無駄の多さを反省しながら、その無駄な人生に付き合ってくれた節子のことを思い出しながら過ごすことになりそうです。

ちなみに廃棄するのは書類や本だけではありません。
生活に関わるほぼすべてのものです。
部屋もすべて模様替えです。

 

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2020/05/19

■節子への挽歌4609:家のリフォームは人生のリフォーム

節子

昨夜、リフォームに備えて少しだけ書籍の箱詰めをしてみました。
引っ越し用の段ボール箱を10個もらってきたので、とりあえず10箱詰めてみましたが、書棚の本は一向に減りません。これは大変だとようやく実感しました。
そう言えば、会社時代の私の出費は喫茶店代と書籍代だけでした。
知らないうちに書籍がたまってしまっていたわけです。

書籍だけならまだしも、さまざまな資料も残されています。
私の人生の痕跡なので、なかなか捨てられずにいます。
それに、仕事関係のものはちょっと内容的にも気楽には捨てられないものもあります。
焼却するにもいまは自宅では難しい。
というわけで、何やら大変なことになってしまったなと気が重くなりました。

ユカは、前からこんなに本や資料を残して死なないでよと言っていましたので、思い切った処分を提案していますが、簡単には廃棄できないのです。
というのも、一冊一冊に、それなりの思い出があるからです。
まあ気分で買ってしまって、あまり読んでもいない「講座」もののシリーズはさほど愛着はないのですが、しかしそれをなぜ購入したのかということになると、そこにはやはりいろんな人生の記憶が浮かんできます。なぜか書籍に関する記憶は不思議なほど覚えているのです。
そして結局、廃棄する気が萎えてくる。困ったものです。

書籍を整理していると、忘れていた本に出合うこともある。
本にまつわる、人とのつながりも思い出されます。
こんな本も読んでいたのかと我ながら驚くこともある。
蔵書は私の人生の目次かもしれません。

リフォーム工事はまだ先の話なのですが、この1か月は本の整理に取り組むことになりそうです。
そしてそれは、私の人生の整理につながるかもしれません。
家のリフォームとは、人生のリフォームなのだと気づきました。
狭い私の仕事場は、いまは大変な状況になっています。

 

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2020/05/18

■節子への挽歌4608:自宅のリフォームを決めました

節子

自宅リフォームはだいたい枠組みが決まってきました。
年内に同居する方向です。
娘からはよく言われますが、節子がいたら同居もこんなに難しくはなかったでしょう。
伴侶のいない父親は厄介な存在なのかもしれません。
困ったものです。

同居に伴い、私の占有生活空間は狭くなりますが、その関係で書籍をどうするかが厄介な問題です。まあ些末と言えば些末な問題ですが。
いまの書斎と書庫はつぶすつもりですが、そうなると書籍の持っていき場がなくなります。最近はほとんど書籍は購入していないのですが、まあ長年の人生ですので、それなりに思い出のある本も少なくないのです。

問題はリフォーム費用です。
今日の打ち合わせで見積金額が出てきました。
みんなで出し合うのがわが家の文化ですが、肝心の私の手持ち資金はほぼゼロです。

さてどうするか。いつものように、お金のことはあんまりきちんと考えていなかったのです。困ったものです。
ここで、いつもならなぜかお金が回ってきます。
今回は、しかし目途が全く立ちません。
対価目的の仕事をしなくなってからもう15年は立ちますので、今更再開することもできません。お金から自由な生き方を目指していても、いざこうやってリフォームするとなるとお金が必要になります。
湯島のオフィスの売却は最後の手段ですが、それは避けたいです。
困る人もいるでしょう。
となるとまずは宝くじしかありません。

さて当てるでしょうか。
明日から毎日祈らなければいけません。

 

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■4607:ラジオ体操を始めることにしました

節子

節子に供えていたユリが4輪、見事に咲きました。
ユリの香りが部屋中を満たしています。

最近は朝に手作りラッシーを飲む習慣が定着しました。
学校給食が止まったために酪農家の牛乳が余っているというので、それに少し協力しようと思って、飲むことのない牛乳を飲むように決めたのです。
ところが、朝はこのほかにも青汁バナナジュースやコーヒーなど、4種類の飲料を飲むのですが、そのため、お腹が水バラになってしばらく動きたくなくなります。

体重は2キロ増まで落としましたが、そこから下がりません。
夕食を軽くするということにしましたが、その成果はまだ出ていません。
コロナによる外出の現象はいろんな影響を与えています。

一番の問題は腰痛の兆しです。
そこで井坂さんからの薦めを思い出して、ラジオ体操をすることにし、昨日テレビに合わせてやってみました。
いまの状況ではかなりこれはきついですが、毎日やれば成果は出てくるでしょう。
ところが、今朝は忘れてしまい、気がついたら時間を過ぎていました。
新しい生活様式を身につけるのは難しいです。

しかし、腰痛のきざしは、むしろ激化しています。
対策を急がねばいけません。

コロナのおかげで、いろんな気付きがあります。
そんなことを言うと顰蹙を買いそうですが、コロナ様様です。

 

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■粗雑な議論が事態を混乱させているような気がします

FBやこのブログに書き込んでいる私の議論は、かなり「粗雑」です。
しかし、仕事としてコロナ対策に取り組んでいる人や専門家たちは「粗雑]な議論はしてほしくないと思っています。だからこそ、社会はそういう人たちに権威を認め、公共的な予算を提供していると思っているからです。
逆に言えば、しっかりした議論をしている人に、私は「権威」を感じ、そういう人たちの仕事がうまくいくようならば、喜んで税金や対価を負担します。

今回の新型コロナウイルスに関して、私が一番不安なのは、専門家たちの議論や対策があまりに「粗雑」なことです。

たとえば、昨日書いた「感染者に会わなければ感染しないから自宅に居ましょう」というような呼び掛けです。こんなことが専門家の口から出ると、私は一気に専門家を疑いたくなります。

県外を超えた移動はやめましょう、などという対策にもまったく応じがたいです。「日常的な生活圏から出ないように心がけましょう」と呼び掛けられれば、素直に納得できます。
それも生活者的な粗雑な表現ですが、せめてそれくらいの現実とのすり合わせはしてほしいです。それができないのは、現実とは全く無縁な思考の世界にいるからです。

一番顕著なのは、感染者に関わる数字の扱いです。
これはあまりにもひどく、まったく意味の違う数字をつなげてグラフにしたり、その数字の意味も十分に説明しなかったり、しかもそんな数字に基づいて、専門的知識を語る姿は、私にはとても理解できません。

そうした「粗雑な議論」が、事態を混乱させているのではないかと思います。
それだけではなく、「粗雑な議論」が、膨大な無駄な行為を起こしていると思います。
テレビで施設の消毒などの感染防止策などがよく紹介されていますが、私には無駄な作業に思えてなりません。
粗雑な議論を踏まえての、粗雑な対策は、過剰にやらなければいけないのだと思いますが、どうもいつも違和感があります。

新型コロナウイルスの生体を観察した実験結果があまり出てこないのも気になります。
ウイルスが、どういう状況で生死を分けるのか、温度や湿度にどう対処するのか、感染した人が創り出した「抗体」は、ウイルスにどう作動するのか。
そうした事実がほとんど公開されていないことが不思議ですが、そういう研究や観察はたぶん「粗雑」ではありえないでしょうから、発表は慎重なのかもしれません。
しかし、専門家からはそういう情報を教えてもらいたいです。
数字の遊びはもういらないし、生活者でもわかることはもういい。
まともに考えて生きている人なら、自粛などと言われなくても、頭を使って感染防止に真剣に取り組んでいるからです。それが自らの生活に直接つながっているからです。

夏の暑さと湿気、そして明るい陽光が、いま一時的にコロナの活動を鈍くしているのではないかと、「粗雑」どころか「無知」の私は考えてしまいますが、そう考えないと昨今の状況は理解しにくいです。となると、秋以降が心配です。

死亡率が低いのは日本人の特殊性という話もありますがそれに関する言及も専門家からは出てきていません。私は、この見方にもとても興味があります。

いずれにしろ、みんなが生き方を自分でしっかりと考えて、生き方を正すことではないかと思っています。
そのためにも、もう少し事実に関する情報がほしいです。そうしないと、私の「粗雑」な思考さえも成り立ちませんので。

 

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2020/05/17

■「感染者に会わなければ感染しない」わけはありません

新型コロナに関する専門家のテレビ発言はできるだけ聞くようにしています。
そのおかげで、新型コロナのことがかなりわかってきたような気がしますが、いわゆる専門家のほうがわかっていないのではないのかと思うことも少なくありません。
まあ私の聞き違いや理解不足の可能性も大きいですが。
しかし、専門家の発言こそ、注意して聞かねばいけないというのが私の人生体験の一つです。

たとえば、「感染者に会わなければ感染しない」ということが、ともかく家にいた方がいいという呼びかけの理由とする専門家が少なくありません。
「感染者に会わなければ感染しない」と言われると、そうだなとつい思いがちですが、そんなことはまったくありません。もし、そうならドアノブや公園の遊具を消毒したりすることは全く不要です。
物質に付着したウイルスは感染力を持っているわけですから、感染者に会わなければ感染しないなどというのは全くの嘘です。こういう嘘を重ねていくと、事実は見えなくなっていきます。たぶんそういっているうちに専門家自身もおかしくなっていくのでしょう。
嘘をついているといつの間にかその嘘に自分も騙されてしまいかねません。

専門家に限りませんが、テレビでよく言われていることや新しい生活様式なども、おかしなことは少なくありません。自宅の部屋も換気をしろと言われますが、すでにコロナウイルスが自分の家にも蔓延しているということでしょうか。
ソーシャルディスタンス2メートルなどというと、いかにも科学的で根拠がありそうな気もしますし、もっともらしく説明されていますが、専門家たちはどう思っているのでしょうか。

相手は自由に飛びまわるウイルスですから、人間が勝手に決めた行政区画に制約されて動いているわけではありません。最近の人間は、ウイルスよりも従順で、行政区域に呪縛されるようですが、ウイルスは生きている以上、そんなことにはお構いなでしょう。かれらが生きてるのは武漢の研究所の実験室の中ではなく、広い宇宙空間なのです。

揚げ足取りと言われそうですが、ともかくわけのわからない思いつきのルールや予防策が、それこそ世間に蔓延しているような気がします。
私は、そんなわけで世間に流布されているルールは参考にはしますが、自分なりに吟味して、まじめに感染予防に取り組んでいます。
オウム返しのように「ホームステイ」などと有名人が呼びかけている動画も不快でしかありません。

自分の生活をかけて感染予防に取り組んでくれる人が増えてくることを願っています。

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■第2回「新型コロナウイルスとどう付き合うか」報告

細菌学者の益田さんの「新型コロナウイルスとどう付き合うか」は、1回目が定員オーバーだったため、もう一度開催してもらいました。

今回は、参加者の要望で「ウイルス変異」の話題から入りましたが、前回同様、参加者の質問に応じて、対話型で進めてくれました。
益田さんからは、前回話題になった「濃厚感染」と「少量感染」の話も出て、そこからワクチンや抗体の話に広がり、どうしたら落ち着くのかという話に展開しました。

