■節子への挽歌4618:分かち合う生き方
節子
昨日、敦賀にいる甥から消毒液が届きました。
次女の連れ合いが飲食店をやっているので、消毒液が必要だろうとたまたま手に入れたものをおすそ分けしてくれたようです。わが家に送られてきましたが、わが家はいまはあるので、次女にすべて渡しました。
マスクやトイレットペーパーもそうですが、基本的にはモノは十分にある時代です。
問題は「配分」で、その結果、手に入らない人が出てしまうわけです。
モノ不足パニックは、すべて私欲の結果だと思っていますので、何かが足りないような状況であればこそ、我慢できるものは我慢すれば、結局は必要な時には誰かから回ってくる、と確信しています。
そう言えば、昨日、友人が、地元の学校給食用の玉ねぎ農家の玉ねぎが廃棄されようとしているので少し買うことにした、と言って、私におすそ分けすると連絡がありました。
そういう申し出は一切遠慮しないので、「ありがとうございます」と伝えておきました。
モノ余りパニックも、人のつながりで解消できるはずなのです。
みんなが「分かち合う」社会になれば、格差などなくなるかもしれません。
しかし、そういいながら、私にはかなりの私欲があることも事実です。
時々、われながらいやになることもあるほどです。
というか、私欲にあふれた生活の結果がいまの私の生活環境をつくっているともいえます。
この15年ほどは、お金とできるだけ切り離した生活をしていますが、それが成り立つのもそれまでの収入のおかげです。
幸いにその貯金はそろそろ底を突いてきましたが、貯金がなくなっても今の生活スタイルを維持できるかどうか、ちょっと楽しみです。
いくつかのお金が必要な難問も現れ出していますので、私の信念が守れるかどうか、微妙ではありますが、まあこういうことは今回が初めてもありません。
さてさてどうなっていきますことやら。
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