■節子への挽歌4602:故人をネットで訪ねました
ふと思い立って、亡くなった蔵原さんのFBを見てみました。
ページは存続していて、新たな書き込みさえありました。
もちろん蔵原さんの書き込みではなく、友人の岡和田さんの書き込みでした。
しかし、なんとなくまだ蔵原さんがそこにいるような気がしました。
そこで今度は太田篤さんのページも見てみました。
太田さんに世話になったという留学生だった人の書き込みがありました。
というように、今朝はネットで、先に逝ってしまった友人のその後の消息探しをしていました。
そのなかには、私が書いた記事も出てきました。
リアルの世界からはいなくなっても、ネットの世界ではいなくなることはない。
ちょっと不思議な時間でした。
私も間もなく現世からは居なくなりますが、やはりネットの世界では残るのでしょう。
それもまた奇妙な感じです。
しかし、「残る」のと「残す」のとでは全く違います。
私の友人は、定年退職後、原爆で犠牲になった叔父のことを調べて本にしました。
残念ながら、彼もまた病気で亡くなってしまったために、その作品は自費出版はできましたが、彼が納得できる推敲はできなかったようです。
送られてきた本を読んで、彼らしくない未完成さを感じて、感想を送ったら、彼からの返事ではなく、息子さんからの訃報が届き、事情を知ることになりました。
死を予期して、急いでまとめて、出版したのでしょう。
いまは高林さんが父上の記録を書いている。
叔父にしろ父親にしろ、その記録を残すことは、自らの記録を残すことなのかもしれません。いや、むしろ、自分と叔父、自分と父との関係を残すという大きな意味がある。
私の周りにも、自らが生きていた証を残しておきたいと思っている人は少なくありません。私にはそういう気持ちが全くないのですが、「残る自分」ではなく「残す自分」の意味が少しわかるような気がしてきました。
現在のような情報社会においては、残そうとしなくても残ってしまう。その自分は多分、残したい自分ではないでしょう。
私は、どちらかと言えば、「残ってしまう自分」が好みですが、「残したい自分」がある人には、たぶん「残ってしまう自分」は好みとは違うのかもしれません。
ネットで生きている故人と彼岸で生きている故人。
ちょっと興味あるテーマです。
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