私の生半可な知識での内容紹介は危険ですので、前回同様省略させてもらい、今回も私の感想を書かせてもらいます。

私はますます新型コロナウイルスに同情的になりました。
長年の住家(環境)から旅に出ることになり、新しい宿主になってもらえそうな人間との付き合い方がわからずに、失敗を重ねているうちに、すっかり悪者にされてしまっている新型コロナに、私がこれまで関わってきたさまざまな問題が重なってしまうのです。

ウイルスは敵でワクチンは味方というような感覚を、私たちは持ちがちですが、そもそもその感覚が間違っているような気がします。
そういう思いに呪縛されると、どうしても思考が偏ってしまう。

ウイルスは敵でも味方でもなく、ただ人間とは別の存在物であって、彼らは別に感染させようという意図があるわけではありません。
益田さんも「感染」と「感染する」とは同じではないというような指摘をされていた気がしますが、私も全くそう思います。また、「変異」とか「進化」とかいう言葉も、思考を呪縛します。そうした「言葉」の使い方で、見え方は全く変わってしまう。

益田さんの話を聞いていて、コロナウイルスがだいぶわかってきました。
いや、正確には、わかったような気がしてきたと言うべきでしょうが、でも付き合い方をそれなりに決めることができるような気がしてきました。

相手のことがわかれば、付き合い方もわかってくる。
まあ時には、相手を誤解して裏切られることもあるわけですが、そんなことは人生にはよくあることです。

結局、コロナウイルスとの付き合い方を考えるとは、自らの生き方を考える事なのだと、改めて気づかせてもらいました。益田さんには大感謝ですが、相変わらず何も理解できていないと叱られるかもしれません。

ところで、益田さんにはまた時々、ウイルス談義をしに来てもらうようにしたいと思います。またきちんとした講座型のサロンも、コロナ騒ぎがもう少し落ち着いたら開始する予定です。

おかしな報告ですみません。

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■節子への挽歌4606:「自然は沈黙した。うす気味悪い」

節子

今日はさわやかな日になりそうです。
どうも最近、レーチェル・カーソンの「沈黙の春」を思い出すことが多いです。

「自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか」。

この有名な文章が思い出されるのです。

コロナウイルスは、環境破壊するような化学薬品とは無縁のはずですが、どうも両者がつながっているように思えてなりません。
理屈を超えて、両者が同じようなものに思えてくるのはなぜでしょうか。

昨日、高校時代の同級生の細菌学者の益田さんに頼んで、またウイルスをテーマにしたサロンをやってもらいました。
サロン主催者の特権として、私だけが益田さんの話を何回も聞いていますが、聞いているうちにだんだん新型コロナウイルスに親近感を持ってきました。
益田さんは、ウイルスを擬人化することに否定的ですが、やはりウイルスもみんなそれぞれの個性を持った生き物に思えてなりません。

ですから、ウイルスはいのちのない化学薬品とは真反対な存在のはずですが、なぜか最近鳥がいなくなったのは、新型ウイルスの、もしくは新型ウイルス騒ぎのせいなのではないかと思うのです。
実際は、コロナウイルスが人間社会の経済活動を抑制させたおかげで、大気はきれいになり、水もきれいになったと言われています。
たしかに数日前に見た我孫子の空も今までにないきれいな青さでした。
でも、その一方で、地球環境が大きく変化しだしているのではないかという気がしてなりません。

そして、鳥がいなくなった。
この数日、鳥がいなくなったような気がするのです。
実際には、私がたまたまこの数日、鳥に出合っていないだけかもしれませんが、庭の木にせっかく巣作りをした鳥が、なぜか戻って来なくなったことだけは事実です。

それに鳥のさえずりも、間違いなく少ないのです。
カラスもいなくなった。
まあ事実に基づくことではなく、あくまでも私の心象です。

でも、外のあたたかかでやわらかな陽ざしをみると、今日はきっと「いのち」に満ち溢れたいい1日になるでしょう。
鳥も戻ってきてくれるでしょう。
この数日、鳥に出合えなかったのは、私の心身の状況の結果なのでしょう。

外に出なければいけません。

 

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■サロンをつづけているだけでもいろんなことが見えてきます

昨日は「ウイルス」をテーマにした湯島サロンでした。
その報告はまたにして、サロンに参加して気がついたことを書いておこうと思います。
一言で言えば、サロンをやるだけでも世界は少し見えてくるということです。
家に閉じこもっているだけではやはり世界は見えてこない。

1週間ぶりの湯島は疲れました。
オフィスに行く途中に58段の急な階段があるのですが、そこを登る途中で休むほどでした。1週間、外出しないでいるだけで、これだけ身体が変わるのかという驚きでした。
それは私だけではないようで、参加者の一人が、1か月ぶりに遠出をしたが、あの階段がきつかったと言っていました。
外出自粛が何をもたらしているかは、こうしたことからも伝わってきます。

サロンの前に私にある動画を見せたいと早めに来た人がいました。
その人は、コロナ騒ぎにも生活を微動だにさせずに、これまでの生活を続けています。こういうと誤解されそうですが、これまでもコロナ感染するような生き方はしていないということです。そういう人たちがいるということを知るだけでもホッとします。

その人が私に見せたかったというのは、数本のユーチューブ動画でした。
最近、フェイスブックで友人たちから紹介されて、ユーチューブ動画を見るようになったのだそうですが、それによって世界像が一変したようです。
コロナウイルスには生活を微動だにさせない彼女が、世界像を一変させてしまうのですから、動画のパワーは大きいです。動画の内容は世界政治や世界経済の裏を告発したものです。

サロンは、定員なしの土曜サロンと勘違いしてやって来た人も含めて、にぎやかでした。

サロンを終わった後に、参加者の一人が、新たなサロンを提案してきました。
政府のコロナ対策で、様々な不正やおかしなことが起こっているということに強い問題意識が生まれているようです。生活苦に陥っている人がいる一方で、反対のことも起こっている。その人はそれが語られずに進んでいることに、経済や政治の崩壊を危惧しているのです。

コロナ危機とは何か。
週1回、サロンをやるだけで実にいろんなことがわかってきます。
しかし、疲れましたが。

往復の電車は空いていました。
ところが、帰路の電車で私の席の近くの出入り口の空間に立ったままの人がいたのですが、なぜ空いている席に座らずに近くに立っているのかと少し「不快」に思う自分に気づきました。

私自身も変わってしまっているようです。
やはりコロナ危機は恐ろしいです。

 

 

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2020/05/16

■節子への挽歌4605:サロンを開くと世界の実相が垣間見えます

節子

1週間ぶりの湯島は疲れました。
オフィスに行く直前に58段の急な階段があるのですが、そこを登る途中で休むほどでした。
1週間、外出しないでいるだけで、これだけ身体が変わるのかという驚きでした。
それは私だけではないようで、参加者の一人が、1か月ぶりに遠出をしたが、あの階段がきつかったと言っていました。
外出自粛が何をもたらしているかは、こうしたことからも伝わってきます。

階段を上がってオフィスに向かったら、「おさむちゃ~ん」という声が聞こえました。
雨の中を、霜里農場の金子友子さんが、いつものように大きな荷物を持ってやってくるのに出会いました。
早めに出てきてよかったです。
サロンの前に見せたいものがあるというのです。

そのうえ、いつものようにおにぎりや野菜などを山のように持ってきました。
コロナ騒ぎにも霜里農場の生活は全く変わっていないようです。
そういう人たちがいるということを知るだけでもホッとします。
今時のサロンは、あまり口にするものは出さないようにしているのですが、そんなことは全く無頓着で、サロン参加者にもおにぎりや手作りケーキをふるまっていました。

サロン前に私に見せたかったというのは、数本のユーチューブ動画でした。
最近、フェイスブックで友人たちから紹介されて、それを見るようになったのだそうですが、それによって世界像が一変したようです。
私も全く知らなかった動画が半分ほどありましたが、どこまで真実かはともかく、かなり政治の裏や経済の実態を知っている彼女が、そしてコロナウイルスには生活を微動だにさせない彼女が、世界像を一変させてしまうのですから、動画のパワーは大きいです。
動画の内容は世界政治や世界経済の裏を告発したものです。

サロンは、定員なしの土曜サロンと勘違いしてやって来た人も含めて、にぎやかでした。
サロンを終わった後に、参加者の一人が、新たなサロンを提案してきました。
政府のコロナ対策で、様々な不正やおかしなことが起こっているということに強い問題意識を引き起こしているようです。
彼は、それによって経済的メリットを受けているようですが、周りには不当利得者もいるようで、国家財政や経済崩壊への危惧をお持ちのようです。

コロナ危機とは何か。
それが少しわかりました。

週1回、サロンをやるだけで実にいろんなことがわかってきます。
しかし、疲れましたが。
往復の電車は空いていました。

 

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■節子への挽歌4604:雨ですが湯島です

節子

たぶん気のせいだとは思うのですが、昨日のわが家の近くには鳥があまりいませんでした。そう気がついたのはお昼頃ですが、午後もかなり気にしていましたが、鳥がいないのです。
庭の木に数日前につくられた鳥の巣は相変わらず空き家のまま。

気になっていたのですが、今朝、鳥が戻ってきました。
朝がたにはキジバトが2羽、庭に来ていましたし、鳥の鳴き声も雨の中、聞こえてきました。
ちょっとほっとしました。

自然は毎日、微妙に表情を変えているのです。
鳥がにぎやかな時もあれば、姿が見えなくなることもある。
コロナ騒ぎのおかげで、そうした自然のちょっとした変化にも気づけるようになりました。

今日はあいにくの雨ですが、湯島でサロンがあります。
参加者も気が進まないでしょう。
天気によってこんなにも気持ちが変わるものなのか。
緊急事態解除よりも、天気のほうが効き目がありそうです。

新型ウイルスに関しては、相変わらずFBでは反対されたり賛成されたりしていますが、ウイルスの効用がだいぶわかってきました。
もちろん私の独りよがりなのですが、ウイルスは私自身の鏡かもしれません。
ウイルスに関するいろんな人の意見を読んでいると、まさにその人の思いや生き方が伝わってきます。
私の人柄や生き方もまた、同じようにみんなに伝わっているのでしょう。
ウイルスにますます親近感を高めています。

さてこれから湯島です。
電車は空いているでしょうか。
ウイルスも乗っているでしょうか。

 

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2020/05/14

■日本人は素晴らしいのでしょうか

新型コロナ対策の緊急事態宣言が緩和されました。
と言っても、私にはまったく影響はありません。

相変わらずコロナ報道は盛んですが、最近はもうほとんど意味のない気がしてきました。
信頼できない数字を踏まえた議論にはもう付き合いきれない気がします。
最近はあんまりテレビも見なくなりました。

