■節子への挽歌4615:重荷につぶされそうです
節子
新型コロナウイルスの感染防止のために行われた緊急事態宣言は解除されるようです。
私は昨日は湯島に行っていたのですが、娘から、我孫子は人がたくさん出ていたと聞きました。近くの公園はもとより、スーパーも駐車場が満杯で車を止めるのが大変だったそうです。行動自粛は長くは続けられません。
今日はちょっと気の重い話がつづいて起きました。
こういう時に一人では結構つらいものがありますが、まあそう甘えてもいられません。
いずれも結論が出たわけではないのですが、いまは気が弱くなっているせいか、へこんでしまいます。ここに書くわけにもいかずに、思わせぶりな書き方になってしまいますが。
考えようによっては、大した問題ではないのかもしれません。
とりわけひとつは経済的に解決できる問題です。
でもなぜか気がとても重いのです。私の生き方に関わっているからかもしれません。
私はこれまでみんなの「善意」に支えられて生きてきた気がします。
少なくとも「お金」に支えられる生き方ではありませんでした。
地位もお金もないのに、なぜかみんな私を善意で支えてくれていました。いや、いまもなお、です。
その「善意」に甘えすぎてきたのではないか、いや、いまもなお、甘えすぎているのではないかと、最近少し思うようになってきたのです。
私は、人はみな「善意」を持っていると確信しています。
その善意を信じていれば、裏切られることはないという確信があります。
実際には、その確信は裏切られたり、大きな被害を受けたりすることもあるのですが、それもまた肯定的に捉えようという生き方をしてきました。
もちろん、時に傷つけられることもある。その時、いつも、一緒に受け止めて元気づけてくれたのが節子でした。元気づけたと言っても、何かをしてくれたわけではありません。私の重荷やつらさをシェアしてくれたのです。
人は、どんな不幸もシェアしてくれる人がいれば大丈夫だと私は思っています。実際には、夫婦で命を断ったという人もいますから、そんなことはないのかもしれませんが、たぶんその最後の瞬間もまた、2人は幸せだったと考えれば、大丈夫だったのかもしれません。実際につい最近もそうした事例にも出会いました。
しかし、善意に支えられて長年生きてきたせいか、時に耐えようがないほど気が滅入ることがあるのです。
ちょっとしたつまらないことだとは思ってはいるのですが、どうしようもなく憂鬱になってします。
いまちょっとたくさんの重荷を背負いすぎてしまっているのかもしれません。
一つひとつは対して重くはないのですが、足腰がともかく弱くなっています。
それに、実は個人の存在を超えた、とんでもなく大きな重荷がだんだん見えてきたことも、その一因かもしれません。
困ったものです。
| 固定リンク
「妻への挽歌20」カテゴリの記事
- ■節子への挽歌5354:「畑に行かない券」のプレゼント(2022.05.30)
- ■節子への挽歌5353:81歳まできてしまいました(2022.05.30)
- ■節子への挽歌5352:落ちてきたひな鳥(2022.05.27)
- ■節子への挽歌5351:畑に2回も行きました(2022.05.26)
- ■節子への挽歌5350:元気がだいぶ戻りました(2022.05.25)
コメント