■節子への挽歌4593:自然の恩寵
節子
先日、根付いたとおもった日本イチジクの挿し木を大きな鉢に植え替えました。
ところがどうも植え替え方が悪かったようで、せっかく元気だった葉がしなだれてきてしまいました。
これまでお何回も枯らしているので、 今回は失敗できないと思っているのですが、いささか心配です。
イチジクに限らずに、生命は実にもろいものです。
今回の新型ウイルスも、突然に生命を断ってしまうようなことが報道されています。
思ってもいなかった人の突然の訃報が時々報道されます。
それによって多くの人は、改めて新型ウイルスへの恐怖を感ずるのかもしれません。
しかし、これだけたくさんの人がいる時代ですから、実は死は極めて日常的な事象です。
癌でも肺炎でも、いや自死でさえも、それによって、毎日たくさんの人が生命を断たれているのです。
それに比べれば、1日、数十名のウイルスの犠牲者は特別なことではありません。
にもかかわらず、こうして毎日死者の報道を受け、しかも時に知っている人の訃報まで報道されるとみんなの意識は自然とウイルスへと向かいます。
しかし、毎日どれほどの人が死んでいるかを知り、個人的に親しい人の実際の死を体験すると、死への感覚は全く変わります。
そして、死は決して非日常的なものではなく、ましてや避けられないものであるならば、それなりの覚悟ができてきます。
抗うことは無益なのです。
しかし、だからこそ、死に対する態度は誠実でなければいけません。
生命はもろいですが、しかし同時に、強靭でもあります。
枯れたと思った花木が、復活することもある。
そういうことを体験していると、「自然の恩寵」のようなものを感じることもあります。
「恩寵」などというと、キリスト教を想起してしまいますが、もっと大きな意味での「恩寵」があるのではないかと、最近、改めて感ずることがあります。
今回の新型ウイルス騒ぎで、宗教の話があまり出てきていないことにふと気づきました。
私の耳に届いていないだけでしょうか。
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