それに1月以来、それなりに気を付けていて、私なりの評価もしていましたが、どうもそれも間違っていたようです。
私は前にも書いたように、市中抗体保有率が2割くらいいて、毒性もかなり弱くなってきたと考えていたのですが、どうもそうでもないようです。
事実に基づかない情報で推論してしまっていたことの無意味さがわかってきました。

今日、娘がかかりつけのクリニックに血圧の薬をもらいにいってきました。
いつもよりもすいていたそうです。
コロナ騒ぎ以来、すいているのです。末端の庶民のクリニックは平安です。
おかしな話ですが。

いつものことですが、娘は「お父さんはちゃんと薬を飲んでいるか」と訊かれたそうです。
コロン感染よりも、私が血圧の薬をきちんと飲んでいるかどうかを心配してくれているとは、まだ医療制度も崩壊していないようです。

テレビで、休業を続けてきた人が、「ここまで協力してきたのだから」と発言していました。
どうも違和感がある。
休業要請や外出自粛は、みんな「協力」として取り組んでいるようです。
つまりは「納得」していないのです。

事実をきちんと伝えたら、要請しなくても、みんなきちんと対応するはずです。
事実を伝えないで、要請で自粛して爆発的感染が起きなかった。日本人は素晴らしいと、みんな言っていますが、どこかおかしくないでしょうか。

人間よりもコロナのほうが付き合いやすいような気がしてきています。

 

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■節子への挽歌4603:日光浴で元気です

節子

いい天気なので、日光浴を兼ねて庭の鉢物の整理をしたのですが、先日がんばって植え替えたもののほとんどが元気がないです。
タイミングを間違えたのと肥料と水をやりすぎたのかもしれません。
本来ならどんどん元気になるはずなの、日に日に元気を失っているような感じです。
ユカからは、注意されていたのですが、今日もまた私が思いつきでやってしまうことを叱られました。
時期などを全く考えずに、思いつきで行動するのが、まあ私のいいところなのですが。

その一方で、放っておいた地植えのものは元気になってきています。
琉球朝顔は伸びだしましたし、皇帝ダリアもバラも元気です。
それでまた、地植えのダリアとバラと朝顔も、一部を植え分けしようと思ったのですが、ユカからやめた方がいいと言われてしまいました。

畑に行こうかと思っていたのですが、畑に行くとかなり大変なのです。
腰でも痛めたら大変ですし、なによりも作業の大変さが予想されますので、躊躇してしまいます。
躊躇しているうちに、タイミングを失してしまい、今日も庭での日光浴で終わってしまいました。
作業はほとんど進まず、です。
でもまあ、おかげで太陽からたくさんの元気をもらった気がします。

しかし、太陽光のパワーはすごい。
10分も陽の光を浴びていると実に幸せな気分になります。
30分も浴びているとおかしくなる。
ムルソーの気持ちがわかるような気がします。

 

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■節子への挽歌4602:故人をネットで訪ねました

ふと思い立って、亡くなった蔵原さんのFBを見てみました。
ページは存続していて、新たな書き込みさえありました。
もちろん蔵原さんの書き込みではなく、友人の岡和田さんの書き込みでした。
しかし、なんとなくまだ蔵原さんがそこにいるような気がしました。

そこで今度は太田篤さんのページも見てみました。
太田さんに世話になったという留学生だった人の書き込みがありました。

というように、今朝はネットで、先に逝ってしまった友人のその後の消息探しをしていました。
そのなかには、私が書いた記事も出てきました。
リアルの世界からはいなくなっても、ネットの世界ではいなくなることはない。
ちょっと不思議な時間でした。

私も間もなく現世からは居なくなりますが、やはりネットの世界では残るのでしょう。
それもまた奇妙な感じです。

しかし、「残る」のと「残す」のとでは全く違います。
私の友人は、定年退職後、原爆で犠牲になった叔父のことを調べて本にしました。
残念ながら、彼もまた病気で亡くなってしまったために、その作品は自費出版はできましたが、彼が納得できる推敲はできなかったようです。
送られてきた本を読んで、彼らしくない未完成さを感じて、感想を送ったら、彼からの返事ではなく、息子さんからの訃報が届き、事情を知ることになりました。
死を予期して、急いでまとめて、出版したのでしょう。

いまは高林さんが父上の記録を書いている。
叔父にしろ父親にしろ、その記録を残すことは、自らの記録を残すことなのかもしれません。いや、むしろ、自分と叔父、自分と父との関係を残すという大きな意味がある。

私の周りにも、自らが生きていた証を残しておきたいと思っている人は少なくありません。私にはそういう気持ちが全くないのですが、「残る自分」ではなく「残す自分」の意味が少しわかるような気がしてきました。

現在のような情報社会においては、残そうとしなくても残ってしまう。その自分は多分、残したい自分ではないでしょう。
私は、どちらかと言えば、「残ってしまう自分」が好みですが、「残したい自分」がある人には、たぶん「残ってしまう自分」は好みとは違うのかもしれません。

ネットで生きている故人と彼岸で生きている故人。
ちょっと興味あるテーマです。

 

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2020/05/13

■節子への挽歌4601:病院からの電話

コロナ騒ぎで病院も大変なので、いまは病気になるのは避けたい時期ですが、胃がん治療をしている友人が、ちょっと具合が悪くなって検査入院してしまいました。
入院前に電話で様子を聞いたのですが、要領を得ません。
検査入院した結果も電話で聞いたのですが、これまた要領を得ません。
これはやはり病院に行って聞かないとだめかもしれないなと覚悟したのですが、改めてさきほど電話で話したら、どうも私の心配し過ぎだったようです。

彼は独り住まいなので、私が一番の相談相手なのです。
コロナ騒ぎのこの時期、入院も大変ですし、そう簡単に見舞いにも行けません。
肝心の病気に加えて、免疫力が低下しているでしょうから、それこそコロナ感染で予想外の展開になることだってありえます。
今日も20代の若い力士がコロナ陽性で亡くなりましたが、人の命ももろいものです。

悔いのない交流をしておこうと思うと、どうしても過剰反応してしまいがちです。
それになぜか彼からは私は頼りにされているのです。
頼りにされたら応じるしかありません。

検査のために45日、食事をとらずに点滴で過ごしたおかげで、明日のむくみがなくなったと友人は元気に話していましたが、その笑いの中に、独りということの不安さをむしろ感じました。
本当の理由は必ずしも納得できたわけではないのですが、悪く考えればきりがありません。
しかし、まあ無事、明日退院だそうです。
それで良しとすることにしました。
今時の病院は決して安心とも言えませんし。

節子
なかなか心配事から解放されません。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌4600:どうも退屈で仕方がありません

節子

時評編に書きましたが、宇治の高林さんが戦時体験の後編を小冊子にしました。
もう一冊、書いているというので、今度のテーマは何かときたら、父上の記録だそうです。コロナ騒ぎのおかげで、認知症予防ゲームの指導などから解放され、時間ができたのでしょう。いい時間を過ごされているようです。

コロナ騒ぎで多くに人が在宅生活になっています。
在宅生活を楽しんでいる人もいれば、退屈している人もいるでしょう。

過去と現在と未来、という時間が深くつながっていることも、改めて今回実感できます。

いろんな人が声をかけてくれると喜んでいる友人がいます。
それはこれまでの生き方の結果です。
現在という時間は、過去がつくってくれるのです。

やっと時間が取れたので、やろうとしていたことの準備ができると喜んでいる友人がいます。未来の生き方が見えているので、突然与えられた時間の価値が生まれたわけです。未来もまた、現在という時間をつくってくれます。
過去と未来と現在がみんな深くつながっていることを実感すれば、生き方は変わっていくでしょう。

もし現在が退屈だとしたら、それはたぶん退屈な過去を生きてきたのであり、退屈な未来しか見えていないのでしょう。
そう思うのですが、この数日、どうも退屈です。
私の人生は思ったほど内容もなく、退屈だったようです。
自分ではそれなりに面白かったような気もしていたのですが、どうもそうではなかったようです。

まあそれもこれも、節子が途中でいなくなったからかもしれません。
あの時に、きっと私の人生は終わっていたのでしょう。
そう考えないと、この数日間の退屈さは理解できません。

 

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■節子への挽歌4599:悪縁でも縁は大事にしよう

節子

フェイスブックに、あるお寺の掲示板に、新型コロナに関して、「悪縁でも縁は大事にしよう」というような言葉が書かれていたと投稿がありました。
その一方で、「コロナとの共生」という言葉を強く否定する投稿もありました。

私は、悪縁でも縁は大事にしようという生き方を目指してきています。
もちろんそれはなかなか難しく、それでどれほどの不快感を味わい、いろんなものを失ったかを思い出せば、そういう生き方からは抜け出したいという気持ちもありますが、生き方はそう簡単には変わりません。

実際には、私はこれまでどんな縁も自分から切ったことはありません。
先方から切られたことはわずかですがありますが、2,3の例外を除き、その後、縁は戻っています。私から戻らせたのではなく、先方から戻ってきたのですが。

その縁が、悪縁か良縁かは簡単にはわかりません。
しかし、どんな縁も、私の人生に無縁であるわけではありません。
であれば、縁を受け入れて、それを活かすかどうかは自分の責任だとも言えます。
せっかくの縁を「悪縁」にしてしまうのは、自らの行為の結果とも言えるでしょう。
そもそも「悪」と「良」はコインの表裏です。

新型コロナウイルスも、縁といっていいのかどうかはわかりませんが、まあ広い意味では「縁」と言っていいでしょう。
であれば、回避するよりも、付き合い方を考えるのがいい。それが私の姿勢です。
しかし、コロナとの付き合い方は難しい。
なかなかうまくいきません。

私の投稿や言動に関して、フェイスブックに「佐藤さんの姿勢(腹のくくり方、空気の読まなさ加減)は素晴らしいと思います。もちろんほめ言葉です」と書いてくれた人がいます。
いささかの過大評価で、私自身は腹もくくっていないし、空気を読まないのではなく、読めないというのが事実なのですが、外からはそういう見方もできるのでしょう。
時々、メールでも「応援しています」というエールが届きます。
まあそういうメールが来ると、なぜか元気が出るのですが、だからとって、何か変わるわけでもない。

新型コロナはいろんなことを気づかせてくれましたが、いろんなものを奪ってもいます。
私にとっては、この2か月は「失われた2か月」のような気がします。
いいかえれば、コロナとの縁を活かせなかったということでもあります。
これからでも遅くはありません。

改めて、この「縁」をきちんと受け止めていこうと思います。
天気がいいせいか、今日はちょっと前向きになれています。

 

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2020/05/12

■節子への挽歌4598:人と人が直接会って交流できないことは社会の死を意味する

2~3日に1通、いまも鈴木さんからはがきが届きます。
今日もまた届きました。
そこに先日、時評編でも紹介した磯野真穂さんのインタビューのことに言及し、(磯野さんは)人と人が直接会って交流できないことは、社会の死を意味すると話していますね、と鈴木さんは書いていました。
あんまりきちんと意識していなかったのですが、もう一度、新聞記事を読み直しました。
たしかにそう話しています。

私がこのところ、元気が出ないのは、まさにこれが理由です。
人と人が直接会って交流できないことは、社会の死でもあるとともに、人の死でもある。
生きるということは、まさに他者と直接会って交流することなのです。
節子と他者の違いは、「直接会って交流できるかどうか」なのです。
なにかとても合点がいきました。

新型コロナを気にして他者と会うのを控える生き方は、やはりどこかで間違っています。
そう思えてきました。
すこし自分の生き方にまた、確信が高まりました。

改めてそのことに気づかせてくれた鈴木さんのはがきツイッターに感謝しなければいけません。

 

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■節子への挽歌4597:せっかくの巣に鳥が戻ってきません

節子

先週、書きましたが、庭の木に鳥が巣を作りました。
ところが、写真を撮った日からせっかく見事な巣を作った鳥が戻って来なくなりました。
写真を撮ったから鳥が警戒して来なくなったという可能性もありますが、鳥が来なくなった翌日に写真を撮ったので、たぶんそうではないと思います。

しかしいずれにしろもう1週間近く戻って来ないのです。
事故に合ったのではないかと心配していましたが、今朝、鳥が戻ってきました。
よく見えない場所なので、はっきりとは確認できませんがたぶんヒヨドリでしょう。

しかし、巣に居つく間もなく、また飛びだっていきました。
そしてまた今日1日、戻ってきませんでした。
何やら不安です。

コロナ騒動で、在宅時間が多くなったのですが、どうもやることがありません。
時間がたっぷりあると、人は何もしたくなるものかもしれません。
そう言えば、会社時代、仕事がめちゃくちゃ忙しくかった時の方がいろんなことができました。言い換えれば、生活が充実していたような気がします。

それに比べると、この2か月は、内容のない時間を過ごしていて、どうも充実感がありません。こんな感じなら、生きている必要もないような気さえします。
今までこんなことは、一度たりともありませんでした。
困ったものです。

困ったと言えば、先日がんばって植え替えた花木がみんな元気がありません。
植え替えの時期を間違ったのでしょうが、これまた困ったものです。
ユリの球根には水をやりすぎてダメにし、お気に入りのアジサイには水を涸らしてダメにしていますので、要は私に知識がないためです。
節子から少し知識をもらっておけばよかったです。

今日もまた、完全に自宅で怠惰に過ごしました。
畑にもあまり行く気が出てきません。
今日の私の関心事は、コロナ感染者の数よりも、鳥が戻ってくるかどうかでした。
何回も見に行きましたが、午後からは戻ってきませんでした。

これは「平安な日常」なのか、「退屈な日常」なのか。
最近、「退屈」ということが少し理解できるようになってきました。

 

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■高林實結樹さんの「戦時体験談・後編 日本人として納得したい」を紹介します

宇治にお住いの高林實結樹さんと出会ったのは、もう20年ほど前ですが、以来、高林さんが取り組んでいた認知症予防ゲームの普及にささやかに関わらせてもらい、たくさんの気づきをもらってきました。
私よりもご年配の高林さんには、他にもいろんな側面があって、湯島では日本書紀の年表の謎解きのサロンをしてもらったこともあります。

昨年、高林さんは自らの戦時体験を地元の中学生たちに語ったものを小冊子にしましたが、今回、その後編として、高林さんがなぜ反戦論者になったか、いまの日本をどう思っているかを吐露した小冊子「戦時体験談・後編 日本人として納得したい」をまとめました。16頁の小冊子ですが、高林さんの思いのたけが、激しく語られています。

目次を見てもらえば、高林さんの論をイメージしてもらえるかもしれません。

天皇制と自衛隊について/歴史に学ぶ/伊弉冉尊は新羅の人/国会は国民の支持(主権在民)を得ているか?/改めて象徴とは何か?/自衛のための戦争は意義として成り立つか?/「『日本書紀』は茶牟保羅」から始まる?

こんな感じで、歯切れの良い高林節が、自由自在に展開されています。

本文には新羅どころか、ネアンデルタールの血の話まで出てきます。たとえば、こんな風に、です。

縄文人の末裔の無言の、遺伝子。その発露が、現在も国政の投票率の低さに残っている、統制されない自由人・ネアンデルタール人系統の遺伝子が投票率の低さに現れていると、言えるのではあるまいか。

本小冊子は、敗戦によって、国家神道の信仰を断ちきった後の日本のあり方を問うているのですが、高林さんは、記紀の国生み神話から論じだします。そして、日本国憲法とそれがもたらした現在の日本の「欺瞞性」を問いかけていきます。
たとえば、高林さんはこういうのです。

戦闘機は200機購入する。水害から住民を救うのは後回し。大嘗祭のお祭り騒ぎを優先。仁徳天皇の古歌を思い出せ、と叫びたくなります。

仁徳天皇の古歌とは、「高き屋に 登りて見れば 煙たつ 民の竈は にぎわいにけり」という有名な国見歌です。いまは誰も「国見」などしていないのでしょうか。

戦後、天皇は「人間宣言」をし、日本は大日本帝国から日本国に変わりました。
「天孫」を否定したからには、皇室の宗教行事は偽善となる。偽善行事に国家予算を回す理由があるのか、と高林さんは問いかけます。「単なる神話と伝承」と自らを貶めていながら、何故皇居では昔ながらの形態で即位式や大嘗祭が行われるのか? 

こうした高林さんの問いかけは、国家としての日本のあり方、そこにある「欺瞞性」を問うています。
高林さんは、「議員は国の成り立ちに目をそらさないで、問題を注視して、国家成立の基本を明らかにし、「単なる神話」発言に呼応して、国家神道を廃止するべきでしょう」と書いていますが、議員をはじめ、そうした「欺瞞」に寄生している人のなんと多いことか、と私も思います。

それこそが、いまの日本の政治を現状に通じている。
議会政治は70年以上たったのに、「実質投票率は低く、国民には参政権意識は乏しく、民主主義は定着していない」。「現在の国会の議論は、国会のテレビ中継をみるだけでも、議会政治は理想的な国民の満足を得る運用になって居ない」と高林さんは指摘します。

価値観の根拠が揺れに揺れ、国の根幹が奈辺にあるのか、見えなくなっていると高林さんは考えて、この小冊子を自費出版したのです。その行動力に拍手したいです。

私には一か所だけ異論はありますが、それはともかく、いろんなことを考える材料がたくさん含まれています。小冊子入手方法は奥付に書かれていますので、添付しておきます。

ちなみに、高林さんにはもう一つ書くべき義務が残っているそうです。
もう一度、高林さんのメッセージを紹介する機会がありそうです。

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2020/05/11

■節子への挽歌4596:カーネーションのない母の日

節子

仏壇にオリエンタルリリーが供えられています。
節子も私も、ユリが好きなので、毎日でも供えておきたいのですが、最近は経済的な理由もあり、節約気味で、時々しか供えられていません。
今回は「母の日」なので、ユカが買ってきてくれたのです。
もっともカサブランカではなく、オリエンタルリリーですが。

いつもこの時期になると「節子はカーネーションが好きではなかった」という話が出ます。理由は誰も聞いていないのですが、花好きの節子も、なぜかカーネーションはあまり好きではありませんでした。嫌いというわけではないのですが、わが家ではあまりカーネーションは飾られないのです。庭にもありません。
節子に何か暗い思い出があるわけでもないでしょう。節子は実母とはもちろん、義母、つまり私の実母ともとてもいい関係でしたから。
あの花の雰囲気が好みではなかったのでしょうか。

そう言えば、節子は花の好みは割とありました。
私のように、花なら何でもいいというタイプではありませんでした。

玄関のバラが咲き出しました。
節子はバラがとても好きでした。
庭のバラがどんどん咲き出しています。
手入れ不足で、以前のようではないのですが。

 

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■問題のすり替えに注意

新型コロナのことがだいぶわかってきたように思います。
相手がわかれば、対応策もいろいろ考えられます。
しかし問題のとらえ方を間違ってしまうと対応策もわからなくなりかねません。

 たとえば、「生活の平安」のための「感染防止」が「接触回避」になり、さらには「外出自粛」になってしまうと、そもそもの問題さえ見えなくなります。
コロナには感染しなくても、健康を害したり、生活が不安になったりしている人は少なくありません。
困ったものです。

問題のすり替えをしたくなるのは人の常ですが、ルールの読み替えをしてしまうのも、人の常です。
私たちは、憲法の読み替えを見過ごしてきましたが、それは問題が直接自分につながらないと思っていたからでしょう。しかし、今回、PCR検査の条件ルールを読み替えることは自分につながっていました。しかも、そのルールのおかげで死者まで出てしまいました。
ようやくルールの読み替えの恐ろしさに気づいてもいいころでしょう。
これを機会に憲法の読み替え問題も考え直すのがいい。

コロナ危機と違い、戦争は生活と少し距離があるかもしれません。
種苗法も検事の定年延長も、その危機はコロナよりも遠い社会距離を持っているかもしれません。しかし、もしかしたらそれらはみんな同じかもしれません。
そこに気づきたいと思います。

それにしても、誰が誤解していたかさえ、誤解しているような大臣は許せません。
いま大切なことは何なのかを、真剣に考えて、行動したいと改めて思います。
ニューノーマルを決めてもらうような生き方をする人たちの集団には入りたくはありません。ルールは、みんなの豊かな生活のためにあるのであって、誰か特権者のためにあるのではありません。

さて、私にとってのニューノーマルとは何か。
いろいろと考えましたが、いままで通りでいいという結論になりました。

 

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■節子への挽歌4595:腰痛がやってきそうです

節子

在宅が多いせいか、あるいは床に座る時間が増えたせいか、最近腰が痛くなってきました。
幸いなことにこれまで腰痛とは無縁だったのですが、このままだと腰痛に悩むことになりかねません。

在宅でもできる運動というのがテレビでも盛んに紹介されていますが、私もそういうのに取り組まないと行けなさそうです。
いずれにしろほぼ毎日在宅というのは健康上あまり良くありません。
困ったものです。

血圧の薬も飲んでいますが、それにもかかわらず、あんまり調子は良くありません。
まあ最近は、体温は測っても血圧は測らなくなってしまっていますので、血圧がどうなっているのかはわからないのですが、何となく感覚的にはわかるのですが、あまりいい調子ではありません。
これまた困ったものです。

そう言えば、節子は闘病中にスクワットをやっていました。
今朝、それを思い出してやってみましたが、うまくいきません。
それどころか、ついでに片足立ちをやってみたのですが、30秒くらいしか続きません。
かなり身体がおかしくなっているようです。
ウイルス感染よりも、身体がなまってダウンするほうが心配です。
不本意ではありますが、腰痛対策に取り組んだほうがよさそうです。

身体があると本当に不便です。
今回のコロナ騒動でも、そのことがだいぶわかってきました。
そしてZOOMやテレワークなど、別に身体がなくても生きていけることに気づいた人も少なくないようです。
湯島のサロンも、参加できないがZOOM参加したいという人が後を絶ちません。
実に実に困ったものです。

そういう人たちは、もう生きていなくてもいいんじゃないの、と言いたいところですが、まあそういう生き方もあるのでしょう。
むしろそういう生き方ができない私の方が、生きていなくてもいいのかもしれません。

腰の痛みは、私がまだ私の世界を生きている証なのかもしれません。
大事にしなければいけません。
しかし、もしかしたら、光瀬龍の宇宙年代ものシリーズの登場人物のように、私もなってしまっているのかもしれません。
世界は変わってしまっているのかもしれません。

 

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2020/05/10

■子どもたちはやはり信頼できます

昨日の朝日新聞のコラムに、こんな記事が出ていました。
詳しくは添付の記事をお読みください。

学習塾をやっている先生が、塾生たちに問いかけた話です。

今回の政府による「マスク2枚」をどう考えるかという問いかけで話は始まります。
最初は、反対だった子どもたちも、首相官邸ホームページで首相の発言を読むと反対のトーンは和らいだそうですが、費用が466億円と知って「高っ!」となって、一気に猛反対になったそうです。
そして、自分が首相だったらやらない!とみんな異口同音に言ったそうです。
安堵しました。
安倍さんより賢いのは当然だとしても、多くの日本の大人たちよりも賢い!

さらに、話はつづきます。
国の政策にはどれくらいの費用がかかるのだろうかということになり、いろいろ調べたそうです。

一番私が安堵したのは、「オリパラってこんなにお金をかける必要ある?」という話が出たそうです。
子どもたちは、大人たちより賢い! 
日本の未来は大丈夫です。

しかも子どもたちをダメにしているとしか思えない、いまの学校から解放されている子どもたちの未来は明るいと、私は元気が出てきました。
9月入学などと言っている大人たちがいる限り、いささかの不安はありますが、

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■なにが「危機」なのか、危機を救ってくれるのは「誰」なのか

新型コロナウイルスのおかげでいろいろなことが変わりだしています。
なかには「やむを得ず」というものもありますが、「変わろうとしていたことを加速させた」というものも少なくないでしょう。

たとえば、新聞ですが、新聞はかなり前から変わりだしていました。
私が明らかに変わったと感じたのは、1年前の大型連休からです。
昨年の大型連休の前後で、折り込みチラシの量が激減しました。
そしてそのころから、紙面から現場取材記事が減少しだしました。

その動きが、今回さらに進みました。
折り込みチラシはほとんどなくなりました。
唯一多くなったのは、家族葬の広告です。
毎日のようにはいってきます。
折り込みチラシがなくなれば、地域の新聞配達事業は存続が難しいでしょう。
事業態様を変えるか、新聞の配達は終わるでしょう。
郵便配達との合体もあるかもしれません。

テレビも大きく変わりました。
再放送が増えていますが、同時に新たに作られる番組のスタイルが一変しました。
基本形はまだ変わっていませんが、間もなく変わっていくでしょう。
たとえば報道バラエティのような番組のコメンテーターは今はまだこれまでと同じような「タレント」ですが、ZOOMなどを使うのであれば、
別にタレントでなくてもいいわけです。視聴者が参加するスタイルが生まれてくるでしょう。

番組の配信方法も変わりだしています。
デマンド配信も増えていますが、それこそすべての作品が誰でもいつでも取り出せるような仕組みになるかもしれません。つまり作り手が「放送」するのではなく、観るほうが「視聴」に行くというように、流れが逆転するわけです。
さらに言えば、作り手と受け手が合体することになっていくでしょう。

こう考えていくと、「報道」という概念がなくなるかもしれません。
「情報社会」がようやく現実のものになるかもしれません。

これはほんの一例ですが、こうした変化がさまざまな分野で起こりつつあるのでしょう。
そうしたなかで、一部の人たちは「もっと自由に自分を生きてもいいのだ」ということに気づくでしょう。

昨日のサロンでも少し話題になりましたが、これまでは「働いてきた」のではなく「働かされてきた」のだと気づいた人が出始めているようです。「働かされる」のと「働く」のとでは、まったく違いますが、これまではみんな同じだと考えていた。
同じような「気づき」はほかにもたくさんあります。

社会がどう変わるか。
そういう視点から「緊急事態」とは何かを考えると、たぶん全く違った展望が見えてくるはずです。
なにが「危機」なのか、その危機を救ってくれるのは「誰」なのか、ここはしっかりと考える時だろうと思います。

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■節子への挽歌4594:看取れない悲劇

節子

新型コロナで悲しい事件がいろいろと起きていますが、とりわけ悲しいのは、終末期の看取りができないということが起こっていることです。
コロナ感染した人の場合は、葬儀まで制約されるようですが、別の病気で入院していた人への家族面会禁止が起こっているようです。
今朝の朝日新聞のトップ記事の見出しは「終末期 病院で看取れない」で、書き出しはこうです。

きっかけは、4月13日午後8時すぎに社会部に届いた1通のメールだった。
「白血病で余命数カ月の宣告を受け、入院しています。コロナのために家族面会は禁止になり、最期の時も看取(みと)ることはできないと言われました」

この人は、病院と相談し、退院し、結局、家庭で最期を迎えたので家族に見送られたそうですが、「コロナに感染しなくても、最期さえ家族と会えない人がいる。それを世の中に知ってほしいと」と新聞社に訴えたそうです。

とても悲しい話です。
むかしの「殉死」という風習を思い出してしまいましたが、愛する人を看取れないことは個人にとっては耐え難いことでしょう。

仮に感染する可能性があるとしても、それが自分だけのことであれば、だれもがきっと看取りたいと思うでしょう。
それができない仕組みは、やはりおかしい。
病人を隔離するというルールは、やはり非人道的なような気がします。

そうした非人道的なことがいろいろと起きている。
言い換えれば、生物学的な生命は守られても、人間的ないのちは守られていないのではないかと思えてなりません。
人間的ないのちは守るためには、時には生物的生命を犠牲にすることもあるのではないか。
そういう気がしてなりません。

しかし、人は最後には結局、自らの「生命」を優先してしまうものでしょうか。
そうではないと私は思いますが、そういう人がもし増えているのであれば、実に悲しいことです。
コロナウイルスによって、私たちは今、生きるとは何かを問われているように思いますが、感染には注意しなければいけませんが、それよりももっと大切なことがあることを忘れたくありません。

改めて「看取り」の大切さを考えさせられています。
昨年、この問題に取り組んで、実際の仕組みづくりにも取り掛かかっていたのですが、予想外のトラブルでストップしてしまいました。
もう一度取り組むだけの気力が出てくればいいのですが。

 

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■憲法とコロナを語る土曜サロンの報告

昨日の土曜サロンは、「憲法」を少し話し合いたくて、最初に先日放映された「義男さんと憲法誕生」の番組の第1章(日本国憲法9条)の部分をみんなで観ました。
番組を観た人もいるでしょうが、日本国憲法9条はGHQのみが起点ではないのです。
「事実」を知ることの大切さを改めて感じました。

今回のコロナ危機に関しても、「事実」を知ろうとする人が日本ではとびぬけて少ないことを知って、私は驚きましたが、憲法に関しても、もっと事実を学ぶ必要がありそうです。
憲法に関しては、民主主義を切り口にするかたちで、6月からサロンを再開します。
コロナによって民主主義を考える材料が山のように出てきましたので。

今回は8人の参加者がありました。
話題はしかし、憲法よりもやはりコロナの話に向かいがちでした。
コロナの現状も不安ですが、参加者の多くの人にとっては、コロナ対策に関する政府や専門家、そして国民の対応への不安も多かったように思います。

なお、来週の土曜サロンは益田さんのウイルスの話ですが、すでに定員が埋まってしまいました。

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2020/05/09

■節子への挽歌4593:自然の恩寵

節子

先日、根付いたとおもった日本イチジクの挿し木を大きな鉢に植え替えました。
ところがどうも植え替え方が悪かったようで、せっかく元気だった葉がしなだれてきてしまいました。
これまでお何回も枯らしているので、 今回は失敗できないと思っているのですが、いささか心配です。

イチジクに限らずに、生命は実にもろいものです。
今回の新型ウイルスも、突然に生命を断ってしまうようなことが報道されています。
思ってもいなかった人の突然の訃報が時々報道されます。
それによって多くの人は、改めて新型ウイルスへの恐怖を感ずるのかもしれません。

しかし、これだけたくさんの人がいる時代ですから、実は死は極めて日常的な事象です。
癌でも肺炎でも、いや自死でさえも、それによって、毎日たくさんの人が生命を断たれているのです。
それに比べれば、1日、数十名のウイルスの犠牲者は特別なことではありません。
にもかかわらず、こうして毎日死者の報道を受け、しかも時に知っている人の訃報まで報道されるとみんなの意識は自然とウイルスへと向かいます。

しかし、毎日どれほどの人が死んでいるかを知り、個人的に親しい人の実際の死を体験すると、死への感覚は全く変わります。
そして、死は決して非日常的なものではなく、ましてや避けられないものであるならば、それなりの覚悟ができてきます。
抗うことは無益なのです。
しかし、だからこそ、死に対する態度は誠実でなければいけません。

生命はもろいですが、しかし同時に、強靭でもあります。
枯れたと思った花木が、復活することもある。
そういうことを体験していると、「自然の恩寵」のようなものを感じることもあります。
「恩寵」などというと、キリスト教を想起してしまいますが、もっと大きな意味での「恩寵」があるのではないかと、最近、改めて感ずることがあります。

今回の新型ウイルス騒ぎで、宗教の話があまり出てきていないことにふと気づきました。
私の耳に届いていないだけでしょうか。

 

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2020/05/08

■節子への挽歌4592:盛りだくさんの日

節子
今日も無事終わりました。

心配していた病院からの2本の電話はいずれもまあ最悪ではなく、とりあえずはほっとする内容でした。
考えようによっては、2人とも「先送り」でしかないのですが、まあいずれも精密検査待ちです。

良い方の話は、孫のにこの1日早い誕生日のお祝いをわが家で行いました。
誕生日は明日なのですが、明日は自宅で家族パーティなので、今日はわが家でケーキをみんなで食べました。
にこは、卵アレルギーなので、普通のケーキは食べられません。
そこで今日は、ユカがケーキ屋さんに卵を使わないケーキを頼んでいたのです。
いつもは食べられないケーキを、にこは実に幸せそうに食べていました。
わざわざドレスまで持ってきて、着替えをしてケーキを食べていました。

コロナ騒ぎがなければ、孫は幼稚園に行っているはずですが、まだ入園式さえできていないのだそうです。
ちなみに、娘母子は、外出自粛を全くしていません。
毎日、近くの公園などに遊びに行っています。

娘は、私と違って、潔癖症に近いほどの神経質な性格なのですが、なぜかコロナに関しては「外出自粛」にこだわっていません。
もちろん感染には非常に注意していますので、私としては安心です。
しかし、そのぶん、万一のことを考え、私も娘母子に会う時には十分に注意しています。

孫は明日で4歳です。
この2~3か月で急速に成長しています。

この娘家族と来年からは同居しようと考えています。
たとえ親子でも、いや親子だからこそ、同居は難しいのでしょうが、そのためにわが家を改造する予定です。

今日は、住宅会社の人にも来てもらい、その相談もしました。
なにしろ家のつくりが、ともかく無駄の多い設計なので、広い割にはうまく作り直せません。
しかし、これを契機に、私物を思い切り整理できるかもしれません。

来年から生活がまた大きく変わりそうです。
変化についていけるといいのですが。

いずれにしろ、今日は盛りだくさんの日でした。
にもかかわらず、どうも充実感がありません。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌4591:慶事凶事が混在するのが健全な日常

節子

今日はちょっと元気です。
時評編に書いたのですが、ようやく私の考えていることをしっかりと表明してくれたインタビュー記事に出会いました。
それに加えて、昨日あたりから新型コロナに関する世間の流れが一変してきた気がします。
最近めげていたのですが、少し元気が戻ってきました。
ようやくまともな「知性」に出会った感じです。

とはいえ、今日はまたいくつかの心配事があります。
なかなか平安はやってきません。
まあたぶん最後まで私の場合は、平安は訪れないでしょう。
そういう人生を求めてきたのですから。
いまとなってはちょっと困ったものですが、仕方ありません。

しかし、そうしたなかにも慶事もまたあるのが日常です。
慶事凶事が混在するのが健全な日常。

季節はそろそろ夏です。

 

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■新型コロナ現象 立ち止まって考えたい

新型コロナ現象に関して、とても共感できる発言にやっと出合いました。
今日の朝日新聞に掲載されている医療人類学者の磯野真穂さんのインタビュー記事です。

磯野さんのおかげで元気が戻ってきました。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14468005.html

残念ながらデジタル版では公開されていませんが、ぜひ多くの人に読んでほしいです。
こういう記事こそ、朝日新聞社は公開してほしいですが。
最後の部分だけ引用させてもらいます。

今、考えるべきなのは、『感染拡大を抑制さえすれば社会は平和なのか』ということではないでしょうか。私はすでに、この方向性がもたらすマイナスの側面の影響が大きくなっていると考えています。感染拡大だけでなく、人間の『命』にとってのさまざまなリスクを考慮して、政策を決めていく段階に来ていると思います。

磯野さんのインタビュー記事で思い出して、昔の私のブログを少し探してみました。
最近の私のブログもホームページもきちんと管理していないので、めちゃくちゃになっていて、検索が大変でしたが、何とか一つだけ見つけました。

〇ゼロ・トレランス発想にみるマイナスの循環(2007年12月26日)
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html

日本の知識人は「寛容」ではないと、昔、神学者の大木英夫さんの本で読んだ気もしますが(間違った記憶かもしれません)、日本人は本来、とても寛容だったような気がしていました。日本人もみんな「知識人」化したのでしょうか。
他者が寛容ではないと思うのは、自らが寛容でないからですが、私も改めて自らの寛容さを問い直そうと思います。

 

 

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■湯島サロン「世界新型コロナ工作終息論考〜仮に陰謀ならどう終わるのか?」のご案内

湯島のサロンを土曜サロンのほかにも少しずつ増やしていきます。
その第1回は、やはり時節柄“コロナもの”にしました。
ただし、土曜サロンの益田さんとは切り口を変えて、コロナ陰謀論筋のサロンです。

話し手は3月にサロンをしてくださった中嶋一統さん。
タイトルは「世界新型コロナ工作終息論考」。
新型コロナのパンデミックが、仮に陰謀ならどう終わるのか?という話です。
世界地図がどう変わっていくのか、というような話も出るかもしれません。

今回も定員を10人に絞りますので、事前申し込みをお願いします。
手韻を上回ってしまった場合はお許しください。
当日は原則としてマスク着用の上、体調確認のうえ、できるだけ体調を整えてご参加ください。
申し込まれていても、当日の体調次第で欠席は問題ありません。
よろしくお願いします。

〇日時:2020年5月24日(日曜日)午後1時半~3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「世界新型コロナ工作終息論考〜仮に陰謀ならどう終わるのか?」
〇話題提供者:中嶋一統さん(「陰謀論」研究家/話し方教室主宰/ヒット商品企画)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2020/05/07

■節子への挽歌4590:ソーシャルディスタンスなど「くそくらえ!」

節子

コロナウイルスのおかげで、いろいろなことを考える機会をもらっています。
今まで気づかなかったことにもいろいろと気づくこともあります。
それはいいのですが、おかげで精神的にはかなり疲れてきています。
そのうえ、コロナどころではない話もいろいろあって、かなり精神的には不安定になっているのがよくわかります。

胃がんと闘っている友人が、明日から入院です。
コロナとは全く関係はありませんが、その保証人を頼まれました。
コロナ騒ぎで病院がいささか心配ですが、そんなことは言っていられません。
万一の時には駆けつけるつもりですが、ソーシャルディスタンスなどという風潮は、それこそ「くそくらえ!」です。
友人を裏切ることとコロナ感染とどちらが怖いか。
人間だったら誰でもわかる問題です。
昨今の風潮は私にはまったくばかげています。

自殺者もまた増えるでしょうが、日本政府や行政はその数字も操作するでしょう。
自殺のない社会づくりネットワークを5年ほどやってみて、日本の統計数字のおかしさはよくわかりました。
日本では数字は操作するものとされているのでしょうか。

大型連休明けで東京都の感染者数が大きく減少しています。
これでみんな安心するのですから、数字の改竄も政策的には意味があるのかもしれません。
最近はそう思うようになってきてしまいました。

それはともかく、明日から入院する友人にとっては、コロナはほとんど気になってはいません。
もっと大きな問題を抱えているからです。
私の周りにはそういう人が他にもいます。
世間はコロナコロナと大騒ぎですが、少しはそういう人たちへの気遣いもしてほしいです。

最大の関心事は人によって違います。
節子と闘病生活を一緒にしたおかげで、ほんの少しでしかありませんが、そういうことがわかったので、コロナ一色の世間にはついていけないのです。
コロナによる死者など少ないのに、なぜこうもみんな騒ぐのか、たぶんほとんどの人が、死についてなど考えたこともないのでしょう。

メメント・モリ。
しかし、不死を恐れても、死など恐れる必要はありません。
死は誰の近くにもあるのですから。

 

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■「思い込み」から解放されないと事実は見えてきませんが

昨日の報道1930で、北大の豊嶋教授が唾液を使ったPCR検査の話をしていましたが、その時に、人間というのは思い込みに基づいて行動するので、唾液からの検体採取は思いつかなかったが、新型コロナの特性を考えると、そう考える理由はいろいろとあったというような話をしていました。
その話が、とても印象的でした。
私のようなまったくの素人になると、味覚障害の話が出た時に、唾液からの検体検出でいいのではないかとすぐ思いつきます。
でも専門家はそんな馬鹿な発想はすぐに否定されるのでしょう。

しかし、この方法でPCR検査はかなり状況が変わるでしょう。
PCR検査への姿勢もようやく変わりつつあります。
3か月もかかわりましたが、これも知識なしに素直に考えれば当然の話です。
クラスターにこだわり続けたのも、思い込みに呪縛された結果でしょう。

PCR検査がきちんと行われれば、コロナ感染の実態も見えだしてきて、「思い込み」による政策も「思い込み」からのコメントもなくなっていくでしょう。
コロナ危機の実態も見えてきて、私もストレスから解放されるかもしれません。
ともかく今は、新型コロナウイルスの感染の広がりの実態が全くわからないのに、それを気にする人が少なく、事実を確認せずに、「外出自粛」とか「8割接触削減」とか、いい加減な言葉に盲従している友人知人とかが多いのが寂しいです。

しかし、私自身も、たくさんの「思い込み」で事実をきちんと見ていないことが多いのでしょう。
幸いに認知力や記憶力も低下してきているので、思い込みからも自由になれそうなはずですが、なぜか思い込みというのはなかなか私を解放してくれません。
いやむしろ、時に「思い込み」がますます強くなっていると娘からは言われだしていますし。
気をつけないといけません。

思い込みから自由になれ、とコロナに教えられたような気が、最近しています。

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■節子への挽歌4589:また鳥が巣づくりを始めました

節子

節子が好きだったミモザの木は台風で倒壊、新しくまた植えたのですが、これもまた昨年の台風で倒壊してしまいました。
3代目をどうしようか迷ったのですが、ミモザはもうやめることにしました。
枯れ木のまま残しておいたのですが、一昨日、整理しました。
ミモザは成長が速いので、2メートル以上の上に、かたくてのこぎりで切るのが大変です。
ようやく今日、回収してもらえるように短く切りました。
ついでに狭い裏庭を少し見たのですが、もう荒れ放題で、大変です。

その時に、鳥の巣を見つけました。
いまちょうど作っているところのようでした。
夕方、家から窓越しに鳥が巣作りしているのが見えました。
ヒヨドリかムクドリでしょうか、よくわかりません。

今日、鳥がいない時に近づいてみたら、かなりできていました。
カメラ越しに見ると、中はまだ空でした。

一昨年は孵化した直後にカラスに襲われて全滅でした。
最近このあたりからヘビはいなくなりましたので、天敵は人間とカラスだけのようです。
うまくいくといいのですが。

コロナウイルスも鳥たちには悪さをしないようです。

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2020/05/06

■アベノマスクを返送しました

いま話題の「アベノマスク」が湯島に届いていました。
世帯あてに郵送されてくるのかと思ったら、郵便受けにチラシのように配られるようです。
湯島のオフィスの郵便受けに投函されていましたが、だれも住んでいない部屋の郵便受けにも投函されていました。
俗悪なシロアリ業者のチラシと同じレベルの扱いなのです。

これでは自宅の郵便受けに張った、受け取り拒否の警告は役には立たないようです。
肩から力が抜けました。
税金がこんなに粗雑に扱われるとは実に腹立たしいです。

それで予定通り、安倍首相に返送することにしました。
異議申し立ての手紙を漬ける予定でしたが、その気もなくなってしまい、簡単なメモをつけるだけにしました。
文章を考えるのさえ、いやになってしまったからです。

こうしてみんな体制に乗っていってしまうのでしょうか。
粗末な文章ですが、こんな感じです。

安倍首相

布製マスクが届きましたが、すでにマスクが出回っている時期での配布は、政府がかなりの金額を投入してやるべきこととは思えません。しかも配布方法があまりに杜撰で、マンションなどの空き部屋の郵便受けにも投函されていました。このような税金の無駄遣いに強く抗議し、返送します。税金は国民みんなの汗の成果です。その使途に関しては、もう少し慎重であってほしいと思います。

2020年55
コロナ危機を憂える一国民

こういう首相が呼び掛ける、「外出自粛」や「緊急事態宣言」に疑問も持たずに応じている多くの人がいることがとても情けない気がします。気が滅入ることの多い毎日です。

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■節子への挽歌4588:食べるものがなくなってきました

節子

初夏のようだった昨日と一転、今日は肌寒い雨の日になりました。
2週間ほど前から、わが家の食材買い出しは週1回になっています。
といってもまだ2週間目なのですが、冷蔵庫が空になってきました。
ユカが、やはり週1回では無理かなと言いだしています。

空になったのは冷蔵庫だけではありません。
在宅時間が増えているので、間食も多くなり、お菓子も枯渇してきました。
そのために体重は相変わらず高止まりです。

私は、あまり外出への抵抗感はありません。
というか、感染防止のためにも、体力や気力を整えておくためにも適度の外出は大切だとさえ思っています。
外出自粛と感染防止とは全く別の話だと考えているからです。

しかし、ほとんどの人は外出することを抑制しているようです。
そんなことを続けているとコロナウイルス感染症も含めて病気になってしまうと私は心配ですが、そう考える人は少ないようです。

長い目で見たら、ウイルスと無縁でいることなどできないでしょう。
ウイルスは敵などではなく、同じ自然を構成している仲間ですから、どう付き合っていくかが大事であって、いつまでも逃げているわけにはいかないでしょう。
そう思っているので、注意しながらいつものように過ごそうと思っていますが、人と会う場合は、相手もいる事ですから、自分だけで行動を決めるわけにもいきません。
そのため、私自身もほぼ毎日在宅の暮らしになっています。
そのせいで、生活のリズムはかなりおかしくなっていて、どうも充実感が持てません。
まあ、この10年は、充実感とは無縁の人生になってはいますが。

食べ物が枯渇してきたので、明日は食材の買い出しに行くそうです。
私も同行しようと思います。
最近提唱されている「新しい生活様式」には、ちょっと反するのですが。

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2020/05/05

■節子への挽歌4587:孫との虫遊び

節子

今日は子どもの日でにこがやってきました。
最近は自転車でやってきます。
もちろん母親と一緒ですが。

暑い日だったので、ユカがそうめんを創ってくれました。
子どもの日にしては、質素なランチですが、まあわが家にはふさわしいです。
かしわ餅も付いていましたが。

食後、にこと2人で野草でおおわれている畑に行って、虫と少し遊んできました。
シャクトリムシ、バッタの幼虫、テントウムシ、シジミチョウ、ダンゴムシ、アゲハチョウの毛虫など、いろいろといました。
にこは虫類にはわりと抵抗がありません。

しかし野草が多すぎて、畑はいま足の踏み場もありません。
歩くのさえ危険です。
写真を撮りましたが、そのためにちょっと緊張気味で笑顔になっていません。

野草の花がたくさん咲いていました。
その花を少し摘んで帰宅しました。

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2人で畑まで往復しましたが、2人とも長靴を履いていて、ちびまる子ちゃんとお爺さんの散歩風景そっくりだったでしょう。

 

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■節子への挽歌4586:濃霧の朝

節子

濃霧の朝です。
一昨日は風が強く、世の中の不都合を吹き飛ばしてくれるような気がしましたが、今日は逆に世の中の不都合なものを隠してしまうような、そんな風景です。
手賀沼対岸のお寺の朝6時の鐘がよく聞こえました。

コロナ時代を生きる「新しい生活様式」というのがお上から出されました。
おかしな話がまかり通る社会になってきてしまいました。
困ったものです。
もう完全に中世に戻った感じです。

3か月ほど見続けていたテレビのコロナ報道も、最近は繰り返しの話ばかりで、見ているとこれまで信頼している人まで崩れていくのを感じます。
停滞は、人を壊していく。
改めてそう思います。
コロナで活動量が激減した私も、どんどん壊れているのでしょう。

今朝の風景は、どうも現在の世相そのものです。
やはり自然は生きている、そう思いたくなります。
新型コロナウイルスは自然にとって、どういう役割を果たしているのでしょうか。

 

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2020/05/04

■節子への挽歌4585:みんなが心配しているようです

節子

暫らく会ってないOさんから映像とともにメールが来ました。

大変ご無沙汰しております。お元気なご様子をMLから拝読して、日々安心しております。いつもCWSに集う皆さまのMLから学ばせていただいております。本当にありがとうございます。
個人的に、なにか安らぎとなるものをお送りできればと思い、自然とともに演奏したハープの音楽をお送りします。お気に召さないかもしれませんので、お耳汚しになりましたらお許しください。

Oさんはテレビ局の若いディレクターです。
昨年は京都の三十三間堂の修復後のドキュメンタリーを制作したり、水俣のお能の番組を制作したりしていますが、テレビの番組づくりも今は大変のようです。
彼女がハープをやっているのは知っていましたが、その演奏を聴くのは初めてです。

まあそれはそれとして、メールによれば、「お元気なご様子をMLから拝読して、日々安心しております」とあります。
まさか彼女が心配しているとは思ってもいませんでしたが、先日は、別の人からこんなメールが届きました。

佐藤さんの動向?FBなどで拝見しています。畑の草取りを含めなんとかやっていらっしゃるようで何よりです。

「なんとかやっていらっしゃる」とはちょっとムッとしますが、この人も善意の塊のような人なのです。
コロナウイルスに関しては、私以上に周りの人たちが心配しているようです。
しかし、私はウイルスにも敵意は抱いていないので、向こうも私はお目こぼししてくれるでしょう。

それにしても、こんな風に、みんなから心配されてしまう歳になってしまっているわけです。
もう少し自覚しなければいけません。

 

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■節子への挽歌4584:コロナ狂騒

節子

コロナ騒ぎはますますおかしくなってきている気がします。
ともかくあまり実体のない数字をベースに議論していますので、わけがわからないのです。
さすがに一部の専門家は、おかしいと明言しだしていますが、現実は変わりません。
私が現に生きている世界と別の世界が、テレビで報じられているような気がしてなりません。

ですから私には「危機感」がなかなか出てこないのですが、しかしその一方で、突然死とか経済危機や医療崩壊の可能性が高まっているという印象は強まっています。

私自身は、気にしだしたのが1月下旬で、その時にはまさかここまでくるとは思っていませんでした。3月には市中感染率はかなり高まり、私も感染したのではないかと思っているのですが、むしろそういう感じからすれば、不安感はかなり低くなっています。
ヤマを越した感じがします。
もっとも感染者や死亡者はさらに増えるでしょうが、かなり知見はたまってきました。
きちんと対応すれば、感染の確率はかなり低くできるような気がしています。
むしろ何も知らずに自宅に閉じこもることの方が危険だと思っているほどです。

しかしそうはいってもなかなか外出はできません。
節子がいたら、きっと毎日、私は節子を誘って、出ていたでしょう。
もちろん他者との接触は最少化してですが。

感染者の発表数字は、私には低すぎる気がしますが、専門家会議の学者たちは相変わらず数字遊びから抜け出ていません。
根拠のない数字が国の政策を決めるというとんでもない状況が起こっているのです。
本当にこの人たちは科学者なのだろうか、詐欺師集団ではないかと思いたいほどですが、彼らも精いっぱい頑張っているのでしょうから、腹は立ちますが、同時に同情したくなります。能力以上の役割を引き受けてしまったのでしょう。

そもそもウイルスのことなど誰にもわからないでしょうから、わからないことはわからないと言いたのでしょうが、それが言えないのでしょう。
サロンをやっている益田さんの見識に敬意を表します。
わからないことはわからないと言って、みんなで話し合うほどの見識を持たなければいけません。

私ももっと気をつけなくてはいけません。
ついつい知ったようなことを言ってしまいがちです。
困ったものです。

 

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■「21世紀の平和憲法」(川本兼 三一書房 2300円)のご紹介

今年の憲法記念日は、新型コロナの陰に隠れがちでしたが、こうした時期であればこそ、ぜひ多くの人に読んでいただきたい本を紹介させてもらいます。
コロナ危機への対処の仕方も、変わってくるかもしれません。

湯島のサロンの常連の一人、川本兼さんは、長年、平和や人権の問題に取り組んできていますが、改めて「平和」に関するこれまでの論考を整理した「21世紀の平和憲法」を三一書房から今月出版しました。
かなり粘度の高い論考ですが、川本さんの独自の視点と時間をかけて取り組んできた地道な活動の成果のおかげで、読み終えると、なにか動き出したくなる、実践的なメッセージがこもった1冊です。
巻末に川本さんの日本国憲法改正私案も掲載されています。

川本さんは、戦後日本国民の「戦争そのもの」「戦争ができる国家」を否定する「感覚」を高く評価しています。しかし、それがアメリカからの「押しつけ憲法」の憲法9条とつながったことで、日本人は平和が実現したと「錯覚」してしまい、その「感覚」を普遍的な理念(思想)にしてこなかったことを問題にします。
そしてこのままだと、その平和の感覚も風化し、日本の平和運動は次世代にも世界にも広がっていかない。したがって、戦争体験を通じて獲得した日本国民の戦後の「感覚」に「ロゴス」としての「言葉」を与えてそれを思想にし、さらにそれを世界に発することが急務だと言います。
そして、そうしたことに向けて、行動を起こそうというのが、本書のメッセージです。
本書の帯には、「次世代、他国の人々にも受け継いでもらえる運動を構築するために」と書かれています。

川本さんは、日本国民の戦後の「感覚」が求めたその平和は、「変革を要求する新しい価値」だったといいます。つまり、戦争放棄だけでは平和は実現しないのです。
そのために、川本さんは、「戦争そのもの」を否定する新しい論理、「戦争ができる国家」を否定する新しい論理を、平和主義、革命、基本的人権、社会契約という切り口から、次々と展開していきます。
そして、そうした論考を踏まえて、最後に日本の現状を変えていくために、新しい平和憲法と新しい運動の主体について、具体的に提言しています。
類書とはかなり切り口が違いますので、新しい気づきも多いはずです。

話が多岐にわたるので、簡単には内容紹介できませんが、特に最後の「21世紀の平和憲法」を多くの人に読んでほしいと思います。できれば、川本さんの憲法改正私案もお目通しいただきたいです。

川本さんの憲法改正私案は、いささか挑発的です。
現憲法は第1章「天皇」から始まりますが、川本私案の第1章は「人および国民の権利及び義務」で、人権原理から始まります。これは近代憲法のスタイルです。
問題は、現憲法の第2章「戦争の放棄」にあたる第3章が、「自衛軍と国際協力」となっていて、自衛軍(自衛隊ではありません)の保持が謳われていることです、
「平和憲法」なのに自衛軍を認めるのかと思う人もいるでしょうが、その意図を読めば、たぶん納得する人は多いでしょう。そこに込められた川本さんの仕掛けには、私は若干の異論を持ちながらも、共感し納得しました。

いずれにしろ、いろんなことを考えさせられる本です。

コロナ騒ぎが少し落ち着いたら、川本さんの改正私案を材料にしながら、日本国憲法を話し合うサロンをぜひとも開催したいと思います。
本の案内チラシを添付しました。

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2020/05/03

■節子への挽歌4583:ウイルスへの親近感

節子

2日のウイルスサロンは定員を定めての開催でしたが、とても有意義でした。
細菌学者の益田さんがとても共感してくれて、2回目、3回目と開催しようということになりました。
マスクをしての参加を条件にしましたが、湯島の部屋の中では、益田さんが不特定多数ではないのだから、ここではマスクは不要だと言ってくれたので、マスクなしで行いました。
専門家がそういうとなんだかとても安心して、気が楽になります。

益田さんには、私が何回話してもウイルスへの理解が足りないと叱られていますが、かなり理解は深まってきました。
とりわけ居場所がなくて苦労しているウイルスの境遇への親近感が高まっています。
まさに人間の世界を見る感じで、どうしてみんなウイルスを敵などと考えるのだろうと不思議です。

しかしこういう状況になると、いつもとは違う、その人の側面が見えてくることもあります。ますます元気になってきている人もいます。

細菌学者の益田さんではなく、万葉集学者の升田さんは、最近、いつも花を持ってきてくれます。今日はオオデマリを持ってきてくれました。
こういう時だからこそ、参加者の心を和まそうという心配りです。
いろんな人のこういう思いが湯島のサロンのいいところです。
相変わらずZOOMを使ったらどうかというメールが来るのですが、いまのところは全く考えてはいません。

ちなみに今日は、紙コップを使ったり、小さなペットボトルを用意したり、お菓子類は出すのをやめたり、いろいろと工夫しましたが、そんなこともどうやら不要のようで、いつものように、やるのでいいかという気がしてきました。
ただし人数は制限していこうと思います。

久しぶりにいろんな人と話して、ちょっと気が明るくなりました。

 

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■湯島サロン「新型コロナウイルスとどう付き合うか」報告

細菌学者の益田さんにお願いして開催した「新型コロナウイルスとどう付き合うか」は時節柄、過密にならないように定員を決めての開催でした。
暑いくらいの日でしたので、部屋の両側のドアを開けて、風が通り抜けるような状況で行いました。

話をはじめる前に、益田さんは、1枚の絵をランダムに数枚に分断したものを渡して、それを復元させてはじめて全体の絵が見えてくることを体験させてくれました。
ウイルスも、部分をいくら見ていても正体はわからないということでしょうか。
テレビや新聞には、毎日たくさんの情報が流れていますが、それらは「部分」でしかありません。その部分情報に私たちは、振り回されているのかもしれません。
コロナ騒ぎの当初、「正しく恐れよ」ということが盛んに言われた時期がありましたが、あの言葉はもうみんな忘れてしまったようです。

私は、益田さんから、何回話しても理解しないなと言われていますが、そもそもウイルスのことはまだわからないことも多く、益田さん自身,わからないことはわからないと言いながら、ていねいに話してくれたので、さすがの劣等生の私もだいぶわかってきました。新型コロナへの共感も高まりました。

新型コロナは、これまで平和に生きていた宿主のコウモリとの関係を維持できなくなり、新たな宿主を人間に求め出したというところから、話が始まりました。
なぜコウモリとコロナウイルスの平和な関係が壊れたのかも興味ある話ですが、それ以上に、新しい宿主の人間との付き合い方がわからないで混乱を起こしているのだろうと、私はコロナウイルスに同情してしまいましたが、こういう受け取り方をしてしまうので、益田教授からは、文系は情緒的だと叱られるわけです。

そこから、ウイルスはどうやって増えていくのか、とか、遺伝子のセントラルドグマとか、アポトーシスとか、話は難しくなっていくのですが、参加者の理解の様子を確かめながら、質問を促してくれるので、なんとかついていけました。

後半では、新型コロナに関する現実的な話に移り、ワクチンの話や血栓の話、抗体と抗原、濃厚接触と濃厚感染、そして「少量感染」、手洗いとマスクの効用、さらにはこの状況の出口をどう考えるか、ソーシャルディスタンス、免疫力、既往症との関係など、質問に応じて、益田さんは他の病気の話も入れ込みながら解説してくれました。

私が一番印象的だったのは粟粒結核の話でした。
宿主である人間の結核菌に対する抗体作用が作動せずに、結局、人間と共に死んでしまう結核菌の話です。その話を聞いて、ウイルスと人間はやはり協力するべき関係なのだと改めて確信しました。

対話型のサロンなので、内容を報告してもあまり意味がありませんが(受け止め方も人それぞれです)、ともかく、私はとても安心しました。
終了後、参加者から、「ウイルスについて、専門家の方のお話を直にお聞きできるチャンスを作ってくださって大大大感謝です」「やっぱりお話を伺って良かった。こんな時だから、専門家からきちんとしたお話を聞いておかないと思います」などというメールが届きました。
私も同じで、むやみやたらに 恐れることはないと改めて思いました。

「益田先生のお話で「少量感染」を心がければ良いんだと、とても気が楽になった!」というメールも来ました。
問題は、どうしたら「少量感染」などという器用な対応ができるかですが、それはそれとして、「気が楽になる」ということは大事なことです。これは益田さんの意図に反するかもしれませんが、みんなそれぞれに自らの生き方を考え直す時間になったと思います。もちろん十分に感染予防に注意して、です。
益田さんに改めて感謝します。

ところで、今回は定員8人にしたため、参加できなかった人が少なくありません。
そこでもう一度、益田さんにお願いして、5月16日(土曜日)の午後2~4時に、同じようなサロンを開催することにしました。定員はまた8人に絞らせてもらいます。前回申し込まれて定員オーバーで参加できなかった方を優先させてもらいますが、参加ご希望の方は私宛(qzy00757@nifty.com)ご連絡ください。
確認のメールを送らせてもらいます。

Uirus20200502

 

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2020/05/02

■節子への挽歌4582:5月の愚痴

節子

かなり頭が混乱しています。
頭というよりも、気持ちかもしれません。
家族の問題でいろいろあって、ちょっとめげています。
コロナどころではありません。
そういう状況に自らがあると、コロナの捉え方は全く違ってきます。
コロナで元気になったという人の気持ちもちょっとわかるような気もします。
人は、実に弱いものです。

こんな書き方をすると、また誰かを心配させてしまうかもしれませんが、まあ時々あることですから、心配無用です。
ちょっと書いておきたいなと思っただけなのです。

しかし、そのせいかどうかはわかりませんが、1週間前から書いてきた時評編の「コロナ危機を活かす」を白紙に戻したくなりました。
何やら無意味のことを書き連ねてきたような気がしてしまったのです。
フェイスブックにまで紹介してきたので、今更、なかったことにはできませんが、かなり恥ずかしい気分です。

精神的にどうも安定しません。
困ったものです。
この歳になって、5月病でもないでしょうに。

ところで思いついて、「5月の愚痴」をネットで調べてみました。
5月病をこじらせないために、息抜き、気晴らし、人に頼る、愚痴を言うことは大切だという記事がありました。

また、岡山には「愚痴庵」というのがあることも知りました。
その愚痴庵も、コロナ騒ぎでいまはお休みのようです。
湯島で「愚痴庵」もいいかもしれません。
考えようと思います。

その湯島で、今日は1週間ぶりのサロンです。
気分が変わるかもしれません。

 

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■コロナ危機を活かす〔8〕振り出しへ戻る

コロナ危機を超えていく先にはいくつかの岐路があるという思いで、7回も書いてきてしまいましたが、どうもどこかで大きな間違いをしてしまっているような気がしてきました。
3つの岐路、「取り合いか分かち合いか」「自由か安全か」「同調か自律か」が適切かどうかというよりも、そもそも「岐路」というとらえ方が間違いではないかという気がしてきたのです。
困ったものです。

3つの岐路は、私の場合、問われたら即答できますし、その方向で、この数十年生きてきています。
取り合いか分かち合いかでは「分かち合い」を、自由か安全かでは「自由」を、同調か自律かでは「自律」を選んで生きてきているつもりです。しかもそれらが深くつながっているというのが、今回、これを書き出した時の思いでした。
しかし、書いているうちに、つながっているのではなく、すべては同じ事なのではないかと思いだしたのです。岐路というよりも、同じ道の裏表ではないか。

一番「岐路」的に見える、取り合いか分かち合いかを考えてみましょう。
理屈っぽく言うと、いずれも2つの世界の関係を言っています。
AとBという2つの世界があって、それぞれに住む人たちが、あるものを取り合うかシェアするかの違いですが、ではAとB、それぞれの世界の内部ではどうでしょうか。
対外的には「取り合う」関係でも、内部では「分かち合う」関係ではないのか、むしろ、内部の「分かち合い」のために外部に対して「取り合う」関係になってしまう。
Aが、個人の場合もありますが、人は一人では生きていけないので、「家族」「仲間」という形で、何らかの「分かち合う関係」は存在するでしょう。
そう考えていくと、「分かち合う」と「取り合う」も選択肢とは言えません。

と、いうようなことに昨日、気づいて、書けなくなってしまいました。
そんなわけで、最初からまた考え直すことにしました。
どうも問題は、「個と全体」の関係かもしれません。

少し頭を整理します。
コロナ危機に関しても、状況がかなり見えてきたような気がします。
私の認識の間違いもわかってきました。

ポストコロナというよりも、すでに変化は起こりだしているようです。
やはり変化は現場から始まるようです。

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2020/05/01

■節子への挽歌4581:庭の鉢花の整理をつづけました

節子

今年ももう5月です。
最近ようやくその実感が出てきましたが。

好天気に恵まれ、例年であれば、とてもいい連休になったはずですが、今年はコロナ対策で静かな連休です。
もっともわが家は、私が会社を辞めてからは、5月の大型連休は在宅が普通でした。会社時代は、連休はしっかりと予定を組んで旅行したりしていましたが、会社を辞めてからはむしろ、どこも混雑する大型連休は遠出は避けて、在宅か湯島でした。湯島に掃除に行くのも定例行事でした。いつもと違い、人の少ない都心は居心地もよかったです。

午前中は私一人だったのですが、庭の整理のつづきをやりました。
それにしても鉢が多い。
どんどん出てきますが、半分以上はどうも主役が枯れていて、なにやら別の花木が育っています。

鉢ではないのですが、イチゴを救い出しました。
プランターの野草にうずもれていましたが、4株ほどを植え替えました。
株が伸びてくれれば、イチゴがなりだすでしょう。

しかし1時間もやっているともう疲れてしまい、限界です。
そのうちにユカが帰ってきました。
今日はエヴィーバのテイクアウトでランチです。

午後、自宅で癌治療中の友人から電話。
コロナもあって病院は大変そうです。
なかなかきちんと見てもらえていないような気がしているようで、心配で電話をしてきたようです。
コロナばかりが騒がれていますが、病気はコロナばかりではありません。
それにもっと大事なこともある。

花鉢の整理も途中で終わりましたが、頭や気持ちの整理は、途中どころか混乱の真っ只中で、今日は何も整理できません。
困ったものです。
昨夜はあまり眠れなかったので、今日はもう寝ようと思います。

 

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